雨の日



 ざあざあざあ。ホントはそんなもんじゃない。言葉で形容するのが困難なくらいの土砂降りの雨。雨が屋根をうつ、ばらばらという音。
 その音で楊ぜんは目を覚ました。朝だというのに、まるで夕方みたいだ。空の色がひどく暗い。ぼんやりと窓の外を見ていたら、窓辺にたって雨を見上げていたらしい太公望と目が合った。
「なぁんだ。起きてしまったか。ひどい雨だのぉ」
「師叔。もう起きてたんですか」
「うぬ。少し前にな」
 そういった割に太公望はすっかり道服に着替え終えていた。
「おはよう、楊ぜん」
「おはようございます。太公望師叔」
 いつもの朝の挨拶。それから楊ぜんはパジャマ姿のまま太公望の隣に並ぶ。
 太公望はちょっと迷ってから、楊ぜんを抱き寄せる。
「のぅ、楊ぜん。前から言おうと思ってたのだが……」
「なんですか、師叔」
「そのパジャマ」
「悪趣味だって言うんでしょう」
 くすっと笑って楊ぜんが後半の台詞を引き取った。
「何だ。わかっておったのか」
 くすくすくす。困った太公望に楊ぜんは笑う。
「しかしなぜ、わかってるならそんなもの着てるのだ?」
 楊ぜんは顔に似合っておしゃれなところもあるから、好きで悪趣味なパジャマを着るのはなんだか変だ。それがたとえへやぎであったとしても。
「そんなものとはご挨拶ですね」
 楊ぜんはちょっと怒る。
「これはね、上から師匠が送ってくれた大切なものなんです」
 そういって楊ぜんはぎゅっと自分の身体を――というか、この場合はパジャマを――抱きしめる。
「玉鼎はそんなことまでするのか」
 驚いた太公望は思わずきき返す。それはなんと言うか、ききしに勝る親莫迦ではないか。
 ほぉう、あの顔でのぉ……。太公望は不謹慎にも笑い出しそうになったが、そんなことをすれば楊ぜんが怒るのは目に見えていたのでとりあえずぐっとこらえた。
「原始天尊様はなさらないんですか?」
 無邪気にも楊ぜんはそんなことを言う。
「するわけなかろう」
 原始天尊様お手製のパジャマ。……。欲しくないもののグランプリでもとりそうだ。少なくとも太公望にとってはそうである。そういうのは美形がやるから微笑ましくも見えるわけで、それを自分と原始天尊様に当てはめた場合は……ううっ、あんまり考えたくない。ギャグにもならぬではないか。
 気色の悪い想像を振り払おうと太公望は軽く頭をふった。楊ぜんがきょとんとしてそれを見ていた。
「にしても玉鼎も意外と趣味が悪いのぉ」
 何とか立ち直った太公望は、とりあえず言葉をつむぐ。
「普段はそんなことはないんですよ」
「そうなのか」
 疑い深くそういって太公望はパジャマ姿の楊ぜんを見る。じろじろじろ。いっておくが決して変な意味じゃない。
「はい。だけど、真剣に選ぶと変なもの買って来るんです」
「ふうん」
 くすっと太公望は笑った。
「ではそれは真剣に選んでくれたのだな」
「みたいです」
 頷いて楊ぜんはちょっとはにかんで、でもとっても嬉しそうに笑った。
 なんだか少し、嫉妬してしまいそうだ。
「のぉ、楊ぜん。わしは何にもおぬしに買ってやれなかったのぉ」
 お金もないし、はっきり言って手先もあんまり器用じゃない太公望は、考えてみれば今まで楊ぜんに何か贈り物をした経験はない。楊ぜんはたまにお菓子など作ってくれるのだけれど。
「いいですよ。そんなの」
 そうではなくて。
「わしが楊ぜんに何かやりたいのだ」
「だって師叔。お金持ってないでしょう」
 ううっ。なぜそんなこと知っておるのか。ちなみに太公望の全収入はほとんど桃につぎ込まれていたりする。
「服のボタンが取れちゃったときも、針に糸通せなくて結局僕がつけてあげましたよね」
 お裁縫なんかは普通、修行時代に覚えるものだが、太公望は自分とは正反対に器用だった普賢真人に頼っていたためそういうことが身についてない。
「しかし、わしは楊ぜんに何かやりたいのだ。だから楊ぜん。何でも欲しいものをいってよいぞ」
 だだっ子の様に太公望は言い放った。こうなったら自棄である。
 楊ぜんはちょっと困る。欲しいものなんて、今のところないし、だけどここでそんなこといったら太公望は悲しむだろうし、何か言ったって、どうにもできない太公望は結局困るのだろう。
 楊ぜんはぼんやりと窓の外を見る。相変わらずの土砂降りの雨。雨が葉を打つぱらぱらという音。外にはきっと、水溜りもできているのだろう。空気の中にも水が混じりこんでいる。水の匂いがする。
 あ。
「師叔。欲しいものは特にないんですけど……。僕のお願い、聞いてもらえますか?」
 ためらいがちに楊ぜんは尋ねる。
「良いよ。何をして欲しいのだ?」
「嫌だったら、嫌って言っていいんですよ」
「言うわけなかろう」
「だけど、きっと変なこと頼むから」
 変なこと?熊のきぐるみでも着て西岐城を一周してくるとか。うぬぅ。蝉玉あたりに見つかると、ちょっと大変だのぉ……。あるいは……
 太公望が莫迦な想像をしていると、楊ぜんは言う。
「外に出たいんです」
 太公望はきょとんとして、それから窓の外を見る。
 雨が降っている。ひどい音を立てて。
「よーぜん?」
「こういう、土砂降りの雨が降るとね、外に飛び出したくなるんです」
「外に?」
 こくん。楊ぜんは頷く。
「濡れてみたいんです。雨に」
 くすっ。笑って。
「変ですよね」
 だけど。
「ねぇ、師叔」
 つれてって、外へ。
 その顔がなんだかすごく淋しげに見えたから、太公望はぎゅっと楊ぜんの手をつかむ。
「行こう。楊ぜん」
 外へ。



 そして二人は部屋を抜け出す。

 土砂降りの雨に濡れるために。



   ☆



 外は、ひどい雨だった。痛いくらい身体を打つ雨。眼を開けているのが困難なほどの。
 まわり一面の深緑。雨に打たれて不思議と輝くように。まるで喜んでいるかのような緑。
 ぽたぽたぽた。前髪からもしずくが落ちる。握った手も雨にぬれて。服が身体にまとわりついて、ひどく重い。
 パジャマのまんまの楊ぜんは手のひらを空にかざす。雨を感じるように。
 びしょぬれの二人は、お互いの姿を見てそしてくすっと笑った。楊ぜんの長い髪は水にぬれて、てらてらと光る。
 子供みたいに空を見上げる楊ぜん。パジャマはぺったりと楊ぜんの身体に張り付いて、細い線がいっそ痛々しいくらいに見える。
 太公望はその髪に手を伸ばした。
「よーぜん」
 雨の音はひどくうるさい。大声を出してそれでも聞こえないくらいに。
「師叔?」
 だから太公望は思いっきりの大声で叫んで。突き上げてくるような衝動はきっとこの土砂降りの雨のせいだ。なぜかたまらなく、いっておきたいことがある。今、どうしても、いっておかなくてはいけない気がする。
「おぬしが」
「え、何?」
 聞こえないのだろうか。声を張り上げる。
「好きだ」
 雨の音に負けないように。
 きっと雨はたまらなく人を素直にさせるのだ。おなかの中に、思いを抱え込んでいることなどできないくらいに。つまらない感傷も何もかにも押し流してしまう。だから後に残るのは、ありのままの自分だけで。だから雨は浄化なのだ。人の心をも浄化させて。
 土砂降りの雨の中、楊ぜんは太公望に抱きつく。
 抱き合った二人の上にも雨が降る。
 だけれど、容赦なく降る浄化の雨は。
 それでも少しだけ。
 暖かかった。
「師叔、また一緒に雨にぬれてくれますか?」
 耳元で楊ぜんが囁く。雨にぬれて消えてしまいそうな声。だから余計にぎゅうっと抱きしめて。
「おぬしがそうしたいのならいつでも」
 楊ぜんはくすぐったそうにくすくす笑った。



   ☆



 手をつないでもと来た道を戻る。道はぬかるんでちょっと歩きにくい。雨はほんの少しだけ、小降りになっていた。
 城のほうから声が聞こえてきた。
「あーっ。いたよぉ。たいこーぼーと楊ぜんさん」
「太公望。あなたは朝議というものが何時から始まるのかご存知ですか」
 ハリセン握り締めて周公旦が言う。
「ったく。探したさ、二人とも」
「そぉよ。てっきり駆け落ちでもしたのかと思ったんだから」
 愛の逃避行、ロマンねー。と蝉玉が呟いたので、隣にいた天化がギョッとした顔をした。
「逃避行って、あのモグラとさ?」
「そぉよ。悪い?」
 横目で蝉玉が睨みつける。
「ばーか」
 そう太公望にいって、姫発は楊ぜんにタオルを投げる。
「わしには?」
「お前は自然乾燥で十分だろうが。大体楊ぜんをこんな雨の中外へ連れ出すなんて、風邪でも引いたらどーするんだよ」
「責任持ってわしが暖めるっ」
「武王違うんです。僕が……」
「楊ぜん。お前はとにかく着替えろ」
 楊ぜんはちょっと困ってから、とりあえず太公望にタオルをかぶせる。
「だからそんなやつ拭いてやることないって」
「ほほぅ。うらやましいのだな。姫発」
 優越感いっぱいで太公望はにやにやする。
「だが姫発よ。わしはおぬしにとっては父も同然。ならば楊ぜんは母も同然であろう。父と母が中が良いのは子としては嬉しいものであろう」
「やだ。師叔、そんなぁ」
「誰が父親だよだれがっ」
「照れておるのぉ。反抗期かのぉ」
 にょほほほほと太公望は笑った。
 姫発が軽く上げた手を、太公望は慌ててよける。そのまま楊ぜんをつれて走り出した。
「ああっ。逃げたさ!」
 ってなわけで愛の逃避行。
 もちろん二人は簡単につかまって、周公旦にみっちりお説教を食らう羽目になる。

 だけど、心なしか二人が嬉しそうに見えたのは、きっと周公旦の目の錯覚じゃないと思う。

end.

novel.