微熱



 そっと冷たい手のひらが前髪を掻き分け額に触れた。はっとして太公望は手のひらの主を見上げる。どうやら朦朧としていたようだ。木簡には筆が滑ったためか奇妙な模様が描かれてしまっている。
「熱がありますね」
 そういって楊ぜんは額から手を離した。冷やりとした心地よい感覚が消えてしまったことを、太公望は少しばかり残念に思う。整った顔は太公望を心配そうに見つめている。こういう表情の楊ぜんは滅多に見られるものではない。じっくり堪能しておこうと、熱で鈍くなった頭で太公望は莫迦なことを考える。
「僕がまとめられるところまでは僕がやっておきます。だから、師叔は休んでください」
 これはまた、珍しいことを。
「大丈夫だよ、楊ぜん」
 室内で椅子に座ってやる仕事だ。熱といってもたいした事はない。
「駄目ですよ。あなたに倒れられたら困るんです」
「わしはそんなにか弱くはないよ」
「ずっと熱があるのでしょう」
「なんだ。気づいておったのか」
 風邪が完全に治っていなかったとか、そんなところだろう。たいしたことはない。
「休んで完全に直してください。兵士や文官にうつったら困ります」
 なんだ、わしのことを心配しておったわけではないのか。太公望は少しばかりがっかりする。
「あなたが倒れたら、僕が困ります」
 こやつ可愛いことを。
 うつらうつら。
 わしはそんなにか弱いわけでは――
 不意に。
 不意に気が遠くなった。

 

    ☆

 

 白い寝台。気がつけば殺風景な自分の部屋にいた。運んでくれたのは楊ぜんだろうか。どこに行ったのだろう、あやつ。付き添っておればよいものを。わしが倒れたら困るのではなかったか。それならば勝手に困っておればよい。
 自分でもかなりワガママな言い分であることはわかっている。すべては熱のせいだと太公望は決め付けた。
 どこかですずめが鳴いている。物好きな女官が餌付けをしているらしい。
 静かである。忙しい日常から自分ひとり切り離されてしまったようだと太公望は考える。まるで広い海を漂流しているようだ。
 軽いノック。仙気を消している。楊ぜんだろうか。仙道は修行が終わってからも仙気を消したまま忘れていることがある。
「あいておる」
 たぶん。と太公望は心の中で付け加えた。実際に確認したわけではない。しかし外から鍵をかけていったとも思えない。
「よぉ。師叔大丈夫さ?」
 入ってきたのは天化だった。
「なんだ。楊ぜんではないのか」
「ご挨拶さね。せっかく楊ぜんさんからこれ預かってきたのに。いらないなら俺っちがもらうけど?」
 そういって天化は桃を一つ太公望に放り投げた。太公望は慌てて受け止める。
「だあほ。桃を投げる奴があるか」
 受け取った桃はただの桃じゃなかった。仙桃である。どこからもってきたのだろう、あやつ。
「それ食べておとなしく寝てろって楊ぜんさんからの伝言さね。じゃ、早く良くなるさ、師叔」
「楊ぜんは来ぬのか」
 立ち去りかけていた天化はきょとんとして振り返った。
「さっき、周公旦様に食って掛かってたさ。あの人も、ああいうことするさね」
 ……?
「ああ、だから師叔をちゃんと休ませろ、その分は自分が責任持つからって。せっかく楊ぜんさんがそこまでしてくれたんだから、病人はおとなしく寝てるさ」
 太公望が抜けた分の仕事を一番的確にこなせるのは楊ぜんだ。だから太公望の抜けた分はそのまま楊ぜんが背負う。故に楊ぜんは忙しい。太公望の傍にいるゆとりがない。
 そんな簡単な図式が、言われるまで浮かばなかった。熱のせいだろうか。頭に真綿でも詰まってしまったようだ。
 そしてそれがわかっても、なんだか理不尽に悔しい。まるで八つ当たりだ。どうして楊ぜんは傍にいないのだろう。わしのことが心配ならば、あやつはやはりここにいるべきだ。仕事などここに持ってきてやればよいのだ。
 ああ。まるで子供の言い分だ。
 手にもった桃はひんやりと冷たい。楊ぜんのように。太公望はそれに軽く歯を立てた。甘い香りが口の中に広がった。

 

     ☆

 

 控えめなノックに目を覚ました。ゆっくりと起き上がる。いつのまにか眠っていたようだ。随分眠っていたらしい。疲れていたのだろうか、やはり。
 戸の向こうの気配。今度はわかる。仙気を消していないから。楊ぜんだ。
 太公望は返事をしなかった。じっと戸をにらんでいた。
 戸の向こうでわずかばかりの逡巡。それからゆっくりと戸が開く。
「なんだ。師叔。起きていらしたんですね」
 静かに微笑んで楊ぜんは戸を閉める。
「お加減はいかがですか」
 太公望は黙っている。楊ぜんは戸惑ったように首をかしげる。それから、失礼します、と小さく声を掛けて太公望の額に手を当てた。
 ひんやりとした冷たい、だけれどやわらかい手のひらの感触。
「下がりませんね」
「もう治っておる」
 八つ当たりのように太公望は呟く。
「明日も……」
「治っておるといっておろう」
 太公望は楊ぜんの台詞をさえぎった。
「治ってないじゃないですか、ちっとも」
 少しばかり怒ったように困ったように、楊ぜんが言った。ちゃんと寝てなかったんですね。
「おぬし、ずっとわしをこの部屋に閉じ込めておくつもりか」
 ああ、これは完全な八つ当たりだ。楊ぜんは心配していってくれているのに。
「何ですか、それ」
 白いおもては太公望をにらみつける。すっと細くなる薄い紫の瞳。違う。こんな視線は嫌いだ。
「仕事などわしに押し付けて置けばよい。おぬしがすることなどないではないか」
「熱で頭の働かないあなたに仕事をさせるくらいなら、まだ武王に全部やってもらったほうがマシです」
 言われると黙っていることのできない楊ぜんはきっぱりと言い切る。怒っているようだ。怒っているのはむしろこっちだ。
「おぬし姫発に気があったのか!」
 上半身、太公望は起き上がる。歯止めが利かない。細かいことが気に障ってしょうがない。
「そんなこといってるんじゃないでしょう!」
 楊ぜんは大声をあげ、病人相手に大声を上げたことに気がついてぎゅっと口を噤んだ。
「僕はあなたが心配なだけです」
 大きな紫の瞳。何故、こんな。今すぐにでも泣き出してしまいそうな顔をしているのだろう、楊ぜんは。もっともっと怒ればいいものを。理不尽なことを言って楊ぜんを困らせているのは太公望なのに。
「だあほ。ならばわしの目の届かぬところにおるでない」
 何を口走っておるのだ。太公望は自分自身の言葉に混乱する。これでは本当に子供みたいだ。
「わしのことが心配ならばずっとわしの傍にいればよい。おぬしの姿が見えないのに、わしの熱が下がるわけなかろう」
 言っていることは滅茶苦茶。支離滅裂にもほどがある。だけれど言葉は止まらない。いったん口に出した言葉は取り戻せない。最低だ。これではまるで――
 楊ぜんはきょとんとする。
 それから楊ぜんは静かに微笑んだ。寝台の傍により、端のほうに腰掛ける。太公望に向かい合うように。やんわりと、寝癖のついてしまった太公望の髪を撫ぜる。聞き分けのない子供にするみたいに。こつん。おでことおでこをくっつけて。
「そうですね」
 そして、そっと太公望を抱きしめた。
「ごめんなさい。師叔」
 衣服を通して伝わる楊ぜんの平べったい胸はわずかに温かい。白い手はあんなにもひんやりとしているのにどうしてだろう。
「もう、一人にはしませんから安心してください」
 べしっと軽く太公望は楊ぜんを叩いた。
「だあほ。それではまるでわしがおぬしにわがまま言って甘えているみたいではないか」
 楊ぜんがかすかに微笑んだような気配がした。
「おぬしそう思っておるのだな」
 今絶対、しょうのない子供だと思ったのだ。
「思っていませんよ」
「どうかのぉ」
「絡まないでくださいよ。熱があるんだから少しくらい甘えたっていいじゃないですか。僕は嬉しいですよ」
「ほれ、やっぱり思っておる。いっつも甘えてくるのはおぬしのほうではないか」
「な、何言うんですか師叔。そんなことないですよ」
 ほれみろ、動揺しておる。動揺するのは心当たりがあるからではないか。心の中で太公望は決め付ける。おぬしはそうやって動揺しておればよい。おぬしの方がずっとずっと子供なのだから。
「何を言うか、お化けが怖いといって人の布団にもぐりこんできたのは誰だったかのぉ」
「あ、そういうこと言うんですね。師叔。もう知りません」
 ぱっと、楊ぜんは太公望から離れようとした。すねてしまったようだ。白い肌に軽く上気した頬は、なまめかしくも美しい。
「だあああっ。楊ぜん、行くでないっ」
 ぐいっと太公望は楊ぜんの袖を引っ張る。
「しばし、このままでおれ。わしは熱があるのだからな」
 楊ぜんは太公望に気がつかれないように小さくため息をついた。熱があるからですか、師叔。
「はい。師叔は熱があるようですから、僕はあなたが眠るまでここにいるとしましょう」
「だあほ。目が覚めるまでだ。熱があるのだといっておろう」
「……。わかりましたよ」
 もう一回楊ぜんは小さくため息をついた。
 天邪鬼。と心の中で呟く。素直じゃないんだから。

 

    ☆

 

 翌日。太公望の熱はしっかりと下がった。
「はあっ。楊ぜん、わしはまた熱が出たようだ。もう仕事ができそうにない。しばし休むゆえ……」
「では、僕もご一緒しましょう」
「いや、おぬしは……」
「だって、僕がいないと師叔の熱は下がらないのでしょう」
「……鬼」
「何か仰いましたか?」
「いや……」
 軍師様のさぼり癖もなくなり周は平和である。

end.

novel.