chess
「待った」
「やだ」
「よーぜん」
「駄目です。待ったは無し。何度目だと思ってるんですか師叔」
うぬぅと唸って太公望は、どうにでもなれと言わぬばかりにポーンをチェス盤の上に叩きつけた。
「八つ当たりは良くないですね、師叔。ほんっとに弱いんだから。チェックメイト。僕の勝ちです」
楊ぜんはにっこり微笑む。八方手詰まり。太公望に打つ手はなかった。
何をやっているのかといえば西洋将棋なのだ。軍師様はどうしたことかこの手のゲームで楊ぜんに勝ったことがない。逆にいえば盤上では太公望に勝つことの出来る楊ぜんが、実際の戦法では太公望にまるでかなわないのは、それだけ生きて動く人間と言うものがわかっていないということにもつながるのだろうが、そんなことに思い当たっているのかいないのか、楊ぜんはきわめて無邪気にはしゃいでいた。
「のぉ楊ぜん。もう一回」
楊ぜんが楽しそうなのは嬉しいが、男にはくだらないプライドと言うものがあるわけで、太公望は楊ぜんにくいさがってみる。
「駄目ですよ。明日は早いんだからもう寝ないと」
「うぬぅ……」
しかし、毎回毎回こう負けてばっかりではいられない。と言うわけで太公望は考えた。
「そうだ。賭けをせぬか?」
「賭けですか?」
楊ぜんは怪訝そうな顔をして眉をひそめる。いい子のお坊ちゃんとしては、博打などに手を染めたいとは思わないのだろう。
「うぬ。こうなったらわしの全財産を賭ける」
太公望は大見得を切った。が。
「嫌ですよ」
楊ぜんはあっさりとそれを交わしてしまう。
「師叔の全財産って、借金の方が多そうですから」
身もふたもない台詞に太公望はがっくりとうなだれた。
「ううっ。どーせ、わしは物欲に乏しいのだっ。宵越しの銭は持たぬ」
それ、なんか違う、と思いつつも楊ぜんは黙っていた。少し言い過ぎただろうかという気がしたから。そして、もう一つ、とってもいいことを思いついてしまった。
「ねぇ、師叔。こういうのはどうですか?今度、僕が勝ったら師叔は何でも僕の願いをかなえてくれなくちゃいけない」
「何でもと言うと?」
「そうですね。たとえば、僕がチューリップが見たいといったら師叔はチューリップの花束を抱えて僕のところに持ってこなくてはいけないんです」
「今は秋であろう。チューリップなど咲いておらぬよ」
「それでも、師叔は僕のために走り回らなくちゃいけない」
「たいそうなご趣味だのぉ。わしに無理難題を押し付けてわしがあたふたするのを見物でもするつもりか」
太公望は苦笑する。
「僕のためにだけ走り回るあなたが見たいんです」
太公望はちょっと虚を疲れたような顔をした。
楊ぜんはほんの少し顔を伏せる。
「一回だけ、僕に我侭を言わせてください」
表情は見えなかった。
それから楊ぜんはくすっと笑う。そして顔を上げた。
「だって、困りきったあなたなんて、そう見られるものじゃないから」
「悪趣味だのぉ」
太公望は笑って、立ち上がると楊ぜんの額に自分の額をくっつける。
「そのようなことを言って、おぬし、わしが勝ったらどうしてくれるのだ?」
楊ぜんは上目遣いで太公望を眺め、甘えるように言った。
「師叔のためにチューリップを持ってきて差し上げます」
「わしはチューリップはいらぬよ」
「チューリップはお嫌いですか?」
「いや。だがもっといいものが好い」
そしてぎゅうっと楊ぜんを抱きしめる。楊ぜんは赤くなってその腕から逃げようとするかのように身をよじり、抜け出せないとあきらめて一つため息をついた。
「では、師叔の我侭を聞いて差し上げます」
太公望は楊ぜんの額にチュっと軽く口付ける。
「その言葉、忘れるでないよ」
くすぐったそうに楊ぜんは笑う。
駒を並べなおしてゲームの始まり。
「師叔、真剣ですね」
くすっと笑って楊ぜんは太公望をからかう。
「まぁのぉ」
「ただのゲームなのに」
「寒い中チューリップを探し回るのは嫌だからのぉ」
軽く呟きながら太公望はポーンを手にとる。薄ら笑いの表情を作りながらも目だけは真剣で、楊ぜんはどきりとした。
「そんなに嫌ですか?」
楊ぜんはすねたような声を出す。とん。駒を置く音が妙に響いた気がした。
「楊ぜんに我侭を聞いてもらえる機会など、滅多にないからのぉ。ほれ、おぬしの番だ」
「ずいぶんと僕にご不満があるようですね」
とん。
「いや」
「ねぇ、師叔。……勝ったら、どうするの?」
盤面をにらんでいた太公望が顔を上げる。ので、楊ぜんはまたどきんとした。
「あなたが、僕に我侭を言うなんてちょっと信じられないから」
大きな瞳に見つめられると、楊ぜんは上手く言葉がしゃべれなくなる。
「師叔は欲なんてなさそうだし僕に執着なんてしてないでしょう」
一体、何をしゃべっているのだろう。
「どうして、そう思う?」
「あなたは、優しいから。でも。優しいだけだから」
ぐいっ。
不意に太公望は身を乗り出す。チェス盤に手をついたから駒がいくつか転げ落ちる。とっさのことに楊ぜんは目を大きく開く。あ、なんだか猫科の動物みたい。頭の片隅でそんなことを考える。
でも猫じゃない。肉食の、もっと大きな。
だから、食べられてしまう。
くいっ。おとがいに手がかかる。上向かされて、きっと自分はとても間の抜けた顔をしているのだろう。だけれど、そう思ったのはほんの一瞬。次の瞬間振ってきた口付けは、噛み付くような貪るようなものだった。
口の中で何かがのたくっている。ついていけずに頭ががくりと動く。息が出来ない。
頭の中がしびれていく。何が起こったのか理解できない。
怖い?否。そんなことを考えるゆとりはない。
そのくせ、頭の片隅では、こぼれてしまった駒のことを考えている。あーあ。ゲーム。駄目になってしまった。
唇が離された後も楊ぜんはぼんやりとしていた。
霞がかった頭の中で痛い。と思った。太公望が楊ぜんの両肩をつかんでいるのだった。痣になっているかもしれない。それくらい強い力だった。
「次は何をして欲しい?」
耳元で太公望の声がする。楊ぜんは答えることも出来ず、驚いたようなまなざしでじっと太公望を見ていた。
そんな楊ぜんに太公望はたちまち後悔した表情になる。
「すまぬ。しかし、おぬしにわしはそんなふうに写っていたのか」
肩をつかんだ力が抜けていく。
「わしは優しくなどない。だが、おぬしに優しく出来ぬようになるのが怖いだけだ。わしはおぬしを傷つけてしまうやもしれぬ」
「師叔?」
「おぬしは可愛いよ。しかし、ちと鈍感すぎる。わしがおぬしを傷付けぬように自分の欲に必死で耐えていることなど、おぬし全然わかっておらぬだろう」
「どうして?耐えることなんかないでしょう。僕は傷つくのなんか怖くありませんよ」
「わしは怖いよ。おぬしが傷つくのがすごく怖い」
「傷つきません」
子供みたいに楊ぜんは言い張った。
「我侭、言ってくださいよ。僕ばっかりいつも師叔に甘えてるなんて嫌です」
「ではわしが常々いつも何を考えているか教えてやろうか。おぬしはわしのことをきっと軽蔑するよ」
まるで、師叔は僕に怖がって欲しいと思ってるみたいだ。不意に楊ぜんはそんなことを考える。だから。
「しませんよ」
挑むように楊ぜんは言う。何かの光を反射して目がきらりと光った。
「おぬしを閉じ込めておきたいと思っておる。誰の目にも触れぬように。誰にも触れさせぬように。わしだけのものとして」
また、肩に置かれた手に力がこもる。痛い。だけれど。
楊ぜんはそぉっと手を太公望に回した。
「そうしてみたらいかがですか」
囁くように。
「チェスに勝ったら、僕を師叔に差し上げます。師叔だけのものに。師叔の好きにしてかまわない」
ひょっとしたら僕は、とんでもないことを言っているのかもしれない。そんな不安がわずかに頭の中をよぎって。だけど。
「我侭を聞いてくれるのか?」
怖いような目で太公望は言う。
「勿論」
そして、ゲームは始まる。
☆
くすっ。くすくすくす。
一人っきりの部屋の中で楊ぜんは笑っている。
今ごろ太公望はきっと太乙様のところにでも行って、チューリップを探していることだろう。最悪の場合、雲中子様のところにまで行かなきゃならなくなるかもしれない。
ねぇ師叔。あなたが悪いんですよ。あなた本当にチェス、下手なんだもの。それなのに何で実際の軍師が勤まっちゃうんでしょうね。
負けてもいいかもしれないと思った。否、むしろ。負けてみたいと思った。わざと負けてみようかとも。
だけれど、それってフェアじゃないもの。真剣勝負でそういうことされるのって、あなた一番嫌いでしょう?
だから絶対に手を抜いてなんかあげない。
外は寒いから、チューリップの花束を抱えて帰ってくるあなたのために、甘い紅茶でも用意しておきましょう。砂糖は三つでしたっけ?紅茶に砂糖入れて飲む人ってはじめはちょっと信じられなかったな。
チェス。またやりましょうね。
今度は
勝ってくださいね。
僕は絶対に手を抜かないけれど。
end.
novel.
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