escape
カタカタとキーを打つ音だけが室内に響く。さっきからずっと続いていたその音は、不意にいったん止まった。
はぁっとため息をついて楊ぜんはうーんっと一回伸びをする。それからちょっと恨めしそうにたまっちゃった書類の山を眺めた。
言い訳をさせてもらえるならば、別に楊ぜんが無能なわけでも、昔の誰かさんみたいにサボっててためちゃったわけでもなくて、ただ開始したばっかりの蓬莱ではすべてが試行錯誤で問題も多いというそれだけの話なのだ。システムがしっかりしていないから教主の負担が多くなるのである。そしていつのまにか書類が増殖していくのだ。
楊ぜんは一番上に乗ってた書類を取り上げる。そしてうんざりしたようにもう一回ため息をついた。
その時。声がした。
「どうしたのだ、ため息などついて」
その声はあんまり自然に響いたものだから楊ぜんはついうっかり返事などしてしまったわけなのだけれど。
「そうはおっしゃいますけどね、師叔……って。何でいるんですか!」
惰性で答えてから楊ぜんは声のしたほうに振り返る。
なぜか窓枠に頬杖ついて手を振ってる伏羲におどろいて、楊ぜんは机にもたれるように後ずさりし、結果書類が机から滑り落ちてしまった。
「幽霊ではないよ。わしは生きておるから怖くないであろう。そんなに後によらなくとも」
近くに来いとでも言うように彼は楊ぜんに手招きした。 楊ぜんは床に散らばった書類を拾い上げる。それから、思いっきり太公望――否、伏羲をにらみつけようとした。死んだはずのその男のそのにやけけたような顔にどうしようもなく腹が立った。だけれど、その半面彼が生きていたことに嬉しくて泣き出してしまいそうだったから、思いっきり。
「今さら何しにきたんですか」
できるだけそっけなくしてやろうと思った。だって楊ぜんは怒っているのだ。伏羲なんかのペースにのせられてたまるものか。否。本当のことを言うと、そうでもしなければ、楊ぜんは今すぐにでも伏羲に――太公望にだきついて無事を確かめたかったのだ。でも、邪魔なプライドがそれを妨げて、ついつい可愛げのない反応をしてしまう。
だけど伏羲は楊ぜんの問いをあっさり無視した。
「そぉか。では楊ぜんは死んだはずのわしのためにずっと一人身でいたのだな。かわいいのぉ」
一人で悦にいって伏羲はにやけている。
楊ぜんはそれがますます腹立たしくて、ついむきになる。
「べつに、あなたのことなんか少しだって未練なんかありませんよ。大嫌いですよ。誰かさんがいなくなっちゃったせいで、忙しくって色恋沙汰なんかに現をぬかしてる暇がなかっただけです!」
だから、この時点ですでに伏羲のペースにのせられてることに楊ぜんは気づいていない。
「そうか、そうか。しかし、殷周革命もずいぶんと忙しくて大変だったのぉ。のぉ、楊ぜん。現をぬかしている暇などなかったかのぉ」
伏羲は意味ありげに楊ぜんを眺めた。
楊ぜんはちょっと言葉に詰まる。ちなみに現をぬかしている暇などないはずのときに二人がいちゃついていたことは周知の事実だったりする。
伏羲は窓枠を乗り越えて、部屋の中に入ってくる。
楊ぜんは後ろに下がろうとして、でも机のせいでそれができなかった。せっかくまとめた書類が、またばらばらと床に落ちてゆく。
「おぬしは可愛いよ。だからそう逃げるでない。傷つくではないか」
伏羲は楊ぜんの髪の一房取り上げると、その毛先に一つ口付けた。
そのしぐさがなんだかたまらなく淫らに思えて、楊ぜんは刷毛で塗ったように赤くなる。
「止めてください、師叔」
声がかすれるのがもどかしい。突き飛ばして逃げ出したいと思う反面、喜んでる自分もいるのだ。そんな自分すら憎らしく思えてくる。
人のことを散々もてあそんだ挙句勝手にいなくなってしまったくせに。楊ぜんに何にも言わず、消えてしまったくせに。
今さら、何をしに来たというのだ?
「何をしに来たといったな」
伏羲は口の端を吊り上げるようにして笑った。目だけは、楊ぜんを捕らえたままで。
「おぬしをさらいに来た」
だけど。目だけは、笑っていなかった。
開け放たれた窓から、涼やかな風が流れてくる。
「ご冗談を」
かすかに笑ったつもりだったけれども、ほんの少し口の端が引きつっただけだったのかもしれない。楊ぜんはそれでも何とか笑おうとしたのだが、意に反して顔の筋一つ動かすことはできなかった。
「わしは冗談など言わぬ」
「無理です。知ってるでしょう。僕は教主なんです」
それに今さら。
「だあほ、おぬしはわしにさらわれるのだ。さらわれるほうの都合など知らぬ」
伏羲はカカカと笑った。
「そんな、師叔!」
楊ぜんは伏羲を睨みつける。
「面倒な仕事など、燃橙か張けいにでも任せておけばよい。それに何より」
「え?」
「おぬしすでにわしにさらわれる気になっておるではないか」
そうなのだろうか。
楊ぜんは伏羲にさらわれたいと思っている?
どんなに嫌いだと、未練なんかないといったところで、断ち切れるほどの弱い想いではないのだから。否。嫌いだとこだわってしまうそれすら、好きという感情の裏返しに他ならないのだから。
「おぬしを連れて行きたい場所がある」
伏羲は楊ぜんの手をとる。
結局楊ぜんはそのてを、振り払うことができなかった。
「行こう楊ぜん」
「師叔、まっ……」
待って、そういおうとしていえなかったのは目の前で極彩色の風船がはじけたような、妙なショックがあったからだ。無重力状態で身体がふわりと浮くような感覚に楊ぜんはたまらず伏羲にしがみついた。
☆
伏羲は笑っている。
楊ぜんは伏羲をにらみつけようとしたのだが、伏羲に抱きついたところを抱え込まれるようにして伏羲に抱きしめられてしまったため、いささか格好がつかなかった。
「どうだ、楊ぜん。始祖の力はなかなかすごいものであろう」
目の前には水が広がっている。地平線が丸く見える。空と水の境界が見えない。足元には白い砂。どこまでも続く海岸線。潮の匂いがする。波の音が聞こえる。
海なのである。
「暑いです」
楊ぜんは憎まれ口を叩いた。もっとも、実際に暑かったのでもあるが。
「だあほ。夏は暑いのだ。おぬし、毎日あんな冷暖房完備のところにいたら本当にお姫様にでもなってしまうぞ」
「そうじゃなくって、あなたがいつまでも離してくれないから暑いんですっ」
つまらぬのぉ……といいながら伏羲は楊ぜんに回した腕を緩めた。
「海ですね」
「おぬしが生まれたところだ」
「そうですね、金鰲は確かに海の上にありますから」
懐かしそうに楊ぜんは言った。
「そういう意味ではなかったのだが……」
「師叔?」
「この星の生き物は皆、ここから生まれたのであろう」
果てしなく海は広く、深く。
「わしはこの星が好きだよ。だからこの海も好きだ」
伏羲は海を見つめて呟いた。
「あなたも、同化したかったんですか。この星に」
いや、いまからでも遅くない。同化してしまうことだって、伏羲にはできるはずなのだ。
嫌だ。不安なのだ。せっかく生きて再び会えたと言うのに。
とられてしまう。
とられる?
誰に?
嫉妬しているのか。
「いや、わしはこの星が好きなだけだ。この星で生まれた、おぬしが好きなだけだ」
伏羲は言う。この期に及んで。
風が吹く。髪をもてあそぶ。でもそれが、妙に、心地良かった。
「嘘つき」
「どうして」
「じゃあ、どうして僕の前から消えたんです。好きだと言うなら」
ずっと一緒にいてくれればよかったのに。
すんでのところで楊ぜんはその台詞を飲み込んだ。これではまるで、すねてるみたいだ。否、すねているのだ。本当に。
「わしは余所者だからのぉ……。本来、おぬしらと関わるべきではなかったし」
伏羲は口を開く。
十分関わってますよ、と楊ぜんは呟いた。
「この星のことに口を出すべきではなかろう?この星のことはこの星のもので決めるべきだ」
それは確かに正論だったから、楊ぜんは黙っていた。必死に、何か言い返すべき言葉を探しながら。
「だから、残りの時間を海を見ながら過ごそうと思って。おぬしの生まれた海を見ながら過ごしたくて。……でものぉ」
伏羲はほりほり頭を掻く。
「隣に誰もいないと、淋しいのだ」
そして、楊ぜんににぃっと笑いかけた。
「僕は引退老人の世話をしてるほど、暇じゃないんです」
「つれないのぉ」
風が吹く。潮風はほんの少し、懐かしかった。
「ねぇ、師叔。あなたが戻ってくるのじゃ、駄目なんですか」
「それはできぬよ。楊ぜん」
「どうして」
「わしはもう、『太公望』ではないから」
「師叔は師叔ですよ」
楊ぜんの呟きを伏羲は無視した。
「この星で、生まれたかったのぉ。生まれたと思い込んでいたかったのぉ」
寄せては返し、返しては寄せる波。水面に浮かぶ白い泡。
この地球と言う星の生命をすべて孕んだ海。
「どこで生まれたって、師叔は師叔です」
「王天君が太公望をうらんだのもわかる気がする。わしはずっと、太公望に嫉妬していたのだから」
独り言のように伏羲は言う。
それから不意をついてぎゅっと楊ぜんの頭を引き寄せた。
「おぬしのことでだよ。楊ぜん」
白い頬にさっと朱がさす。伏羲の瞳がすぐ近くにある。ああ、海の色だと楊ぜんは思った。
「どうして……あなたは師叔でしょう。あなたは太公望ですよ。あなたの本質は変わっていないのでしょう」
「わからぬ。おぬしの言う本質とは伏羲の本質ではなく、太公望の本質ではないのか」
伏羲は囁く。
わしは誰だ。
何を言っているのだろう、この人は。
「そんなの。僕が今あなたを好きだってことには、関係ありません。僕はあなたが誰で、どんな過去を持っているかなんて事、全然かまわない」
それじゃ駄目なんですか。
ああ、なんだか。泣き出してしまいそうだ。
楊ぜんはそっと伏羲――それとも太公望?――に口付けた。
「今キスできればそれでいいんです」
☆
「今日は泊まってゆくのであろう」
伏羲は言う。ご機嫌である。
「だって僕はさらわれたのでしょう」
楊ぜんはすねている。結果的に、楊ぜんは自分から太公望に好きだと言い、キスまでしてしまったのだから。これで今さら嫌いと言ったところで伏羲はますます喜ぶだけだろう。
浜辺に二人腰を下ろして。波の音を聞いている。
ぎゅうっと太公望は楊ぜんを抱き寄せた。楊ぜんはちょっと身を硬くし、でも結局伏羲の胸に寄りかかった。
「そう照れるでない」
「照れてません」
すねてるのだ。
「おぬしはわしが好きなのだな」
「悪いですか」
言葉が尖がっている。
「嬉しいよ。わしは自分が誰なのかわからなくなるところだった」
「わかったんですか」
「うぬ」
伏羲は楊ぜんを抱く手をちょっとっ強める。だから、とくん、とくん、と心臓の音が聞こえた。
「わしは楊ぜんの『師叔』だ。今はもう、それだけで十分だ」
「莫迦」
くすっと楊ぜんは笑う。
波の音にあわせて、とくん、とくん、鼓動が聞こえる。
ああ。人は誰だって、身体の中に海を持って生きているのだ。
「海を見ているとどうしようもなく懐かしくてのぉ。どうしてかと考えておったのだが……おぬしを思い出すからだと気が付いた」
楊ぜんの髪の毛をなぜながら太公望は言う。
「そう……ですか」
「どこまでも澄んでいて、どこまでも青くて……否、違うな。海はきっとそのものの一番大切な何かを思い出させるのだろう。わしにとってはそれがおぬしだったというわけだ」
楊ぜんはちょっと考える。
「師叔。ひょっとして口説いてるんですか?」
「駄目かのぉ」
「莫迦」
くすっ。楊ぜんは笑って。
「でも師叔がどうしてもって言うのならもう少しここにいてあげてもいいですよ」
この場所は、とても居心地がいいから。
もうすぐ、夜が来るだろう。日が沈んで、星が出て、二人の影も輪郭も曖昧になって。それでも波の音だけはいつまでも、いつまでも……
end.
novel.
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