For you.



 朝。早朝。夜明け前。
 まだ、起きるには早すぎるけれども、どうしても目がさえてしまって二度寝する気にもなれなかった楊ぜんはじーっと隣に寝ている太公望を見つめていた。くっついていると、暖かい。楊ぜんはどうも平熱が低いほうらしく、だから、隣の太公望の体温がとても気持がちよかった。
 眠っている太公望は子供の顔をしている。そんなこと言ったらこの人はとっても嫌な顔をするのだろうけれど、本当なんだからしょうがない。そして、太公望がこんな、子供みたいな顔で寝るのは、たぶんきっと楊ぜんの前でだけで。だから、そんなことを考えると楊ぜんはとっても嬉しくなって、ついつい笑い出したくなってしまうのだ。
 楊ぜんにだけの子供の師叔。
 くすくすくす。
 楊ぜんはそっと身を起こすと、太公望の頬にチュッとひとつ口付けた。
 それからするりと寝台から抜け出す。つとめての空気は身を切るように冷たい。楊ぜんは軽く身震いすると道服に袖を通した。それからちらりと眠っている太公望を見る。そっと掛け布団を掛けなおした。
 部屋を出ると一つ伸びをする。
「うーん。寒いなぁ」
 吐く息が白い。肩布をぎゅうっと抱き寄せて。それから楊ぜんはこっそり台所に向かった。
「たまには、ね。たまには」
 誰にともなく歌うように呟く。
 特に理由なんかないのだけれど。
 朝、いつもよりだいぶ早く起きてしまったから。
 眠ってるあなたが子供みたいだから。
 だから。
 今日だけはあなたのために――。

 

    ☆

 

 無意識のうちに太公望は寝台の上を探る。ぱたぱた伸ばした手は何にもあたらなくて。
「うぬぅ?」
 寝ぼけて太公望はぎゅいぎゅい目をこする。眠気を吹き飛ばそうとするかのようにぶんぶん頭を振ったら、少しだけ貧血でくらくらした。
 寝台の上には一人っきり。
「なんだ。楊ぜん帰ってしまったのか」
 がっかりしたように呟いた。
 ぎゅうっと枕を抱きしめてみる。
「つまらんのぉ」
 仕方なく起き上がった。

 食堂に行くと楊ぜんがいた。軽く目があってにっこり笑った。
「おはようございます。太公望師叔」
「おはよう。楊ぜん」
 それから楊ぜんは世にも恐ろしいことを口にした。
「師叔。今日の朝ご飯、キャンセルしときましたから」
「……は?」
 楊ぜんはにっこり微笑んでいる。その笑顔といったらもぉそのまま固めてしまいたいくらいとっても可愛い。が。しかし。だが。
「楊ぜん、おぬし、今なんと?」
 おそるおそる太公望は問い掛ける。
「ですから、今日のお食事は……」
「なぬうッ。楊ぜんっ。何故だ?わし、おぬしに何かしたか?」
 食ってかかる太公望に楊ぜんは少しばかり引きながらもにっこり微笑む。
「今日は僕が作りますから」
「へ?」
 止めとばかりに楊ぜんは微笑んだ。
「二人っきりで食べましょう。師叔」
「それで、おぬし部屋にいなかったのだな」
 漸く得心がいって、太公望はにんまり笑う。
「淋しかったですか、師叔」
 ぎゅうっと太公望は楊ぜんを抱きしめた。
「淋しかったよ、楊ぜん」
 いたずらっぽく目を見合わせて、いたずらっぽく微笑む。二人はどちらからともなく手を握る。そして、周りのことなど全くお構いなしにべたべたいちゃつきながら食堂を後にした。


 どこかですばらしい怪力なのか何か面白くないことでも在ったのか、ばきッと箸の折れる音が二、三響いた。

 

「師叔が起きる前に作っちゃおうと思ったんですけれどね」
 そういいながら太公望の部屋で楊ぜんはスープらしき物をスープ皿によそる。
「部屋まで持ってきてくれるつもりだったのか」
 こくん。と楊ぜんは頷く。
「師叔。今日に限って早起きなんだから」
 そんなこと言ったって、その太公望よりも楊ぜんのほうが朝は苦手なのだ。
「のぉ楊ぜん。おぬしは食べぬのか?」
「食べますよ。でも暖かいほうが美味しいから師叔が先に」
「だぁほ。それならおぬしのが不味くなってしまうではないか」
「僕の料理は冷めたくらいで不味くなったりしませんから」
 ぬぅ。と太公望は唸った。
 それからにんまりと笑う。
「でも二人で食べたほうがきっと美味いよ」
 スープを一さじ口に含んで、それから逃げないように楊ぜんの髪をつかむと、そのまま口付けた。
「んッ」
 こくんと楊ぜんの喉がそれを飲み込む。
「ほら」
 楊ぜんは真っ赤になって太公望をにらんだ。
「莫迦」
「とにかく、一緒に食べるのだ。それともまた、わしが食わせてやろうか?」
 にょほほほほと太公望は笑う。
 もう一回、莫迦、と呟いて楊ぜんは自分の分のスープをよそった。
 小さなテーブルを囲んで二人っきりで向かい合って座る。楊ぜんの料理は彼の趣味なのかなかなか凝った物が多く、太公望は料理の名前はおろか食材すら良くわからなかった。勿論、楊ぜんのことだからなまぐさが紛れ込んでいたりということは絶対に無いだろうし、味に不安があるわけでもなかったが、それにしても、しかし。
「楊ぜん。おぬし料理の腕もたいしたものだのぉ」
 天は簡単に二物も三物も楊ぜんには与えていたようで。
「食堂よりずっと美味いではないか」
 食堂といったって西岐城の食堂なのである。
 楊ぜんはにっこりと微笑んだ。
「食堂は味が濃すぎますからね。香辛料も使いすぎてるし。美味しくないとは言いませんが、たまにはこういうのもいいでしょう」
「おぬしが料理長を指導してきたらどうだ」
 楊ぜんはくすくす笑う。
「そんなことしたら、角が立ちますよ」
 太公望はじぃっと目の前に並んでいる料理を見つめる。
「うぬぅ。もったいないのぉ」
 本気で考え込んでいるような太公望に楊ぜんはそっと囁いた。
「いいじゃないですか。僕が料理するのはあなたのためだけなんだから、この味もあなただけのものですよ」
 太公望はくすりと顔を上げる。
「おぬし、また可愛いことを。どうしてこんなことをしてくれる気になったのか?」
「内緒」
 くすっと楊ぜんは笑う。まさかあなたの寝顔が子供みたいで可愛かったからとはいえまい。
「怖いのぉ。裏があるのではないか?」
 太公望は茶化して笑う。
「酷いですよ、師叔。そういうことおっしゃるんですね」
 ぷいっと楊ぜんはすねた。
「せっかく僕の心づくしなのに」
「ごめん。楊ぜん」
 太公望はちゅっと楊ぜんの頬に口付ける。
「だけど嬉しかったよ」
 くすぐったそうに楊ぜんは笑った。
「また、こうやってわしのために朝餉を用意してくれるか」
「はい。師叔」
 くすくすと太公望と楊ぜんは笑った。
 やがて太公望は呟く。
「のぉ楊ぜん。せっかく朝からいいことがあったのに、このまま仕事ではつまらぬのぉ」
「師叔?」
 楊ぜんはきょとんとする。
「楊ぜん、ちとつきあえ。お礼にいい物を見せてやろう」

 

      ☆

 

 その頃執務室ではそろそろ早朝会議が始まろうとしていた。
 会議室に集まったのは、あくびをかみ殺して何とか起きている武王陛下と、その護衛を頼まれたためにつまらない会議にまで一緒に出席する羽目になった黄天化。未だ現れない軍師とその補佐にハリセン持っていらだってる周公旦と、彼におびえてる文官数名、そしてその中で唯一自体を楽観している武成王。
「……まったく、太公望だけならいざ知らず、楊ぜん殿まで……い、今が周にとってどれだけ大変な時期かわかっているのか……」
 ひたすらぶつぶつ呟いているのは勿論、周公旦である。
 ぎろんと周公旦は室内を見回した。皆一同に首をすくめてやり過ごす。つかまったらタイヘンである。周公旦の視線はある一点でぴたっと止まった。
「天化殿、暇そうですね」
 歩いてくる。足音が響いた。
「あ……いや、俺っちは別に……」
 黄天化はしどろもどろになっる。
「済みませんが、太公望の部屋を見てきてくれませんか。楊ぜん殿もそこにいらっしゃると思いますので」
 そこまでわかってて俺っちに行かせるさ?と天化は泣きたくなった。まさしく鬼!である。どうせ、太公望と楊ぜんを二人っきりにしておいたら、それはもぉ、夢のようなイチャイチャパラダイスが繰り広げられること間違いなし、なのだ。楊ぜんにそこはかとない憧れを持つ青少年としては、そんなもの見たくも無い。
「だけど。俺っちは、武王の護衛を」
「今は、武成王もいらっしゃいますから大丈夫でしょう」
 必死の抵抗をさらりとかわされて、天化は仕方なく頷いた。彼らしくなく重たいため息をつきながら。
 子孝行な彼の父親は息子の一大事に今にも笑い出しそうなのを懸命にこらえていたのだが、天化は勿論気がつかなかった。

 

 さて、部屋の中は空っぽだった。というより、これから空っぽになろうとしていた。窓の外に浮かんでいるのは哮天犬。そして、その上には、
「あーッ!スース、楊ぜんさんっ!」
「だあああっ!天化大声を出すでないッ!」
 しーっ。と楊ぜんが唇の前に指を一本立てた。
「師叔。今のは師叔のほうがうるさかったですよ。ねぇ、天化君」
「そうさね。って、そうじゃなくって、二人とも何やってるさ!もぉ会議始まってて周公旦様かんかんに怒ってるさ」
 かかかと太公望は笑った。
「周公旦など、怒らせておけばよい」
「何言ってるさ、スース。楊ぜんさんも戻ってくるさ」
「ごめん。天化君。今日は僕、師叔の味方することにしたんだ」
 楊ぜんはにっこり微笑む。
「ほぉ、ではおぬしわしの言うことは何でも聞くのだな」
 楊ぜんはほんの少し考えるそぶりをして、それからちらりと上目遣いで太公望を見た。
「いいですよ。師叔」
「なっ、なにいってるさ。楊ぜんさん!」
 太公望はにまぁっと笑う。
「子供は黙っておれ、天化」
 な……。
「あん。師叔、そんなこと言っては天化君がかわいそうですよ。一緒に来るかい?天化君」
「だぁほ。わしと二人っきりで行くのだ」
 太公望はぎゅうっと楊ぜんを抱き寄せる。
「だって、ごめんね。天化君」
 楊ぜんは困ったように微笑んで、それからふわりと哮天犬を動かした。
「周公旦君に宜しくたのんだよ」
 悪びれもせずそんなことを言って楊ぜんプラスアルファは立ち去ってゆく。追いかける気力もうせて、青少年は一人呟いた。
「お……俺っち、グレてやるさ……」

 

      ☆

 

 哮天犬がたどり着いたのは崑崙の端だった。金霞洞からろくに出たことの無かった楊ぜんは、こんなところまで来るのは初めてだ。
「わしの取って置きの場所だからのぉ」
 と太公望は嬉しそうに笑った。
「普賢にはいうでないぞ、笑われるから」
 軽い山道を歩いて、そしてたどり着いたのは――。
「わぁ」
 楊ぜんは思わず声をあげた。
「梅ですね」
 白梅、紅梅。梅の群集。
「桜ほどにはインパクトがないやも知れぬがのぉ」
 年が明けて、一番先に咲く花は、可愛らしいつぼみを精一杯に開かせて。
「綺麗」
 忍び寄る春の足音。それを聞いたような気がして楊ぜんはたまらなく嬉しくなる。春は、もうこんなに近づいてきている。
 高い空に梅の香り。
「師叔。すごい」
 梅の群集の中をはしゃいで楊ぜんは歩き回る。まだつぼみの多いもの、八割がた咲いているもの。赤い花、白い花、薄紅。
「のぉ、楊ぜん。わしがおぬしにしてもらったことで、一番嬉しかったことって何だと思う?」
 不意に太公望は声を掛ける。
 え?と楊ぜんは振り返る。
「僕が師叔に……」
 楊ぜんは考える。
「何もしてあげてないなぁ。そういえば。まさかキスしたこととか仰るんじゃないでしょうね」
 太公望はくすくすと笑う。
「そうだのぉ。それもあるかものぉ」
 それから太公望はほんの少し真面目な声を作り。
「違うよ。楊ぜん。おぬしが今みたいに傍にいて、そうやって笑ってくれることだよ」
 楊ぜんはきょとんとして、それからふわりと微笑んだ。

 梅の群落に影二つ。くっついたり、はなれたり――

end.

novel.