微笑を見せて



 朝から雨が降っている。
 土砂降りの雨。まるでホースで撒き散らしているような雨。容赦なく降り続く雨は、ひたすら冷たい。いつもならこの季節に、こんなに雨が降るわけないのに。寒くって寒くってどうしようもない。廊下を歩く足を速めた。さっさと執務室まで行こう。あったかいお茶がのみたい。
 そう考えて太公望は、寒さで引きつった顔をほんの少し緩める。楊ぜんを仲間に引き入れることができたのは、とっても大きなプラスだった。なんと言ってもその戦闘能力。性格にほんの少しキズがあったところで、それを補ってなお余りある力。だけれど、ついこの間下山してきた楊ぜんに、お茶を入れてもらってから太公望はもうひとつ小さなプラスに気づいた。楊ぜんの入れるお茶は格段においしいのである。
 以来、太公望はちょくちょく楊ぜんの部屋に遊びに行くようになった。仕事の打ち合わせと銘打って、楊ぜんのお茶を飲みに行く。ちょこっと出されるお茶請けも、なかなかいけるのである。楊ぜんは文句をいいながらも、しぶしぶ太公望を中に入れる。仕事といわれてはしょうがないというのだろうが、実は口ほどには嫌がってないことを、太公望はちゃんとわかってる。現に楊ぜんは太公望が遊びにくるようになってからは、わざわざ甘いお茶菓子を用意してくれているらしい。楊ぜん様は最近になって甘いものがお好きになったのでしょうか、と部屋付きの女官が首をかしげているのをちゃっかり聞いてしまったのだ。
「意外とカワイラシイところがあるではないか」
 普通執務室で、楊ぜんがお茶を入れることはないが、頼み込めばきっと何か用意してくれるだろう。女官の入れたお茶はどうも熱すぎていけない。そうだ、女官の気を損ねずに楊ぜんにお茶を入れさせる方法を考えねば……。
 ぴたっと足が止まる。つい今さっきまで考えていた人がそこにいたから。
「楊ぜん……?」
 何をやっておるのだ、あやつ。
 欄干から手を伸ばして。まるで雨を受け止めるように。袖からこぼれた白い腕が、目に焼きついた。濡れてしまう。現に道服が、水を吸ってところどころまだらな模様を作っている。前髪が濡れそぼってしたしたと雫が落ちる。その様子に全然気づかないかのように楊ぜんは手を伸ばす。伸ばした腕に雫が伝って袖の中に流れていく。
 声をかけようとして少し逡巡。とっさに声が出なかったのは、どうしたことだろうか。気がつけば足を止めて、呆けたように突っ立っていた。
 雨が降っている。激しい音を立て、城の屋根や枝にぶつかり耳障りな音を立てる。常緑樹の緑を打って、こちらまではねてきた冷たい雨。暗い空。むせ返るようなダークグリーン。どこを見ているのかわからない眼でそれでも一心に何かを見つめつづける楊ぜん。
 濡れてしまう。
 僅かに近づこうとでもしたのだろうか。足を踏み出したところで、床が、軽くぎぃっと音を立てた。うるさい雨の中でも、その音は妙にはっきり聞こえた。少なくとも太公望にはそう思えた。振り返る楊ぜんにしまったと思った。
「師叔?」
 声は立てなかったが、楊ぜんがそういったのがわかった。
「何をしておるのだ。こんなところで」
 僅かに声がかすれた気がしたがたいしたことはない。別に何か悪いところを目撃したわけでもないのだから。普通にしていればいいのだ。
「さあ」
 楊ぜんは濡れてしまった手を引っ込める。白い手は冷たくなりすぎて真っ赤になっていた。
「師叔こそ、どうしたんですか、こんなところで」
「おぬしの茶がのみたいと思って」
 何か適当にごまかすつもりで口を開いたのに、出てきたのはごく素直な言葉だった。
「僕のいれた?」
 ふんわりと楊ぜんの周りが暖かくなった気がした。
 その微笑を綺麗だと思った。楊ぜんの容姿が美しいという認識はあったが、素直に綺麗だと思ったのはそれが初めてだった。どちらかというと楊ぜんにはすべてを拒絶するような冷たい何かがあった。それが消えた瞬間だった。
 心臓がどきんとはねた。
 こういうのも、一目ぼれというのだろうか……?
 別にアブノーマルな思いを抱いたわけじゃない。キスしたいと思ったわけでも、ましてやそれ以上を考えたわけでもない。自分自身に言い訳するように太公望は考える。
 ただなんといえばよいのだろうか、楊ぜんの持つおそらく彼本来の根本的な雰囲気に惹かれたのだ。それも、今、正にその瞬間の雰囲気に。
「いいですよ。ちょっとまっててください。……ああ、びしょ濡れじゃないですか」
 自分のほうがずっとびしょ濡れのくせに楊ぜんはバサッと頭から太公望に自分の肩布をかけた。それもほんの少し湿っていたのだけれど。布が下りてきた瞬間ほのかに香の匂いがした。いやみじゃないくらいのうすいかおり。
「良いよ。わしがやる。おぬしのほうこそはやく着替えぬと風邪を引くぞ」
 何しろ頭っから布をかぶってしまったもので、太公望はそれから抜け出すためにもぞもぞする。もぞもぞしながらそういったら、くすくす笑いの音が聞こえた。やっとどうにか頭を出してから、太公望は楊ぜんを睨みつける。
「何も笑うことはなかろう」
「だって、師叔がお茶を入れてくれるんですか?僕のために?」
「おかしいか?」
「やけどしないでくださいね」
「失敬なやつだのぉ」
 言いながら太公望も笑う。いつのまにか楊ぜんはいつもの楊ぜんに戻っていた。それがひどく残念なのと同時にほっとする。いつもの楊ぜん相手なら、普通に会話ができる。
「おぬしは先に執務室にいっておれ。うーんとうまいのを入れてやろう」
 楊ぜんはけたけた笑った。まったく、失礼な奴である。



「うーん。40点ですね」
 太公望の入れたお茶を飲みながら楊ぜんはそっけなく言った。
「そんなにひどいか?」
 自分もお茶をすすりながら太公望はほんの少しむくれる。
「ひどくはないですよ。いつもの女官の入れるのは25点ですから」
 複雑な顔で太公望は考え込む。喜ぶべきか、悲しむべきか。
「で、では、もう一回入れてこよう」
 湯飲みを取り上げる太公望に楊ぜんは慌てて言う。
「そんなに飲めませんよ。おいしいと思いますよ、僕は」
 では何でそんなに点が低いのだ。どーせ、僕が入れたのを基準にすれば師叔のはそれくらいしかありませんね、なぁんて言い放つのだろう。
「だけど、一番おいしいのは師匠のお茶なんです」
 楊ぜんはくすっと笑う。さっきのあの微笑で。だけど今度のは妙にむしゃくしゃする。胸の奥がじりじりする感じ。
 それを隠そうとして太公望は、わざと茶化していった。
「のう楊ぜん、ではわしが玉鼎よりうまいお茶を入れたら……」
「無理ですね」
 太公望の台詞をあっさりと楊ぜんはさえぎる。ほんの少し太公望はむっとする。
「まだ最後まで言っておらぬではないか」
「だって聞く必要ないでしょう。無理なんだから」
 それはつまり、わしが絶対に玉鼎には勝てぬとそういう意味か?
「そんなのやってみなくてはわからぬではないか」
「今、やってみたじゃないですか」
「これはそのぉ……小手調べだ」
 きっぱり言い放った太公望に楊ぜんは呆れたような視線を送る。
「わかりましたよ。最後まで聞きます。で、なんなんですか?」
「え?」
「だから、師叔が師匠よりおいしいお茶を入れたら?」
「あ……」
 そんなにかしこまって聞かれたら、ハズカシイではないか。
 こほん、と太公望は咳払いをした。
「わしが玉鼎よりうまいお茶を入れたら……」



――さっきのあの、微笑を見せて。

end.

novel.