honey moon



 起き上がろうとしたところをぎゅうっと抱きしめられた。白い手がひらりと翻る。
 すっかり楊ぜんがまだ眠っていることだろうと考えいていた太公望は不意をつかれて危うくバランスを崩しそうになってしまう。
「あ、危ないではないかっ!」
 結局、楊ぜんに支えられるようにして転倒を免れた太公望は照れ隠しにわざとぶっきらぼうにそんなことを言った。
「師叔。怒った?」
 笑を帯びた声が耳をくすぐる。
「だあほ」
 振り向いて楊ぜんの髪を思いっきり引っ張ってやる。思わず身をかがめるような体制になって、自分に近づいてきた楊ぜんの唇に一つ口付けた。にっこり笑って。
「おはよう。奥さん」
「おはようございます。旦那様」
 二人で顔を見合わせて、くすくす笑った。

 昨日は武王主催で内輪だけの小さな記念パーティーを開いてくれた。楊ぜんが女装して花嫁衣裳を着たら必要以上に受けてしまった。太公望はそれでちょっとだけ優越感に浸りながらぎゅうっと楊ぜんを抱きしめ、調子に乗って抱き上げようとしてぺしゃっとつぶれて会場中が大爆笑した。楊ぜんはそのままぎゅうっと太公望に抱きついた。
 それから、薄暗い蝋燭の灯火と緊張して泣き出しそうな顔の楊ぜんと白い肌の幻想。甲高く儚い声と見開かれた瞳のガラスのような透明な紫。
 ぞくっと背筋に電流が流れるような。
 あやうく朝から変な方面に走り出しそうになった己の妄想を太公望は頭一つ振って慌てて追いやった。それから軽く微笑む。
「よく眠れたか?」
 楊ぜんはほんの少し顔を赤らめてこくんと頷いた。
「今日はどうする?」
 新婚さんたちは特例で三日間だけお休みをもらったのだ。当分朝歌側の動きはないだろうとの予測もあったが、よりによって周公旦が言い出したことだと言うから太公望はひどく驚いた。さすがの周公旦も鬼ではなかったと言うことだろうか。あの仏頂面の下では何を考えてるのかいまいちよくわからない。
「師叔と一緒にいます」
 楊ぜんはこれ以上ないくらい可愛い答えを返してきた。
「ここで?」
 太公望はそういってぽんぽんと寝台の上をたたく。
「莫迦」
 たちまち楊ぜんは真っ赤になった。
「可愛いのぉ楊ぜんは」
「もぉ、師叔。からかってますね」
 からかったつもりはなかったのだが、楊ぜんはほんの少し怒ったらしい。しかし、怒った顔の楊ぜんはなかなか可愛い。軽く尖らせた口元とか、ひたっと見つめてくる真っ直ぐな瞳とか。もっとも太公望がそのせいでついにやけてしまうから、楊ぜんはさらに怒ってしまったりもするのだが。
 しかし、せっかくの新婚の朝から花嫁を怒らせてしまうわけにもいかない。
「からかったりはしておらぬ。おぬしは本当に可愛いからわしは素直に思ったことを言ったまでだ」
「可愛いって……」
 ところがこれでまた楊ぜんは怒ってしまったようで、明らかにむっとした顔をする。では、なんと言えばよかったのだろう。太公望には楊ぜんをあらわすのに可愛いよりもぴったりした言葉など、思いつきもしないのだけれど。確かに楊ぜんの容姿は可愛いよりも美しいなのだろうが、その本質は絶対に可愛いだと思う。
 楊ぜんはちょっと頬を膨らませると、それから思いついたようににっこりと微笑んだ。
「師叔も可愛いですよ」
 太公望はにんまり笑う。それくらいのいやみは予測している。
「ほぉう。では可愛いわしの願いは聞いてくれるのであろう」
「願いって何ですか?」
「おぬしの子供のころの話が聴きたい」
 太公望はくるんと身をひねるとぎゅうっと楊ぜんを抱きしめた。
 楊ぜんは困ったような顔をする。
「聞いて面白い話なんて何にもないですよ」
「おぬし玉鼎や哮天犬の話はしても自分の話はしてくれぬではないか」
「だって、話せるようなことないんです。思い出とかそういうのちっともないんです。200年も生きてたんですよ、僕。思い出なんか風化しちゃうもの」
 すねたように楊ぜんは言う。
「今日のことも風化してしまうのかのぉ」
「それは。嫌」
 短く言って楊ぜんはぎゅっと太公望に抱きついた。
「忘れません」
「じゃあ。忘れないように思い出を作りにいこうか」
「師叔?」
 楊ぜんはきょとんと顔を上げる。
「ついてきて欲しいところがある。ついてきてくれるか?」
「はい」
 楊ぜんはにっこりと微笑んだ。

 

    ☆

 

「そういえば、最初に哮天犬とあったとき僕、怖くてどうしようもなかったんです」
 袖から哮天犬をだして、思い出したように楊ぜんは言った。
「ほぉ、哮天犬は昔からこの大きさだったのか」
 太公望が感心したように言うと、楊ぜんは笑って首を振った。
「はじめはずっと小さかったんですよ。これくらいしかなかったもの」
 そういって楊ぜんは自分のひざよりもずっと下のほうに手をやった。
「それでも怖かったのか?」
 楊ぜんはこくんと頷く。
「それまで僕のそばには師匠しかいなかったのに。くうんって擦り寄ってくるんです」
「犬だからのぉ」
 太公望はくすくす笑う。
「師匠がなでてあげなさいって言うんだけど、なかなか触れなくって。それなのに師匠は哮天犬の面倒は楊ぜんが見るんだよって」
「それでどうした」
「僕がえさをあげるようになったら、哮天犬、朝になると僕のこと起こしにくるんですよ。目を開けたら哮天犬が覗き込んでるでしょう。びっくりして泣き出したら哮天犬がぎゅうって擦り寄ってきてぺろぺろ顔をなめるんですよね」
「ほぉうそれはうらやましいのぉ」
「どっちがですか」
「哮天犬が」
「莫迦」
 楊ぜんはくすっと笑う。
「僕が泣き止むまで朝ご飯我慢して、ずっと僕のそばにいてくれました」
 ふんわりとした哮天犬の毛並みを楊ぜんは優しくなでてあげた。
「忘れてなどおらなかったではないか、思い出」
 楊ぜんはこくんと頷く。
「良かった。大切なことだもの」
 それから二人は哮天犬に乗って、空に旅立つ。空は晴天。雲ひとつない小春日和。やわらかな風が優しく二人の頬をなでた。空気の粒子一つ一つにお日様の匂いがする。
「どこに連れてってくださるんですか、師叔」
「このまま真っ直ぐ。わしの言う通りに」
「教えてくださらないんですね」
「何もない、つまらぬところだよ。行っても面白いものなど何もない」
 楊ぜんは軽く太公望にもたれかかる。
「いいですよ。師叔と一緒ならどこだって」
 太公望はぎゅうっと楊ぜんを抱きしめる。
「おぬしその危なっかしい乗り方は何とかならぬか。見ているこっちが落ちそうだ」
「哮天犬は絶対に僕を落とすようなことはしませんよ」
 楊ぜんはくすくす笑ってわざと身を乗り出した。
「師叔。見て。西岐って綺麗な町ですね」
「そうだのぉ。っておぬしいつも見ておるではないか」
「上からちゃんと見たことってなかったんですよ」
「町並みだけ見れば朝歌のほうが上だろうが、西岐には活気があるからのぉ」
「師叔。嬉しそうですね」
 紫の、ほんの少し笑みを含んだ瞳で楊ぜんはじっと太公望を見つめる。
「わしらの町だよ。楊ぜん」
 太公望はそっとつぶやいた。

 西岐の町を越えて哮天犬がどんどん真っ直ぐに飛んでいっても、太公望は特に指示を与えなかった。このまま進むと朝歌に出てしまうと楊ぜんは思う。偵察にでも行くつもりなのだろうかと考えて楊ぜんはほんの少しすねた。せっかく休みをもらったのに、それすら師叔は仕事に当てるつもりなのだろうか。
 太公望にとって、それは仕事と言うよりももっと大きなものなのだと言うことは楊ぜんにもわかっていたのだけれど。それでも太公望の中で決して一番にはなれない自分を見せ付けられたようで、ほんの少し悲しくなる。頭で理解するのと心の動きはまったく別物なのだ。
「どうした。楊ぜん。やはり来たくなかったかのぉ」
 心配そうな太公望の瞳がじっと楊ぜんを見つめていた。そういえば、太公望に嘘をついて隠しとおせた記憶などない。恐ろしいくらいに鋭いのだ。
 それでも、楊ぜんはにっこりと微笑んだ。
「言ったでしょう。あなたと一緒ならどこだってかまわないんです」
「済まぬのぉ、楊ぜん。どうしてもいっておきたいのだ」

 

    ☆

 

 哮天犬がとまったのは、朝歌近くの一面の草原の中だった。どこまでも人工物などない風景の中に、それだけが周りの景色と調和せず、奇妙に浮かび上がっている。それは、墓だった。
「師叔」
 つぶやいたつもりの声は咽喉の奥から出てこなかった。偵察なんかじゃなかった。頭の中でぼんやり思った。
 歩き出した太公望の後を追って、楊ぜんは音を立てないようについていく。
 太公望は、楊ぜんが追いつくのを待って、それからぎゅっと楊ぜんの手を握り締めた。
 顔を上げる。真っ直ぐに墓の中央付近を見つめる。
「父上。母上」
 軽く反応した楊ぜんの手を強く握り締めて。
 太公望は笑った。
「わしの嫁だ」
 楊ぜんは目をぱちぱちさせる。
「美人であろう。ついでに可愛いであろう。しかし、なかなか仕事もできるのだ。わしにはもったいないくらいだ。兄上もうらやましかろう」
 慌てて楊ぜんはぺこっと頭を下げる。握り締める手の力がきつくなっていくのを楊ぜんは感じていた。
「生きてあって欲しかったのだがのぉ。そうしたら、おぬしにも父上と母上ができたのにのぉ。兄も妹もいたのにのぉ。うまくいかないものだのぉ」
「……師叔……」
「済まぬのぉ。……わしばっかり幸せで……」
 痛いくらいに手を握り合わせたまま、二人はじっと動かなかった。楊ぜんは金縛りにあったように動けなかった。
 やわらかな風が楊ぜんの頬をなでていった。優しい手のようだと楊ぜんは思った。景色が徐々にぼやけていって、自分が泣き出しそうなのだとわかった。
「楊ぜん」
 やがて太公望がぽつりと言った。
「帰ろう。まだ感傷に浸るのは当分いい」
 何を言っていいのかわからず、楊ぜんは小さくつぶやいた。
「師叔。手、痛いです」
「ごめん」
 そういいつつも、手の力は全然弱くならなかった。

    ☆

 もときた道を、哮天犬に乗って帰る。
 相変わらず二人手をつないだままで。
 道中の半分くらいを二人は黙って寄り添っていた。
 やがて楊ぜんが口を開く。
「師叔、僕はご両親に気に入っていただけたでしょうか」
 太公望はやんわりと楊ぜんの髪を撫でる。
「おぬしを気に入らぬものなどどこにもおらぬよ」
「師叔、あのね」
「ん?」
「思い出を、ありがとう」
 大切な場所に連れてってくれて、ありがとう。
 僕をあなたの特別にしてくれてありがとう。
 今、泣き出しそうな顔をしているのは、きっとどうしようもなく嬉しいからで。
「うん」
 太公望は一つ頷いて、それからにっこり笑って楊ぜんに口付けた。
「明日はどこに行こうか」

 幸せな日々は始まったばかりだから。

end.

novel.