呪縛



 漆黒の闇の中に、ぼんやりと丸い月。朧月というやつだ。輪郭がひどくあやふやでいいかげん。それが妙に自分そっくりに見えたから、楊ぜんは薄く笑った。実際に自分の輪郭がわからなくなってきた。少々飲み過ぎたようだ。
 身体がふわふわするような浮遊感。ひどく不安定で、でも気持ちいい。
 だから楊ぜんは、心持甘えるように、隣で何を考えているのか良くわからない太公望の細い肩にしなだれかかってみたのだ。
 太公望は、まるで決まりごとみたいに楊ぜんの肩を抱き寄せた。依然、何を考えているのか、わからない表情で。
 手に持った杯の中に、輪郭のない月の影が映る。開け放った窓からは冷たい風が吹き込む。
 寒い、と楊ぜんは思う。ここはなんて寒い場所なのだろう。
 狭い部屋の中に、二人きり。寝台の上に腰掛けて。何をするでもない。ただ、酒を飲んでいる。
 楊ぜんは何かしゃべりたいと思うのだけれど、どうしても口を開く勇気が出ない。沈黙が重い。声を出して、この静寂を打ち壊すことが怖い。
 太公望にしなだれかかることで、何とかこの空気を切り崩そうとしてみたものの。それは失敗したようだ。
 どうしたらいいのだろう。
 このままでは、動けない。
 太公望に触れたことで、より離れていく気がした。
 重い。押しつぶされそうだ。
「楊ぜん」
 遠くから聞こえた声に、楊ぜんはやんわりと顔を上げる。すぐ傍で聞こえたはずの太公望の声は、ひどく、遠かった。
「師叔」
 返したはずの、楊ぜんの言葉は声にはならなかった。のどを空気がとおる音がしただけだ。声の出し方を忘れてしまったように。
「おぬしは……本当に、これでよいのか」



 声がかすれている。太公望はそう思う。水が飲みたいと思った。のどが渇い手いた。それなのに手にもっているのは酒で、太公望はそれを飲むよりほかにない。いや、違う。本当に欲しいのは水ではない。本当に欲しいのは。
 手に触れた髪は冷たかった。まるで本物の水であるかのように。そう、本当に欲しかったのは、これだ。そしてそれは今、太公望の手の中にある。
 しかし。
 この期に及んで、太公望は迷っている。
 楊ぜんは大切だ。好きだとも思う。いや、思うどころではない。狂おしいほどに好きだ。
 そして、楊ぜんはそれに気がついているだろう。さらに言うならば、楊ぜんも、自分のことを憎からず思っているようである。
 もしも、自分がただの人間だったならば。それはひどく幸福な状況といえるのだろう。それを考えるのは、実に無意味で、そのくせひどく魅力的だった。
 たとえば、楊ぜんをつれて、どこかに逃げるというのはどうだろう。殷も周も妲己も何もかも忘れて、楊ぜんと二人だけで。
 だけれどそれはひどく甘い、でも、夢に過ぎない。逃げたいという思いがいくら強くても、それを絶対に許さないのもまた自分だった。
 太公望は歴史を動かしてしまったのだ。すべては動き出してしまった。後戻りは許されない。なにより自分自身がそれを許さない。
 そして、太公望の傍にいれば、楊ぜんは必ず歴史の流れに巻き込まれてしまう。
 そんなことはしたくない。楊ぜんが大切なのだ。守ってやりたいのだ。不幸になどなって欲しくないのだ。ましてや、自分のために死ぬなどということがあってはならないのだ。
 だから太公望が楊ぜんのためにできるたった一つのことは、自分の思いを封印してしまうことだったはずだ。
 復讐に恋心などいらない。そんなものは邪魔なだけだ。
 思おうとしてできなかった。自分の思いを見くびっていた。それはそんなに簡単に捨ててしまえる感情ではなかった。それは、復讐という形のない化け物に魅入られてしまった太公望の、最後の人間性への砦だったのだから。
 そう、矛盾しているのだ。楊ぜんへの思いを封印してしまおうとした、その思いもまた、楊ぜんへの思いから出ていたものなのだから。
 そして今、楊ぜんは太公望の腕の中にいる。
 何を考えているのだろう。じっとして動かない。動くのを恐れているかのような楊ぜん。
 わずかに頷いた気がした。
「きっと、不幸になる」
 いいながら太公望は思う。これはすごく卑怯だ。自分が楊ぜんをあきらめることができないから、楊ぜんに嫌って欲しいと願っている。嫌うよう仕向けている。なんて卑怯なのだろう。



 楊ぜんはただ黙ってそれを聞いていた。
 ああ、そうか。
 なんとなく理解する。
 この人は――怖いんだ。
 楊ぜんを受け入れることが、楊ぜんに受け入れられることが。
 だからわざと楊ぜんを遠ざけようとする。
 それはきっと楊ぜんを嫌っているからではなくてきっと、その逆で。

 だとしたら、なんてかわいそうな人なのだろう。

 呪縛は解けた。
 楊ぜんは手を伸ばして太公望を抱きしめる。
「楊ぜん……?」
 自分から目をそらそうとする太公望に、楊ぜんは笑って見せた。あくまでも幸せそうに。
「あなたと一緒にいます。傍に置いてくださいね」
「しかし、おぬし……」
「僕は不幸になんかなりませんよ、絶対に。だってあなたが傍にいてくださるんでしょう」
「楊ぜん」
「あなたが傍にいてくだされば、僕は幸せなんです」
「……。困ったのぉ」
 その声が本当に困っているふうだったから、楊ぜんはまた少し笑った。
「あなたはね、頭がいいくせに何にもわかっていないんですよ」
「それをおぬしが言うのか」
「不幸かどうかはね。僕が決めるんです。あなたが決めなくても結構です」
「可愛げのないことを……」
「そこが好きなのでしょう」
 くすっと笑う。

 憮然とした太公望は不機嫌な顔のまんま、楊ぜんの頭を抱え込むと無理やり楊ぜんに口付けた。思いっきり引っかかれても、離してなどやらなかった。
「あ……あなたという人は、なんて事を……」
 顔を火照らせ、逃げようともがく楊ぜんに太公望は言う。軽く笑って。



「そこが好きなのであろう」



 そして――呪縛が解ける。

end.

novel.