Kiss me, Angel!



 蝋燭の明かりがゆれている。
 それだけならなかなか風情のあるものかもしれないが、BGMが音痴の見本にでもなれそうな下手な歌で、しかも男のだみ声だったりすると、なかなかいまいましいものだ。それが一人だったらまだしも二人三人と一緒に歌っていて、しかも見事に全員が音をはずしているのだ。
「のう、楊ぜん。兵達の訓練に、情操教育と賞して音楽を加えるのはどうかのお?」
 本気とも冗談ともいえない口調で太公望が言う。
「やめてくださいよ。毎日あの歌を聞かされるんですよ」
 大体どうして情操教育が必要なんですか。うんざりといった調子で楊ぜんは尋ねる。
「宴会のたびにこの歌を聞かされるのでは、わしの耳がおかしくなる」
 お祭り好きの周の人々はこともあろうに、月に一度の割合で宴会を開くのだ。ちなみに主催は武王サマである。単純に彼自身が飲んで騒ぎたいだけだろうと、楊ぜんは睨んでいるが、それはあながち外れてもいなかった。
「花見はこないだやったばかりではないか」
 軍師サマはご機嫌斜めだ。姫発はこともあろうに、酒の調達に仙桃を当てにしているのである。確かにお金はかからないし、二日酔いもない。これ以上好都合な酒はそうないだろう。
「今度は夜桜だそうです。次はタンポポででもやるんでしょ」
 そう言って楊ぜんは一気に酒を飲み干した。
 びっくりしたように太公望は楊ぜんを見る。
「おぬし酒は飲めぬのではなかったのか」
 楊ぜんはこっくり頷く。
「だけど、ここに素面でいたら、頭がおかしくなります」
 なるほど。
「あまり無理するでないよ」
 そういう太公望に頷いて楊ぜんは杯を差し出す。
「おかわり」
「楊ぜん?」
 飲めぬのではなかったのか?
「このお酒おいしいですね」
 にっこり笑って楊ぜんは言う。太公望は迷った挙句、杯に酒を注いだ。飲めないというのだって本人から聞いただけだし、その本人が大丈夫そうなのだから、別にかまわないだろう。
「そうであろう、何しろ玉虚宮からかっぱらってきたのだからな」
 他のものはどうであれ、愛しの楊ぜんにおいしいといってもらえるのなら、泣く泣くとっておきの仙桃を差し出したかいもあるというものだ。
 その上楊ぜんは機嫌がいいから、こんなことまで言ってくれちゃったりするのである。
「師叔。僕がおつぎしますよ」
 普段なら、頼んだって僕はバーのホステスじゃないんですとか言って逃げてしまうくせに。
「おお、かたじけないのぉ」
 とくとくとく。注がれた酒の中に三日月が写っている。
 お互いに注しつ注されつ。ちょっとした新婚さん気分である。
 宴会も下手な歌もいいものかもしれない。ほんの少し感動して太公望はそんなことを考えた。
 だけど。
 やっぱり飲めない人にお酒を飲ませてはいけないのである。たとえ本人が大丈夫そうに見えたとしても。
 はじめはたいしたことなかった。やけに機嫌がいいと思っていた程度だ。楊ぜんは珍しく、自分のことを話したがったし、いつもより太公望にくっついてきた。お酒でほんのり赤く染まった目尻が妙に色っぽくて、兵士や道士たちの羨望の視線を浴びながらちょっぴり優越感に浸ったりしていた。
 この辺でやめさせとけばよかったのだ。今にして思えば。



 それから一時間くらいたっただろうか。楊ぜんはお酒のせいでほんの少しとろんとした眼をこちらに向けて、そしていった。目を閉じて、唇をかわいらしく尖らせて。甘ったるい声で。
「ねぇ、師叔。キスしてください」
 ぴくっと周りにいたもの立ちの耳が反応した。好奇心と恨みがましさのない混ぜになった目がこちらをじろぉっと睨んでいる。もちろん睨まれているのは太公望。
 ちょっと待て、わしがなにかしたわけではなかろう。慌てふためいて太公望は考える。
 楊ぜんは可愛いが、兵士道士エトセトラの視線は怖い。それに加えて、見かけはどうであれ、太公望は立派なおじいさんだったりする。いくらなんでも人前でキスというのはちょっと……。
「師叔っ」
 なかなかキスしてくれない太公望にじれて楊ぜんは声をあげる。周囲の視線が重くなった。これは並みの宝貝よりずっと怖いかもしれない。
「楊ぜん、ほら……ここは人目があるから、あとで……」
 いつもならそういうことを気にするのはむしろ楊ぜんのハズなのに。もったいないのぉと思いつつも太公望はそういう。
 だけど。
「嫌っ。いましてくれないんなら、泣いちゃう」
 お酒のせいで完全にお子様返りした楊ぜんは、そう言って太公望を睨みつけた。言葉遣いもちょっとおかしくなっている。
 それにしても泣きたいのはこっちのほうだ。いまや周囲の視線は完全に刺を持っている。楊ぜんにキスしても、楊ぜんにキスしないで泣かせても、どの道太公望は串刺しだろう。
 同じ串刺しなら、どちらをとるかは歴然である。というわけで、原始天尊サマの一番弟子はあっさり誘惑に負けた。
「楊ぜん」
 軽く肩に手を乗せて。そっと顔を近づかせて。
 やわらかい唇の感触。
 周りから、おおっ。と、どよめきがもれた。ほんの少しの優越感。たとえ酔っているとはいえ、楊ぜんがキスをねだるのはいつだって太公望なのだから。
 目を開けた楊ぜんは、ちょっと困った顔をした。うつむいて、もじもじして。
「そぉじゃなくって。こないだみたいにちゃんとキスしてください」
 ぴたっ。周囲の音が消える。同時に太公望も止まった。
「よーぜん?」
 声がひっくり返っている。
「駄目ですか?」
 上目遣いのこの眼に勝てる男なんているんだろうか。
 しかしだ。周囲は完全に野次馬と化している。しかも兵士の中にはなぜか、槍だの剣だの構えちゃってるのもいたりする。
「楊ぜん……そのぉ、後でというのは……」
 男らしくなく太公望がうだうだ言い始めたとき――。
「なぁにいってんのよ、太公望。男ならそのまんま押し倒しなさいっ!」
 きわめて男らしい一声が響いた。蝉玉である。相当酔っているらしく、目が据わっちゃってるのが結構怖い。
 おおっ、と再びどよめきが漏れる。そーだっ。やれ、やれっ!と無責任な声まで飛んできた。
「ちょ、ちょっと待て。なぜ押し倒すのだ?」
 楊ぜんはキスして欲しいのであろう。なぜ話が飛躍する?
「あんたって、莫迦じゃないの?女の子がキスしてって言うんなら、それって最後までいっちゃってってことじゃないのっ!」
 そうだろうか。ついてでにいっとくと、楊ぜんは女の子ではない。
「さあっ。さっさとやりなさいっ。見届けてあげるわっ」
 仁王立ちになって蝉玉は言い放つ。
「ちょっとまてといっておるだろうが。大体わしらは見世物ではないっ!」
「あんた女の子に恥かかせる気?」
 そういわれてしまうと太公望としては立場が弱い。
「だから、違うと……」
 その時。
「もぉいいですっ!」
 それまで黙りこくっていた楊ぜんが叫んだ。
「師叔は僕のこと嫌いになっちゃったんですね。だからキスしてくれないんだ」
 さっきのお子様な感じとは微妙に異なって。ひょっとすると楊ぜんは泣き上戸でもあったのかもしれない。
「楊ぜん、それは」
 違う、という前に楊ぜんが重ねる。
「始めっから同情だったんでしょう。好きなんかじゃなかったんでしょう。だから初めてのときも最後までやってくれなかったんだ」
 たぶんこれはきっと、ディープキスのことをいっているのだとおもう。唇を離したのは罪悪感からだったのだが、楊ぜんはそれにすねているのだ。事情を知ってる太公望にはわかる。
 だけど、この台詞は深く深く誤解をうむ可能性がある。
 槍を持った兵の数が多くなった。しかも半数の目が据わっていたりする。
「太公望……あなたって」
 蝉玉がふるふる首を振った。
「不能だったのね……」
「ちがぁうっ!」
 天化が蝉玉の肩をぽんとたたいた。完全に太公望を無視して。
「そこまではっきりいっちゃ、かわいそーさ。きっとスースだって、気にしてるさ」
「だから違うと」
 ラスト。姫発がしみじみといった。またもや太公望を無視して。
「心配するなって、太公望。楊ぜんのことは俺に任せとけ」
「誰が任せるかっ!……よぉし。そこまでいうならよかろう。キスだってその先だって、今この場でしてやろうではないか。のう、楊ぜん」
 啖呵きって振り返ったその先。
 根本原因たる楊ぜんはいとも幸せそうにすやすやと寝息をかいていたりする。桜の木によりかかって。青い髪に花びらがひとひら。
 軽く太公望は苦笑した。
 それはなかろう、楊ぜん。
 しぃっと人差し指を立てる。声を潜めて。
「わしが部屋まで運ぶから、おぬしらはこのまま続けておれ」
「だけど、太公望。楊ぜん、運ぶんならお前より俺たちのほうがよくないか」
 いった姫発の言葉をやんわりと断る。
「こやつは軽いからわし一人でも大丈夫だよ」
 それに。と心の中で太公望は続ける。
 わしのかわいい楊ぜんをおぬしらなんぞに触らせてやるものか。
 独占欲いっぱいで楊ぜんを抱き上げる。バランスが悪くってふらふらする。眠っている人間は重いのだ。
「大丈夫さ?あれで」
 思わず言った天化の言葉に蝉玉は頷く。
「きっと大丈夫よ」
 それから少し声を張り上げた。
「たいこーぼーっ、今度はちゃんと最後までやるのよーっ!」
 ふらふらしていた影が大きくずっこけるのがわかった。蝉玉はちょっと首を傾げる。
「やっぱり駄目かも」



   ☆



「うわっ、えっ。いやっ。きゃああああぁっ!」
 朝起きたとたん、楊ぜんは大声で悲鳴をあげる。ばたん、と音がして太公望が寝台の上から落っこちた。
「ううっ。なんつー声を……」
 頭を抑えて太公望は首を振る。
「なんでっ。どーして師叔が僕の部屋で寝てるんですかっ!」
 太公望ははあっとため息をつく。
「おぬしもしやなぁんにも覚えておらぬのか?」
 こくんと楊ぜんは頷く。
「師叔。僕に何かしたんですか?」
 ひしっと布団を握り締めて太公望に尋ねる。
「何にもしておらぬよ」
 しようと思ったらおぬしが寝ていたのではないか。仕方なく楊ぜんを部屋まで運んだ太公望は、力尽きて結局自分もそこで寝てしまったのだ。ひょっとしたら、結構酔っていたのかも知れない。
 大体何かされたのなら、自分でわかるだろうに、それすらわかってないところが可愛い。
 太公望はにまぁっと笑う。昨日は散々だったから、その借りを返してもらおう。ほんの少し警戒しているような楊ぜんを無理やりぎゅっと抱きしめる。
「昨晩は何にもしなかった。だから今、キスしよう」
 ちゃんとしたキスを。

end.

novel.