Kiss Panic
西岐城、周軍軍師様の寝室にて。軍師殿と補佐官殿はじゃれあっている。蝋燭の明かりはゆらゆらゆれて、二人の影をゆらゆらと映し出す。今日は新月なのか、月明かりもなく、辺りはひたすら暗かったのだが、そんなこと二人は全く気にしていないようだ。
寝台の上に腰掛けて、二人はぺったりとくっついている。
「それでね、師叔。師匠が哮天犬に追いかけられて……」
「ほおぅ、あの玉鼎がのぉ」
楊ぜんの話に適当に相槌を打ちながら、太公望はほんの少し物足りなさも覚えていた。それは、楊ぜんと話をするのは――たとえそれが、玉鼎真人と哮天犬の話が大部分だとしても――楽しいのだが。だけれど、せっかく今は夜で、部屋には二人っきりで、蝋燭の明かりに照らし出される楊ぜんの顔はほんの少し赤っぽく見えて、パジャマから伸びた首のラインなんかはそのまま芸術品にできるほど綺麗だと言うのに。どうしてこんな、ありきたりな会話しか二人の間にはないのだろう。
いや、勿論。楊ぜんが楽しそうにこんなことを話してくれる相手は、自分以外にはほとんどいないってことはわかってるのだけれど。
だけれど現状よりも先を望むのが人間と言うものではあるまいか。
「のぉ、楊ぜん。おしゃべりも良いのだが。……そのぉ、せっかく二人っきりであることだし……」
そんなことをいいながら太公望は楊ぜんの様子を窺ってみる。
楊ぜんは困ったような顔をした。
「師叔。僕の話、退屈ですか?」
「いや、そーではなくて……」
いいながら太公望は立ち上がる。楊ぜんの前にたって、そっと両手で楊ぜんの頬をはさみこんで。
「もっと、いいことをしよう」
どうやら彼は実力行使に出ることにしたらしい。
楊ぜんが目を閉じるのと同時に太公望は軽く楊ぜんに口付けた。
が。
「師叔。もうお休みですか?疲れてたんですね。それならそうとおっしゃってくれれば良いのに。あなたは優しすぎるんです」
楊ぜんはおっとりとこんなことを言う。
「いや、楊ぜん。そうではなくて」
太公望は困惑しながらも仕方なく言ってみる。
「お休みのキス以外にも、キスはあるであろう?」
「おはようのキス……?」
楊ぜんは一つ小首をかしげる。
何なのだろう、このカマトトぶりは。
しかも、いちいち可愛いからやたら始末に悪いのだ。と太公望は変な八つ当たりをした。
「楊ぜん。何も挨拶以外にも、キスはあるであろう」
楊ぜんはちょっときょとんとする。
「でも師匠が、やたらとキスするのは良くないよって」
「わしとならいつでもキスしてよいのだ」
太公望はめちゃくちゃなことを言った。
「ふーん」
楊ぜんは首をかしげる。
「じゃあ、師叔。キスしてください」
んーっと楊ぜんはキスのおねだり。
太公望はちょっと慌てる。
「楊ぜん?」
「だって、いつでもキスしていいのでしょう」
意外と積極的だったのか、楊ぜんは片目だけ開いてそんなことを言う。
「しょうがないのぉ」
にやけきった顔は幸いにも陰になって楊ぜんには見えなかったようだ。
チュッと一つキスをして、太公望は楊ぜんの唇をぺろりとなめる。楊ぜんは驚いて目を開けた。びくんと身体が震えるのがわかって、太公望はほんの少し笑う。
「楊ぜん。目を閉じよ」
「師叔……何するんですか……?」
「キスして欲しいのであろう?」
目を開いたまんまの楊ぜんにかまわず太公望はもう一度接吻を繰り返す。ゆるく開いた唇を舌でこじ開ける。楊ぜんはぱちぱちと瞬きをした。
「んッ……?」
後ろに逃げようとする楊ぜんの頭を左手で抱え込む。指にさらさらと青い髪が絡む。
「……ん……んッ」
逃げようとする楊ぜんの舌を捕らえて。絡みつくように。
楊ぜんは怖くなったのか、そのまま寝台を後ずさりし、その拍子に手が滑ってばたんと寝台の上に倒れた。おかげで唇は離れたようだ。楊ぜんは呼吸を整えると、はあっと一つ息をついた。
一方の太公望もちょっと困っていた。偶然とはいえ、どうやら楊ぜんにのしかかってしまったわけで。
ちょうど自分の下に楊ぜんがいる。白いシーツの上に青い髪がくねくねと模様を描き、白い肌はほんの少し上気して、おまけにちょっと目が潤んでいる。さっきのキスのせいで唇はぬらぬらと光った。
楊ぜんは太公望をにらみつけると、手元にあった枕を抱えて、それをバシッと太公望の顔めがけて投げつける。
「師叔の莫迦」
太公望は枕をつかんだ。
「おぬしがキスして欲しいと言ったのではないか」
「重いです。どいてください。のっからないで」
「ああ、すまぬ」
太公望はガラにもなく照れて赤くなり、楊ぜんの隣に横たわると、その髪を撫でた。
「ごめん。楊ぜん。初めてだったのか、おぬし」
ほほぅ。こういうのをファーストキスというのかのぉ、と太公望は少しばかり喜んだ。
「だって。良くわかんないです。師叔はああいうキスのほうが好きなんですか?」
「そぉだのぉ。でも、楊ぜんとキスできるのならどちらでも良いが、でもああいうのもたまには良いだろう?」
よくわかんないです、と楊ぜんはもう一回呟いた。
「そのうち、良くなるよ。初めてでは仕方なかろう。お休み、楊ぜん」
「おやすみなさい。師叔」
そしてその日の夜は更けたのだった。
☆
さて、その翌日。
楊ぜんは考えていた。
師叔はあんなこと言ったけど、やっぱりああいうキスのほうが、好きなんじゃないだろうか。初めてなら仕方ないって、だったら、僕とキスしてもあんまり気持ちよくなれなかったんじゃないだろうか……?
書類をトントンとまとめながら楊ぜんは近くにいた姫発に尋ねる。
「ねぇ、武王。キスに上手い下手ってあるのかな?」
「そりゃぁ、あるだろうけどよ。どうしたんだ、楊ぜん?」
姫発は怪訝そうに突っ立ってる楊ぜんを見上げる。
「そうですか……。やっぱり上手い人としたほうがいいですよね。武王も」
「まあな。おい、楊ぜん。なんかあったのか?」
そういいながら、熱でもはかろうとしたのか伸ばしてきた姫発の手を楊ぜんは軽くよけた。
「そうですか……」
ゆらゆらと楊ぜんは部屋を出て行こうとする。
「おい、楊ぜん。まだ仕事終わってねぇぞっ」
「僕ちょっと調べものがあるので」
楊ぜんはそういうと今度こそゆらゆらと部屋を出て行った。
何かを調べるときは本を読むのが一番。と言うわけで、楊ぜんは資料室に向かう。
だけど。
「何で。どうして、ちゃんとしたキスの手引書がないのっ!」
そんな本、周軍関係の資料室にあるわけがないのである。
本でわからなければ、師匠に聞きなさい。とはいえ、下界に師匠はいないのである。もっとも訊いたところで教えてくれるかどうかはちょっと疑問ではあるが。
楊ぜんはすっかり困ってしまった。だって楊ぜんは完璧主義者なのだ。わからないままじゃ、師叔とキスできない。
次に楊ぜんが考えたのは人に訊くということだった。
というわけで彼は通りすがりの文官らしき人に声をかける。まだ新米なのかなかなか若い頬ににきびのある文官は、よりによって天才道士楊ぜん様に声をかけられたとあって、がちがちに緊張しまくっていた。
「な、何でしょう」
「あ、かたくならないでよ。ちょっと訊きたいことがあるだけだから」
「は、はいっ。ワタクシにお答えできることならば喜んでお答えいたしますっ!」
楊ぜんは気軽に声をかけたことにちょっと後悔をする。なんだかとても、訊きにくくなってしまった。
「えっと、君はそのぉ……キスしたことってある?」
「は?」
新米文官は可哀想に顔を引きつらせた。
「キスといいますと、ええとその、魚のことでしょうか?」
必死になって逃げ道を探したらしい。
文官の困惑振りに、今ごろになって自分が相当非常識なことを訊いているらしいと意識した楊ぜんは、急に赤くなった。
「そうじゃないんだけど……」
ちょっと困った顔をした楊ぜんは、少女めいて見えて、なかなか可愛くもある。文官は気づかれないようにごくりと唾液を飲み下した。
「ええと、つまり男女でやる……接吻のことでしょうか」
「男女じゃなくても、いいんじゃないかな、別に」
楊ぜんは何気なくそんなことを言ったのだが、この台詞の流れよぉく考えると誘ってるようにも聞こえてしまうわけで。
文官は赤くなってどもりながらも言う。
「よ、楊ぜん様、ワタクシは。そのぉ。あなたとならば道を踏み外すのにやぶさかではなく……し、しかし。あなたともあろう人が、そんなワタクシなどの元へ降嫁してくださるというのは、夢のようなお話でありまして、やはり家族ともどもと相談しないわけにも……」
かなりすさまじい勘違いはしているようである。
「ちょっと待ってよ。何でそうなるの?」
勿論楊ぜんは大いに慌てた。
「僕はそんなこと一言も言ってないからね。だいたい僕は師叔が好きなんだから」
とたん文官はしゅんとする。
「そうですね。どうせからかってただけなんですね。そうなんでしょう。どうせそうなんだ。そうに決まってる……」
うわああ。と文官は泣き声を上げて走っていった。
楊ぜんはきょとんとする。
「僕何か悪いことしたのかな……?」
それから思いっきり首をひねった。
「しょうがないや。ほかの人に訊こう」
が、まだあきらめてはいないようである。
次に楊ぜんが向かったのは武成王府だった。一番経験のありそうな人、で姫発などのように危なくなさそうな人、という観点で選んだのがつまり黄飛虎で、妻帯者なら間違いないだろうと安易な考えの結果でもあったりする。
「おお、楊ぜん殿どうしたんだ?」
「ちょっと訊きたいことがあって」
楊ぜんは黄飛虎を見上げる。楊ぜんだってなかなか背の高いほうだから、誰かを見上げて話をするなんてことは滅多にない。それでも不思議と、自分より背の高い人の傍にいるのは安心するのだ。なんだか師匠と一緒にいるような気がして。
「武成王、あのぉ、キスしたことってありますか?」
「よ……楊ぜん殿?ええとそれは……魚のことか?」
飛虎もあせっていたが、楊ぜんだってあせっていた。どうしてさっきと同じ会話の流れになるんだろう。このままで行くとまた変な勘違いを生むことになるのだろうか。
「そうじゃなくって、えっと、あの」
どうしよう。どうしたらいい?ここで会話を終わらせることは簡単だけど、でもそれじゃ、キスの仕方が、わかんない。つまり師叔とキスできないわけで……。
あせりまくった楊ぜん、ちょっととんでもないことを考えるわけである。
すなわち。
こうなったら、実践勝負。
ってなわけで楊ぜん、ちょっと生真面目な顔を作る。
「キスしてください」
「あ?」
「誤解しないでくださいね。実験台になってくださいっていったんです」
「ちょっと待てよ、楊ぜん殿!」
さて、困ったのは黄飛虎である。顔をほんの少し上に上げて、目なんか閉じちゃってる楊ぜんは実に可愛い。長すぎる睫がかすかに震えている様子など、これが本当は男なんだってことをすら、わすれさせてしまうくらいに。
しかも、いとしの妻はもう故人で黄飛虎には制約がないのである。
楊ぜんが太公望とデキてるのは知ってるが、当の本人がキスを迫ってるのだし、彼曰く実験台になってくれと言うことで。
いやぁ、わりぃな太公望殿。楊ぜん殿がどうしても練習相手になってくれって頼みこまれちまって、しょうがなくてさぁ。そんな言い訳だって成り立つ気がする。
そして、据え膳食わねば男の恥と言う便利なことわざもあったりするもので……。
ま、いっか。本人が頼んでることだし。
というわけで黄飛虎は、楊ぜんの見かけよりずっと華奢な肩に手をかける。
そしてそぉっと……
――あなたッ!
鋭い声が聞こえた気がした。
びくっと黄飛虎は硬直する。
「か……賈氏……?」
黄飛虎は顔を引きつらせる。貞淑な美しい妻は、実は怒るととんでもなく怖いのである。
――黄家の家長ともあろう者が男相手に血迷うとは何事です!まして、その方はあなたの上司の想い人ではありませんか!
「ひぇっ。すまねぇ、楊ぜん殿。俺には無理だ。ほかをあたってくれ」
急に小さくなってしまったように見える黄飛虎に楊ぜんは首をかしげた。
「そんな。困ります」
「太公望殿に教わればいいだろ……って、太公望殿も経験ないのか、ひょっとして?」
ありそうなことだなぁと黄飛虎は思った。
だが意に反して楊ぜんは首を振る。
「でも、師叔じゃ駄目なんです」
楊ぜんは困りきった顔をする。どうしよう、このままじゃ師叔とキスできない。
「イキナリ上手くならなくったっていいだろう。そういうのは。太公望殿だって変に練習とかそういうのはして欲しくないと思うがな」
そういって黄飛虎は楊ぜんの頭を軽く撫でた。どうも楊ぜんと話していると自分よりずっと幼い子供と話しているような気がしてきてしまうのだ。
太公望が楊ぜんのことを好きになったのが少しだけわかったような気がした。ああいう、何から何まで自分の手で抱え込んでしまうような男は、こんなふうに一見しっかりして見えるくせにやたら、危なっかしくって頼りなくって目を離したらどこかで泣いているのじゃないかと心配になってしまいそうな相手を放って置くことなんかとても出来ないのだろう。
「そうですか?」
「そういうところもきっと、太公望殿は楊ぜん殿のことが好きなんだろうよ」
「下手でも?」
「下手でも」
楊ぜんはわかったのかわかってないのかわからないような顔をして武成王府を後にした。
☆
夜。楊ぜんは、部屋に入ったとたん、待ち構えていた太公望につかまってしまう。
「おぬし昼間はどうしておったのだ?おぬしが抜けたおかげで仕事が滞って大変だったのだぞ」
「ごめんなさい」
謝りつつも、楊ぜんはなんだか、にこにこしていた。
「おぬし真面目に聞いておるのか」
「聞いてますよ」
「あやしいのぉ」
「聞いてますって」
太公望はじろぉっと楊ぜんをにらんだ後、不意に表情を緩める。
「まあ良いか。それよりおぬしなにやら嬉しそうだが、いいことでもあったのか?」
楊ぜんはにっこり笑う。それからぎゅうっと太公望に抱きついた。
「師叔。下手でもいいんですよね」
「は?」
太公望はぽかんとした。
楊ぜんは太公望に抱きついたまんま寝台の上に腰を下ろす。ので太公望もしょうがなく寝台の上に腰掛けた。
「お、おぬし。どうしたのだ?」
なんだか不穏な空気に太公望はどぎまぎする。
楊ぜんは黙ったままそっと太公望の頬に手を這わせ。そのまま太公望にのしかかるように。
「楊ぜん。ちょっと待て、早まるでないっ。っつーか、これは逆であろうっ」
「師叔っ。逃げないで。はじめは駄目でもきっと良くなります。僕がんばりますから」
「だあああっ。がんばらなくて良いっ!」
太公望は貞操の危機を感じて、ばたばたと楊ぜんから逃げた。どこで何を聞かされたのか知らないが恐ろしいことこの上ない。
「酷い。師叔。そんなに僕のこと嫌なんですか」
目に涙をためて楊ぜんは訴える。そういうことをされてしまうと、太公望のほうにもいささかの罪悪感はあるわけで。
「そ、そうではないのだが。わしはそのぉ……痛いのは嫌なのだ」
言ってしまってから、太公望は慌てて口を押さえる。この台詞はとんでもなく自分勝手だ。ひっくり返せば、楊ぜんが痛い思いをするのはいいということになってしまう。
が、おかしなことにこれに対する楊ぜんの反論は無かった。代わりに楊ぜんはきょとんとして太公望を見つめている。
「え、何でキスが痛いんですか……?」
きす?
「おぬしキスしてくれるつもりだったのか?」
「やっぱり修行してきます」
楊ぜんはしゅんとうなだれる。
修行って……。いやぁな予感が太公望の頭をかすめた。
「お、おぬしまさかとは思うが、今日一日そのぉ、キスの修行を……?」
恐ろしいことに楊ぜんはこくんと頷いた。
「でも誰も相手になってくれないんですよね」
太公望はほっと胸をなでおろす。それにしてもなんと恐ろしいことを考えるのだろう。太公望はちょっと不機嫌な声を作った。
「楊ぜん。わし以外のものとはキスをしてはならぬよ。勿論キスの修行もだ」
「でもそれじゃ、師叔のために上手くなれませんよ」
「ならなくてよい。楊ぜんはわしのものだからわししかキスしてはならぬのだ。良いな」
楊ぜんは怪訝そうな顔をしながら赤くなると言う器用なことをした。こやつまだわかっておらぬのと太公望は考える。
「わしはものすごく嫉妬深いからおぬしがほかの者とキスするなど考えただけで引き裂いてやりたくなるのだぞ」
「師叔」
くすっと楊ぜんは笑った。
太公望もくすっと笑う。だあほ、今のは結構本気なのだぞと思いながら。
「わかったか」
「わかりました」
太公望はにんまりと笑う。
「ではさっきの続きをしよう」
「え……。師叔。そういえばさっきは僕が何をする気だと思われたのですか?とてもあせってらっしゃいましたけど」
うっ、と太公望は言葉に詰まる。
「楊ぜん。そんなことはどうでも良かろう」
言わぬが花という奴だ。
そして、先手をとられないうちに太公望は必要も無いのにしっかりと楊ぜんを押し倒したのだった。
☆
翌日。軍師補佐殿の部屋にはちょっと変わった修行の申し込みが殺到したらしい。軍師殿はいたくお怒りになって、その申込状をことごとく破り捨ててしまったという話である。
end.
novel.
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