真夜中の訪問者



 とんとんとん。
 軽く部屋のドアを叩く音がしたので、太公望は眠い目をごしごしこすりながら身を起こす。それから一回頭をふった。のろのろと寝台から立ち上がる。
 太公望がなかなか出てこないからノックの音はいらだったように早くなり、「とんとん」、はやがて「どんどん」になった。
 はて、誰だろうか。こんな時間に。
 太公望がドアの前にたどり着くまでにとうとうノックは「どんどん」から「ばんばん」、に変わる。
 急用だろうか?太公望の見込みではここしばらく、妲己は動かないと予測が立っている。見込みが外れたのだろうか?それはまずないと思うのだけれど。
 「ばんばん」の音はやがて「がたんがたん」になる。まるで、ドアをぶち壊そうとしてるみたいに。太公望はいささか身の危険を感じながらもそぉっとドアを開いてみる。
 と。
 ドアの向こう側にいた楊ぜんは慌てて何かを、背中に隠した。ちらりと三叉刀の刃が見える。ひょっとしたら本気でドアを壊すつもりだったのかもしれない。それにその上。
「楊ぜん、おぬし……どうしたのだ?」
 太公望は怪訝そうに尋ねる。楊ぜんの格好は、はっきり言って尋常じゃなかった。ずぶぬれなのだ。頭からびっしょり水をかぶって。パジャマが身体に張り付いている。髪からは絶えずしずくが落ちているし、たっている廊下には水溜りができている。
 何か、あったのだろうか?
 たとえば、敵に襲われた、とか。
 それでなんで、楊ぜんがぬれているのかはわからないが、太公望はとっさにそんなことを考えた。たとえば、足を踏み外してお城の池の中に落っこちたとか……天才楊ぜんにそんなことあるわけないか。
 しかし、楊ぜんでもかなわない敵となれば、一大事である。
 だけどあっさりと楊ぜんは首を振って答えた。
「僕の部屋のシャワー、壊れちゃったんです」
 なんだか、妙に情けないしかられた子供みたいな顔をしている。
「は?」
 敵襲とか、そういうのではなかったのか。
「それで、大衆浴場みたいなのがあるってきいたから、行ってみようかと思うんですけれど、でも。そういうところに僕が一人で行ったら、みんな気を使っちゃうだろうし、それに僕、あんまり人がたくさんいるところは苦手で。だから」
 要するに楊ぜんは壊れたシャワーのせいで水をかぶってしまったらしい。そして、大衆浴場には行ってみたいが、一人で行くのは怖いからと、太公望を誘いに来たようだ。この、とんでもない真夜中に。
「うぬぅ……」
 太公望は唸る。最近ちょっとこの可愛い恋人を甘やかしすぎてる気がする。ここは一つ亭主関白を気取るためにもキビシクばしっといっておくべきかもしれない。こういうことは最初が肝心なのだ。
「楊ぜん。おぬし今何時だと思っておるのだ?」
 太公望は少しだけ怖い声を出す。腕を組んで怒ってることをちょっと強調してみたりして。
 とたん、楊ぜんはしゅんとする。
「そうですよね。ご迷惑でしたね。ごめんなさい師叔」
 細い肩の線が心持下がったような気がした。
 そして、そんな様子を見せ付けられると、なんだか、たまらなくかわいそうになってしまうのだ。自分のほうが悪いような気持ちになってしまう。
 その上、太公望は同時に気づいちゃったりするのだ。
 お風呂と言えば裸なのである。
 しかも、だ。楊ぜんが入るのはやっぱり男湯で……ってことは、男が入ってくるってことで。もちろん、こんな時間にお風呂に入りに来る物好きはあんまりいないだろう。だけど、その確立はゼロではないわけで……。
 つまり楊ぜんの裸が誰かほかの男に見られてしまう可能性もあるってことなのだ。
 冗談じゃない。わしだって見たことないのに。
 そして、一緒にお風呂に入れば楊ぜんのヌードがなまで見られたりするのだ。
 とたん、太公望は180度意見をかえる。
「楊ぜん、待っておれ、やはりわしも行く」
 言うが早いか太公望はいそいそと支度をはじめた。
「でも師叔。眠いんでしょう。疲れてるんでしょう」
「いや、大丈夫だよ。楊ぜん。おぬしを一人にはしておけぬであろう」
 楊ぜんは師叔優しいっ。と感動したようで、もちろんその下にある下心になんか全然気づかなかった。のんきなものである。

 

    ☆

 

 西岐城内の浴場となれば、さぞかし立派で贅を尽くしたものかと思いきや、わりとシンプルで鄙びたお宿の温泉のような浴場だった。誰かの趣味なのかも知れない。
 太公望はお風呂の前で前後左右、ついでに上下まで見渡して誰もいないことを確かめると、懐からなにやら取り出す。広げて、男湯の前にガムテープで貼り付けた。
『清掃中。入るべからず』
 まぁ、周軍の誇る軍師様の知能と言えど俗に落としてしまえばこんなもんなのである。しかし、だ。単純な計画こそ成功率は高いのだ。太公望は満足そうに一人で悦に入っている。
 隣で楊ぜんがきょとんとして尋ねた。
「師叔。掃除するんですか?」
 太公望はほんの少しがっくりする。
「楊ぜん。こうしておけば、二人っきりになれるであろう」
 楊ぜんはその言葉にいまさらながら真っ赤になった。
 そして太公望も、なんだか赤くなる。
 お風呂に入るって言うのは当然服を脱がなきゃならないのだ。当然、自分も。ああ、もうちっとまともに修行してたら、少しはわしでも体格良くなったかも知れぬのにのぉ……。ほんの少しだけ、太公望は後悔した。
 が、当然のことながら楊ぜんの第一目標はお風呂に入ることであって、太公望の裸を見ることではない。ゆえにさっさと服を脱いで几帳面にたたんでいく。そしてそんなふうに堂々とされると、なぜか太公望のほうが理不尽に恥ずかしくなってしまう。
「おぬしもう少し、恥じらいと言うものを持たぬか」
 おかしい。楊ぜんのヌードを期待してきたはずなのに、どうして自分はこんな年寄りのような(実際年寄りなのだけど)注意をしているのだろう。
「は?」
 楊ぜんは髪をまとめて上にあげながらも、きょとんとする。ここは脱衣所で、脱衣所とは服を脱ぐところで、楊ぜんとしては非難されるいわれはないのである。
 ほんの少し首を傾げてから楊ぜんは言った。
「僕、先にお風呂に入ってますね」
 太公望はううとかああとか言いながら頷いて、楊ぜんかきえたあと、一つため息をつく。
 白い肌が目に焼き付いてしょうがなかった。
 そんなにじろじろ眺めたわけじゃない。むしろ太公望は居たたまれなくなってすぐに視線をはずしたから一瞬ちらっと見ただけなんだけれど。
 それが網膜に焼き付いてどうしても離れない。
 奇妙な後ろめたさがあった。
「師叔、はやくぅ」
 なんだか上機嫌の楊ぜんの声にせかされて、太公望は時間稼ぎするみたいにのろのろと服を脱ぎ、のろのろお風呂の引き戸を開ける。一面の湯気に太公望は妙にほっとする。わずかに鮮やかな青が覗けたから、きっとその辺に楊ぜんがいるのだろう。
 適当に身体を洗って、楊ぜんから少し離れたあたりのお湯に入って。
「ほぉう。いい湯だのぉ」
 年齢にぴったりな台詞を言った。ほんの少しエコーがかかる。
「師叔、もっと近くに来てくださればいいのに」
「しかし、せっかく広いんだから」
「そうだ。お背中でも流しましょうか?」
「よいよ」
「どうして?」
 本当のところ、太公望は恥ずかしかったのである。が、どうやら楊ぜんはそうは思っていないらしく。お湯の動く気配がする。どうやら楊ぜんの方が近くに来たようだ。
「僕のこと、お嫌いですか?」
 可愛らしい顔が思った以上にすぐ近くにあった。
「そんなことあるわけなかろう」
 楊ぜんは、太公望のすぐ傍でうーんっ、と手足を伸ばす。広いお風呂が気に入ったようだ。そして、いくら恥ずかしくてもそういう状態だとつい盗み見てしまうと言うのが男心と言うもので。
 白い肌とか、すらっとした首筋だとか、ほんの少し赤みを帯びたうなじのあたりとか、妙に艶めかしい鎖骨とか、長くて形のいい足とか。唇のふくらみまでが妙に色っぽいと言うか。
 太公望は軽く頭を振る。なんだか、眩暈がする。のぼせてしまったのだろうか。
 そしてそんな太公望をまたもや楊ぜんは勘違いする。
「師叔、やっぱり、眠いところ僕が無理に起こしちゃったんですね。ごめんなさい。師叔」
 覗きこんでくる楊ぜんの瞳。心持潤んで。視界がその紫でいっぱいになったような錯覚。
 太公望はたまらなくなって、思い切って楊ぜんの肩を抱く、抱きしめるように。顔が真っ赤なのは、湯あたりしたからだ、きっと。
 楊ぜんはちょっと無理のある姿勢で太公望にもたれかかり、上目遣いにうっとりと彼を眺めた。こちらはいたって幸せそう。楊ぜんはいつだって太公望に抱きしめてもらえれば、幸せなのである。ゆえに今だって上機嫌だ。
「いや、ただほんの少し怖かっただけだ」
 楊ぜんの肌はなめらかで心地良い。それを味わうかのように太公望は手を動かしてみる。楊ぜんがくすぐったそうにくすくす笑うから、太公望もちょっと当てが外れたような顔して一緒に笑った。
「あなたにも、怖いことなんてあるんですか」
「わしとて人間だからのぉ」
「食料庫の桃が尽きるのが一番怖いんですね」
 からかうようにそういって楊ぜんは笑う。
「おぬしに嫌われるのが、わしは一番怖いよ」
「嘘」
 くすっと笑って楊ぜんは軽く太公望に口付ける。まるで嘘つきな唇を封じようとするかのように。
「嘘ではない。おぬしが、あんまり完璧に整ってるから、わしはなんだか怖くなる。あまりにも、不釣合いな気がして。いつかおぬしが、わしを置いてどこかに行ってしまうのではないかという気がして」
 楊ぜんはほんの少し悲しそうな顔をする。
「逆ですよ。師叔が僕を置いていってしまうんです。僕はそれでも、ずっと師叔を待ってるんです。ねえ、師叔。僕たちはそんなに、不釣合いですか。釣合ってなかったら一緒にいられないんですか?」
「おぬしはわしで良いのか?」
 妙な不安が出てくるのも、のぼせたせい。そう思ってしまうことに、太公望は、した。
「師叔が良いんです。師叔じゃなきゃいやです」
 楊ぜんはそういって、ぎゅぅっと太公望に抱きつく。
 でもやっぱり師叔はもうちょっと身体鍛えたほうが良いかもしれない、なんて思いながら。
 だけれど、太公望がキスしてくれたから楊ぜんはそんなことどうでも良くなった。

 

「僕は全然、完璧なんかじゃないですよ」
 しばらくして楊ぜんは口を開く。ちょっとすねたように。
「どうしてそんなことおっしゃるんですか、師叔」
 太公望は少し口篭もってから。
「だって、おぬしは身体の隅々まで綺麗と言うか、美しいと言うか、男とは思えないほどその……」
 太公望はその後も、歯の浮くような台詞を延々いっていたような気がするが、楊ぜんははっきり言って覚えてなかった。
 身体の隅々まで……?
 代わりに、楊ぜんは少し考える。
 次の瞬間。
「師叔の莫迦っ!痴漢っ!」
 悲鳴とともに太公望の左の頬の傍でぱちんと大きな音がはじけた。

 

    ☆

 

 涼やかな風が顔にあたる。ひどく気持ちいいと思う。暑いからだ。湯上りで身体が火照っている。だからひどくあつい。
 太公望はなぜか寝ているらしい。枕にしたもの自体熱を発しているような気がする。ほんの少し、動いているような気がするのは気のせいだろうか。そして、いい匂いがする。石鹸のにおいだ。香水なんかよりも、この香りが一番いい。
 太公望はぼんやりと目を開ける。すぐ上に楊ぜんの顔があった。
「良かった。気が付いたんですね、師叔」
 楊ぜんは片手にうちわを持っている。扇いでいてくれたようだ。このままぼぉっと楊ぜんの顔を眺めていられるのは良いことだ。太公望は思う。楊ぜんは浴衣を着ている。パジャマをぬらしてしまったから借りたのだろう。似合っている。綺麗だ、と思う。
「ごめんなさい。師叔。僕がもう少し手加減すればよかったんです」
 それで太公望は楊ぜんに叩かれたことを思い出す。あれで失神したのだとしたら、本当に楊ぜんは手加減無しでやったのだろう。やっぱりもう少し、体力をつけておこうと太公望は思った。
 それとは別に、太公望は気づく。楊ぜんがしゃべるたびにほんの少し枕も動く。この状態はひょっとして膝枕というやつではなかろうか。
 こういうおまけがついてくるなら叩かれるのもそんなに悪くない。太公望は莫迦なことを考える。
「のぅ、楊ぜん。もう少しこうしていてくれぬかのぉ」
「でも師叔、あんまり遅くまで起きていると、明日に響きますよ」
 困ったように、でもほんの少し甘味をこめた声で楊ぜんは囁く。
「このまま寝てしまいたいのぉ」
 だけど、すでに太公望の語尾ははっきりしていない。
「それでは僕が眠れないじゃないですか」
 返事は返ってこなかった。太公望は無責任にも眠ってしまったようだ。
 楊ぜんはひとしきり文句をいって、ため息をついて、でも結局太公望を起こさないようにじっとしていた。

 なんだか、ひどく安らいだ気持ちになった。

end.

novel.