みずのおと
ちゃぽん。
水の音が聞こえた気がした。
どこでだろう。
耳を澄ましてみる。
不思議なくらい耳につくのに、聞こうとすると遠ざかってしまう音。
そしてそれが自分の頭の中で聞こえるものだと気が付いた。
ああ、そういえば。
太公望はやんわりと思い出す。
はるか昔にも、こんなことがあった気がする。
いつのことだったか……
「あーっ。師叔、またサボってますねっ」
扉を開けて入ってきた楊ぜんが開口一番こんなことを言う。そこで太公望の思考は中断された。
楊ぜんは太公望のいる机の前までつかつかと歩いてくると、怖い顔をしてにらんだ。顔が整ってると、怒っている顔も綺麗だと思ってしまう。変な話しだけれど、怒っている楊ぜんはにっこり微笑んでいるときよりも美しいと思う。
「違うわっ。おぬしが来るまでわしはずぅーっと仕事をしていたのだぞ。ほんの二、三秒前まではっ」
これは太公望にしてみれば、まさしく真実だったのだけれど、当然のことながら楊ぜんはそうは思ってくれなかった。紫の瞳がこっちを睨みつける。声が低くなる。あ、怒ってる。
「どうしてあなたともあろう人が、そんな子供だましな嘘をつくんですか」
そこで楊ぜんはぴっと一本指を立てた。
「そういう人にはお仕置きが必要ですね。今日のおやつは抜きです。いいですねっ」
「楊ぜん!そんな殺生な……」
太公望が情けない眼をして見せても、楊ぜんはそもそも見ようともしなかった。
「うぬぅ……ちなみに、今日のおやつは……?」
「柏餅だそうです。節句ですからね」
「なっ、それは季節ものではないかっ!」
太公望は慌てる。それでは今日食べ逃したらあと一年は食べられないではないか。
「楊ぜん、ちゃんと見てみよ。おぬし、サボっててこんなに仕事が片付くと思うか。これこそわしがちゃぁんと仕事をしていた証ではないか」
当然弁解も熱を帯びてくる。
ほとんど顔を近づけるようにして食って掛かる太公望に楊ぜんは慌てる。
「わかりましたよ。わかったから離れてください。こぼれちゃうじゃないですか」
ちゃぽん。
水の音だ。
太公望はきょとんとして、それからやっと楊ぜんがガラス製のコップのようなものを持っていることに気が付いた。コップの中に小さな魚が一匹。めだかだろうか。半透明の小さな魚。
それにかぶって真っ白な白い手の幻想。
「ああ」
太公望の視線に気がついて楊ぜんは口を開く。
「捕まえたんです。天祥君が」
――おにいちゃん、おさかなつかまえたよ。
「ねぇ師叔。水槽ってありませんか、このままじゃかわいそうだから」
小さな魚は苦しいのか水面で口をパクパクさせた。
「ああ、そうだのぉ」
太公望は上の空で答える。何だったのだろう今のは。
今の
――おさかなつかまえたよ。
ちゃぽん。
水の音がした気がした。
☆
そう、あの時太公望は確かに水の音を聞いたのだ。
はるか昔。
彼の幼かった頃。
たまらなく平和で、たまらなく退屈で。それでもたまらなく幸せで。
今日と同じ明日が来ると、疑わなかったあの頃。
ちゃぽん。
太公望は――望は水の音に目を覚ました。
ごしごしと目をこする。
ぼーっとして自分がなぜ起きてしまったのかを考える。
そうだ。水の音がしたと思ったのだ。
だけれどどうしてだろう。自分はそんなに眠りが深いわけでもないけれど、たかが水の音で起きてしまうほど眠りが浅いわけでもなかった気がする。もう一回寝ようと思って、布団の中に入りなおし。でも全然眠くなくて結局起きてしまった。
彼はこっそりと起き上がる。家族を、特に小さな妹を起こしてしまわないように。
羊を見てこようと思った。
そっと天幕を抜け出る。
外は、明るかった。今日は満月なのだ。
ちゃぷん。
あ。
まただ。また水の音がする。
おかしい、と思う。この近くには川も湖もないのだ。
ちゃぽん。
それなのに。
不思議と怖いとは思わなかった。
そして、望は何かに惹かれるように歩き出した。
水の音のするほうへ。
☆
一体どれくらい歩いただろう。かなりの距離を歩いた気がするのに、時間だってかなりたっているはずなのに月の位置が変わらない。望は額の汗をぬぐう。汗はかいているものの不思議と疲れなかった。
これは夢なのだろうか。それとも、ここが桃源郷とか言うところだろうか。地の果てに理想郷があると聞いた。
あるいは、何かに化かされているのかもしれない。
そんなことを考えながらも、望は歩きつづける。引き返そうとは思わなかった。そんなこと、頭の中に浮かびもしなかった。
いつのまにか森の中に入っていた。さすがに薄暗くなる。夜の森には危険があることを彼は知っている。それでも歩きつづける。木の葉がかさかさと鳴った。暗い影がおいでおいでをする。さやさやと草がゆれる。夜の風はひんやりと気持ちいい。
そしていつのまにか入っていた森は唐突に途切れた。
湖があったのだ。
あるはずのない、大きな湖が。いやあるはずがないといえば、森だってあるはずがなかったのだが。だけれど、そのときは疑問にも思わなかった。
水の上に月が反射して移っている。暗い、ねっとりと絡みつくような水に、白い月明かり。白い月に照らされて、周りのものは皆、木も、草も、水も青白い。自分すら青白く照らされている。
そのとき。
何かが振り向いた。
彼は驚く。そんなところに人がいるとは思っていなかったのだ。それはひどく小さくて、しかも回りの景色に完全に溶け込んでいた。真っ青な髪に、白い、ロウのような肌。それから……
「誰?」
子供は口を開く。詰問する様子でもないが好奇心のある瞳でもない。およそ子供の目とは似つかわしくなかった。望の妹はこの子供と同じくらいの年齢だろうが、いつも瞳をきらきらさせている。だけれど、この風景には大きなぼぉっとした瞳を持つ子供のほうが似つかわしい。いっそ整いすぎたくらいの顔にも表情がない。
「師匠のお使いの人なの?だったら師匠に伝えてください。僕はまだ帰りたくありません」
口調もしっかりしすぎている。
「いや……あの。僕は……」
望は口篭もる。とっさに何を言えばいいのかわからなくなった。自分がそこにいることがひどくいけないことのように思えた。すべてが嘘のようだ。月明かりの晩に、あるはずのない湖。そして小さな子供。あるはずのない青い髪に、人形じみた顔立ち。頭には、あれは……まるで何かの角のような……
ああ、そうか。
望は納得する。あの子は人間ではないのだ。だから夜の湖で禊をする。だとしたら、あれは湖の精なのだろうか。それとも何かもっとまがまがしいものなのだろうか。
「師匠に頼まれたんじゃないの?」
「違うよ」
望は首を振る。
「そうなの。じゃあ、どうしてここにきたの?」
「……道に……道に迷ったんだ」
望はやっとのことで声を出す。月明かりに圧倒されて上手く話しができない。この場所はこの世のものではないのだ。
「ふうん」
妖精は簡単に納得した。
「じゃあ」
くすっと妖精は笑う。
「おにいちゃん。あそぼう」
そういって自分の小さな白い手を望の手に滑り込ませる。握った手は、ひんやりと冷たかった。妖精は少し驚いた顔をして、それからまた笑った。
「おにいちゃん。あったかいね」
くすくすくす。
「君は、誰なの?」
望は尋ねる。自分より頭一つ下に、角の生えた小さな頭。
だけれど妖精はそれにはこたえずに、一度つかんだ望の手をすり抜けて、水際に走っていく。
「待って、危ないよ」
一拍送れて望は追いかける、が、妖精は意外と足が速かった。
水辺に足を突っ込む。
ちゃぽん。
ああ。
この音だ。
いつもこの音を聞いていた気がした。生まれたときから、ずっと。
「おにいちゃん」
くるん。妖精は振り返る。大きな目が笑っている。紫の瞳。小さな手のひらでそっと水面をすくう。湖の水はまだひんやりと冷たい。妖精は手を差し出す。
「おにいちゃん。おさかなつかまえたよ」
白い手のひらに、半透明の小さな魚。水はだんだん手から零れ落ちて、ぴちゃん、と魚がはねた。
くすくすくす。
あの魚のように、自分もこの妖精に捕らえられてしまったのだろうか。眼が、離せない。
手のひらの上で苦しがってぴちぴち跳ねる魚。小さな半透明の。まるで月明かりで作られたような。
そういえば目の前にいる妖精は湖ではなくて月の精なのかもしれない。どちらにせよ、この場所が良く似合う。
「駄目だよ。魚は水の中じゃないと生きられないんだ」
「そうなの?」
ぴちゃん。魚ははねる。はねて白い手のひらを飛び出した。妖精は首をかしげる。
「じゃあ、もう会えないんだ」
白い手から逃げ出した魚。泳いで、今はもうどこにいったのかもわからない魚。
顔を上げる。真っ白なロウ人形のような顔。口を開く。無邪気な口調。
「おにいちゃんも、もう会えないの?」
言われてからようやく気づく。
自分と、この妖精は魚と人間ほどに生きる世界が違うのだ。
だけれど、ではあの水の音は何だったのだろう。
ではなぜ自分には水の音が聞こえたのだろう。
幻聴といわれればそれまでだ。だけれど。
「会えるよ。僕には水の音が聞こえるから。だから、水の音がするときは、また会えるんだ」
「ふうん」
妖精は笑った。
「じゃあ。また会おうね。おにいちゃん」
耳の奥でこだました声。
――またあおうね。おにいちゃん。
また――
それから。
それから――。
☆
「師叔。どうしたんですか?何寝ぼけてるんですか?」
楊ぜんの声にはっと我に返る。
「何だったかのぉ」
楊ぜんは眉をひそめた。
「もう、全然僕の話し聞いてないんだから。水槽を探すの手伝ってくださいっていったんです」
「おお、そうか。お魚を捕まえたのであったな」
『お魚』の一言に楊ぜんはますます怪訝そうな顔をした。
「師叔。どうしたんですか。働きすぎですか?」
一転、心配そうに尋ねてくる楊ぜん。
「いや、そういうわけではないのだが……楊ぜん。おぬし、わしに会ったことがあるか?」
「何言ってるんですか、師叔。今会ってるじゃないですか」
「いや、そういうわけではないのだ。ちと、気になることがあってな」
「大丈夫ですよ。心配しなくても柏餅はあげますから」
「いや、柏餅ではないのだが」
「えっ。いらないんですか、柏餅」
「いや、柏餅はいるのだが……そうではなくてわしは以前おぬしと会ったことがあるような気がするのだが」
「そりゃそうですよ。僕は封神計画が始まって以来ずっとあなたのそばにいるんですから」
「だからそうではなくて」
いいながらも太公望は考える。
ではあれは夢だったのだろうか。
あのあと、気が付いたら太公望は羊に埋もれて眠っていたのだ。帰り道の記憶はすっかり抜け落ちている。そして父に聞けばやはりこのあたりに湖などないという。ずっと忘れていた記憶だ。だけれど、当時は絶対に夢ではないと自信があった。あれは楊ぜんではなかったのだろうか。
夢だとしたらずいぶんと少女趣味な夢を見たものだ。
しかし、あれは本当に……
「だああぁっ。もう良いっ。水槽を探せばいいのだな」
いきなりわめきだした太公望に楊ぜんは少しばかりひるむ。
「そう……ですけど。師叔。本当に大丈夫ですか?」
「楊ぜん、それよりも柏餅の件はくれぐれも忘れるでないぞっ」
太公望は意地汚くそういうと、少しいらだったような足音を立てて部屋を出て行った。
部屋の中に残されたのは楊ぜんただ一人。
やんわりと彼は微笑む。青い髪に縁取られたロウで造られたかのような白い顔。
コップの中には魚。半透明の。楊ぜんはしばらく無表情で突っ立っていた。
やがて口を開く。無意識のように。
声には出さないくらいの小さな音で。
「……おにいちゃん……」
くすくすくす。
ちゃぽん。
魚がはねて、水の音がした。
end.
novel.
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