みずうみ



 強い風が吹いて、湖の水に波紋が広がる。
 周りは一面の針葉樹。深緑の森は霧がかって、ひどく幻想的に見えた。空気は冷たいがそれすら心地良い。
 太公望はすることなしに湖を眺めている。魚か何かいるのだろうか、時折真中あたりできらりと光るものがある。水は美しく透明で、中央は深くなっているのか透き通った青緑に見える。
 静かで透明で、たまらなく綺麗で。
 絵になるのぉ。
 と太公望は咽喉の奥でつぶやいた。
 ここに楊ぜんがいたら、本当に絵になる。
 玉泉山金霞洞。
 楊ぜんの育ったところである。

 楊ぜんの里帰りに誘われてついてきてはみたものの、どうやらあの師弟の前では完全に自分は邪魔のもであるらしいと言うことがわかっただけで、太公望はいささかすねて、適当に金霞洞の周りをぶらぶら散歩していたのだ。いつか割り込んでやるっ。と、くだらない策を練りながら歩いて見れば、この湖にぶつかった。玉泉山であるのだから、泉と言うべきなのかもしれないが、しかし正直に言って湖と泉の違いなど、太公望には良くわからない。
 そして、この幻想的な雰囲気に飲まれて、太公望はずっと湖を眺めていたのだ。五分くらいだったのか、それとも一時間くらいたっていたのか太公望には良くわからない。
 ただ、気が付くと、
 笑い声がしたのだ。
 子供の声だった。まだ声変わりしていない、小さな子供の声。
 うふふ。
 それは、もうずっと前から聞こえていたのかもしれないけれど、気が付いてみれば、すぐ近くで聞こえた。
「のぉ、誰かおるのか?」
 太公望は呼びかけてみる。この近くに子供がいるのだろうか。楊ぜんも玉鼎真人もそんな話、ちっともしていなかったけれど。それとも、迷い込んだか?否。それなら笑っているはずもないか。
 湖の景色は、美しいがひどく冷たい。人を寄せ付けようとしない。まるで少し前の、あやつのようだ。そう。だから、この場所にひきつけられたのかもしれない。
「おうい。こっちへ来ぬか」
 うふふ。
 やはり、笑い声がする。太公望は声のするほうに再び呼びかける。
「のぉ。おぬしは誰だ?道に迷ったのか?」
「ねぇ。遊んでくれる?」
 可愛らしい声が答える。
「良いよ。何がいい?かくれんぼでもしようか。だからいいかげん姿を見せてくれぬか」
 太公望のところから数えて三番目。太い木の幹の後ろから、小さな頭がちょこんとのぞいた。青い髪に、白いかお。そして、くるんと丸まった小さな角。
 太公望と目があうと、それはひょいっと頭を引っ込めた。
 太公望は唖然とする。
 今のは……。
「楊ぜん、か?」
 そぉっと小さな顔がのぞく。紫の瞳がこちらをじっと窺っている。整ったかおの硝子球のような瞳。
 太公望が立ち上がったとたん。子供はさっと、逃げ出した。
「あ、待て」
 とっさに口から出た声に子供はますます足を速め懸命に逃げていく。以外にすばしっこい。
「待たぬか、危ない!」
 妖怪の子供か?それとも楊ぜんがからかっているのか?
 ここの地形は穏やかなようで、崖やら川やらがあって危ないと言う話を聞いた。どちらにせよ、あの姿では危なっかしいことこの上ない。まして子供は太公望が引きとめようとすればするほどどんどん駆け足になってしまうのだ。
「ほら、わしと遊ぼう。だから戻っておいで」
 仕方なく、太公望は立ち止まる。
 ぴたっと、子供は足を止めた。ついで振り返る。
「いじめない?」
「いじめないよ」
「痛いことしない?」
「しない」
「怖くないの」
「怖くないよ」
 子供はにっこりと笑って。
「じゃあ。またね」
 うふふ。
 走っていく。
 太公望は慌てて後を追う。追いつける。そう思ったのに。
 だけれど子供は霧の中に消えてしまった。いくら探しても、見つからなかった。まるで霧の中に溶けてしまったかのように。
 釈然としない思いで、太公望は仕方なく金霞洞に帰った。

 

   ☆

 

「子供ですか。妖怪でしょう。知らないなぁ」
 ひとしきり話を聞き終わった後、楊ぜんはそういって首をかしげた。何か考えるときの癖なのだろうが、男でそれはやめたほうがいいと思う。女より可愛らしく見えてしまうならなおさらだ、と八つ当たりのように太公望は思った。
「しかし。本当におったのだ」
「でも見つからなかったのでしょう。師叔、夢を見たのではありませんか?最近忙しかったから。でも、あんなところで眠ってたらいくらあなたでも、風邪を引きますよ。寒かったでしょう」
 そういって、楊ぜんはふわりと肩布をかけてくれた。実際のところ寒くはなかったのだが、太公望は特に逆らおうともしなかった。布をかけるときにふわりと楊ぜんの匂いがしたからだ。何の香なのだろう。聞いたところでどうせ自分にはわからないのだろうが。
 布を手繰り寄せると、いかにも不機嫌そうな顔をした玉鼎真人と目が合ってしまった。太公望は不自然にならないように視線をそらしてしまう。
「夢ではないと思うがのぉ」
「夢ですよ。ねぇ、師匠。師叔。お茶入れてきますね」
「ああ、楊ぜん。茶より酒のほうが温まると……」
「駄目ですよ。紅茶でいいでしょう?」
「砂糖は……」
「三つですね。わかってますよ。お茶は薄いほうがいいんでしょう?」
「うぬ」
 楊ぜんにいれてもらってから、太公望は紅茶が好きになった。もっとも、楊ぜんに言わせれば、そんなに甘くしたら紅茶の味が台無しになってしまう、のだそうだが。しかし、文句をいいつつも、楊ぜんは太公望の好みに紅茶を入れてくれる。
 玉鼎真人を盗み見ると案の定、とてもいやそうな顔をしていた。
 いまだ、太公望と楊ぜんのことを認めたくはないらしい。
「玉鼎、本当にこのあたりに子供はおらぬのか?」
「私は、聞いたことがないな。まして、この折に金鰲の妖怪がこの辺をうろついているとも思えない」
「わしも、それは思ったのだが……しかし、実際にいたのだから」
 それから太公望はちょっと声を張り上げた。お茶を入れに台所まで戻った楊ぜんにも声が届くように。
「のぉ楊ぜん。まさか、おぬしがわしをからかっておったわけではないのだろう?」
「何で、僕がそんなことしなくちゃいけないんですか」
 台所から声が聞こえた。
「楊ぜんならずっとここにいたよ」
「しかし、楊ぜんに良く似ておったのぉ。考えたくはないが、まさか隠し子ではあるまいな」
 言ったとたん、なんとも殺気立った気が部屋を支配する。
「ひっ」
 見れば玉鼎真人が斬仙剣を、楊ぜんが三叉刀をもってこちらをにらんでいた。
「ひどいです。師叔。そんなのいませんよ」
 目に涙までためて楊ぜんはぎゅうっと三叉刀をつかむ。
「それは、楊ぜんに対する侮辱か、太公望」
「ち、違う。誤解だっ。話せばわかる!」
 冗談だったのだが、ここで冗談だと言えばまず間違いなく命はなさそうだ。怖い師弟である。どうせ死ぬなら楊ぜんに殺されたほうがよいのぉと太公望は莫迦なことを考えた。
「楊ぜん。おぬし弟か妹はおるか?」
「いませんよ。まぁ、僕が知らないうちにできた可能性はないとは言いませんがね。でも、いたところでこんなところをうろついてるはずがないでしょう」
 楊ぜんはひどく嫌そうな顔をした。
「そんなに似ていたのか」
 玉鼎真人はつぶやいて、待っていろと言い残して部屋を出て行った。それから大きな分厚い百科事典のようなものを二冊ほど抱えて戻ってくる。良く見るとそれはアルバムで、玉鼎真人はその中から一枚抜き出した。
「楊ぜんだ。本当に似ているのか?」
 どれどれと太公望は写真を除きこむ。
 青い髪に、白い透き通った肌。こちらを見つめる紫の瞳。異形のもの。
 この子供だ。
「こやつだ。間違いない」
「そんな、師叔!」
 ふわりと楊ぜんが駆け寄ってくる。物騒な宝貝はどうやらしまってくれたようだ。
「しかし、太公望。そんなこと、ありえるのか?」
 楊ぜんと同じくらい容姿を整ったものを探すのは可能かもしれない。しかし、そっくり同じとなると。まして妖怪となればなおのこと難しいのではないか。
 それに。そういえば。

 服装まで、まったく一緒だった。

「胡喜媚……。彼女ですか?」
「いや」
 そんなことをする意味がない。もし、今の楊ぜんに変化するのだとしたら、太公望を撹乱するのに――そんなもので撹乱されない自信はあるが――使えるかもしれない。しかし、子供のころの楊ぜんに変化したところで、何らメリットはない。
「嫌だ。師叔」
 ぎゅうっと楊ぜんは太公望の服のすそをつかんだ。
「なんだか、気持ち悪いです」
 子供のころのとはいえ自分にそっくりのものが近くにうろついているとしたら、確かに気味が悪いものかもしれない。
 しかし。と太公望は思った。
 あの子供に嫌な感じはしなかった。
 太公望はそっと楊ぜんを抱きしめた。
 玉鼎真人がさもいやそうな顔で二人の様子を眺めていた。

 

    ☆

 

「可愛いのぉ」
「師叔。あなたロリコンの気でもあったんですか?」
 夜。太公望のためにと用意された客まで、楊ぜんと太公望はアルバムをはさんでじゃれあっている。
「何を言うか。おぬしの写真だからであろうが」
「本当に?」
 楊ぜんは疑い深い。さっきから太公望はページを一つ繰るたびに可愛いのぉと叫んではため息をついているのだ。これでは誤解されたところでしょうがないのかもしれない。
「だって実際に可愛いのだから仕方なかろう。しかし、悲しそうだの」
 ぽつんと太公望はそういった。
 楊ぜんは首をかしげて自分の写真を覗き込む。
「笑ってますよ、これ」
 怪訝そうな顔で太公望を見つめた。
 写真の中の楊ぜんは笑っている。羊のぬいぐるみを抱えてにっこりと。
「おぬしはいっつも、ひとりぼっちだ」
「師匠がいましたよ。太乙様だって良く遊びに来てました。あの人は僕をからかうのが趣味だったんです。悪趣味な」
「そうだのぉ」
 だがそういうことではないのだ、と太公望は思う。楊ぜんには本当の意味での友達がいなかったのではないだろうか。同年代の子供と遊んだ記憶などないのではないだろうか。自分には友達がいた。崑崙にあがってからも普賢がいてくれた。あるいは、自分はそれでも幸せだったのかもしれないとふと思った。大切なものをなくすのと、はじめから持っていないのとではどちらが哀しいのだろう。
「そういえば、あの子供もひとりぼっちなのかのぉ」
「昼間師叔が見た幻覚ですか」
「おぬし。決め付けるでなないっ」
 楊ぜんはくすくす笑ってすみませんといった。
「遊ぼうと言っておった」
 遊んでくれる?そう言ったのだ。
「遊んであげたんですか」
「そう思ったのだが逃げられてしまった。そういえばじゃあねと言って消えたのだ」
「じゃあね。ですか」
「またくるやも知れぬ。明日行ってみようか、楊ぜん」
 そういって再び太公望はアルバムに目を落とした。何気なくページを繰る。とたん、とろけそうな声で叫んだ。
「ぬぉう。楊ぜん。おしめの写真があるのぉ」
「え?え!師叔。駄目。見ちゃ駄目です!」
 楊ぜんは真っ赤になって叫ぶ。
「良いではないか。おお、お風呂に入ってるのもあるのぉ」
「いやああぁっ。師叔。莫迦。痴漢。変態!駄目。見ないでっ!」
「ち、痴漢って……おぬし」
 ちょっと傷ついた顔をした太公望を、楊ぜんはぽかぽかとたたいた。
「痛いっ。痛いのぉ。わかったから、やめよ楊ぜん」
 仕方なく太公望はアルバムを閉じる。
「ひどいではないか。わしはアルバム捲っただけなのに」
 わざとたたかれた頭を痛そうに抑えて言うと。
「ごめんなさい」
 シュンとうなだれて楊ぜんが謝る。
「師叔。薬塗りましょうか」
「いや。それはかまわぬ」
 楊ぜんの薬は良く効く代わりにひどくしみるのだ。
「それより楊ぜん。おぬし悪いと思うのなら、今日はここで寝ろ」
「な。駄目ですよ師叔」
 赤くなった楊ぜんに太公望はにまにま笑う。
「安心せい。そういうことではない。おぬしはわしの抱き枕になるのだっ」
 意味不明なことを言って太公望は楊ぜんにがばぁっと抱きついたのだった。

 

    ☆

 

 ぎゅうっと楊ぜんを抱きしめながら太公望は眠っている。楊ぜんの頭を抱え込むようにして。そこに足音が近づいてくる。太公望はゆっくりと目を開ける。楊ぜんは気が付かない。まだ眠っているようだ。
 部屋の戸が開かれ、それからいささか荒っぽい足音。怒っているようだ、とぼんやりと太公望は思う。ひどく背の高い影だ。
 ちょっと待て。ここはどこだ?ここは西岐の城ではない。金霞洞だ。
 とすると、玉鼎か――?
 一緒の寝台でともに相手に抱きつくように眠っている太公望と楊ぜん。
 この状況は、かなり。とってもやばい気がする。
 背の高い侵入者は、剣を振り上げる。
「だあああぁっ!玉鼎、早まるでないっ。わしが死んだら楊ぜんが悲しむっ!」
 太公望は慌てて起き上がって。
 起き上がって――
 そして、目が覚めた。
「なんだ。夢か」
 う……ん……。楊ぜんが目を開く。半分寝ぼけたような瞳で。
「すぅす……?」
 きょとんと首をかしげた。
「いや。なんでもないよ。楊ぜん。すまぬ。起こしてしまったのぉ」
 太公望はあいまいにごまかした。それから、気が付いて楊ぜんに言う。
「行くであろう。湖」
 楊ぜんはもぞもぞと寝台の中のほうへ潜ってしまう。どうもあまり乗り気ではないらしい。
「行ってみよう楊ぜん。会えばきっと何者かわかるよ」
 太公望はいささか強引に楊ぜんを連れ出しにかかった。

 

   ☆

 

 楊ぜんの手を引いて早朝の散歩へ。
 こういうのも悪くないのぉと太公望は思う。もっとも楊ぜんのほうは、眠いだの寒いだの疲れただのおなかが減っただの、さっきから愚痴ばっかり言っているのだが。
「しょうがないのぉ。ほれ、食べるか」
 そういって太公望はごそごそと懐から桃を取り出した。
「まさか、師叔から食べ物を恵んでもらう羽目になるとは……」
 楊ぜんははあっとため息をつきつつも、もらった桃にそっと歯を立てた。
「なんだか、生暖かいです」
「仕方なかろう。ずっと持っておったのだから。寒かったのであろう。ちょうど良いではないか」
 そういう問題じゃないです。と楊ぜんはつぶやいた。
「しかし、それにしても、霧がすごいのぉ」
 朝霧と言うやつだろうか。白い闇に包まれているようだ。一寸先も見えないと言うのは、きっとこういうことを言うのだろう。
「楊ぜん、迷うといけないから手を離す出ないぞ」
「大丈夫ですよ。僕はこの辺で育ったんだから」
「だぁから、わしが迷うといけないから手を離すでないと言ったのだ」
 楊ぜんはくすくす笑った。
 遠くで鳥の声がする。空気はいっそう冷たく、まるで刃物のようだ。ざわざわと木がゆれる。水の匂いがする。
「ねぇ、師叔。湖ってここだったんですね」
「ん?他にもあるのか?」
「ええ。ここが一番見つけにくいんです。だから」
「だから?」
「僕の秘密の場所だったのに」
 楊ぜんはそう残念そうでもなくつぶやいた。
「秘密?玉鼎も知らぬのか」
「さぁ。知ってたんじゃないですか。でもよく、一人でここに来てたんです。師匠にきつくしかられたときとかね」
「ほぉう。玉鼎がおぬしをしかることなどあるのか」
「怒ると怖いんですよ。師匠は」
 そう言われても、太公望には子供相手に怒っている玉鼎真人はちょっと想像がつかなかった。
「でも、何にもなくても一人っきりでここにいるのが好きだったんです」
 湖を太公望は見渡す。子供が一人で遊ぶにはいかにも淋しすぎる場所だ。
 そのとき。
 笑い声がした。
 うふふ。
「師叔。今何か?」
「例の子供がきたようだ」
 楊ぜんもあたりを見回す。
「誰もいま……」
「ねぇ。遊んでくれる?」
 うふふ。
「だ……」
 誰?そう叫ぼうとした楊ぜんの手を太公望は抑える。人差し指を口元にやって。
「静かに。逃げてしまうぞ」
「だって師叔。本当に?」
「おぬし人の話を信じておらなかったな」
 それから太公望はあたりの木々に向かって声を張り上げる。
「遊ぼう。友達を連れてきた。だから今日は三人で遊ぼう!」
「友達って……」
 楊ぜんはすねたような顔をする。太公望はだぁほ。とつぶやいてぎゅうっと楊ぜんの腰を抱き寄せた。
「友達?」
 木々の間から、ちょこんと小さな顔がのぞく。
「あ」
 幼いころの自分とそっくり同じ顔に楊ぜんは思わず声をあげる。
「心当たりはあるか」
 太公望は早口で問う。
 うふふ、と子供は笑う。楊ぜんを見つけて嬉しそうに。
「師叔。あれは……」
 楊ぜんは両手を広げ。
「おいで」
 子供はパタパタと走りよる。楽しそうに笑い声を上げて。
 そして楊ぜんの手にたどり着いたとたん。
 跡形もなく、まるで霧のように消えうせた。
 消えてしまった。
 かすかに。笑い声のみを残して。
 うふふ……

 

    ☆

 

「師叔。僕。一人ぼっちじゃなかった」
 朝の湖の情景の中で、楊ぜんはぽつんとつぶやいた。
「忘れてたけれど。もう一人いたんです。僕そっくりの子供。どうして忘れてたんだろう。あの湖で二人で遊んでたんです」
 いつも、二人一緒だったのに。楊ぜんはつぶやいた。
 太公望は少し考え込んでから口火を切る。
「この世のものではなかったからであろう。おぬしの想像が作り出した幻だったのやも知れぬし、あるいは妖しの力が暴走したのやもしれぬ。湖の精だったというのもあるかな。おぬしとそっくりの姿かたちが何よりの証拠であろう。あやつは全然年をとっておらなかったし」
「それでも。友達なのに」
「友達だから。おぬしがこのままではいけないと思ったのであろう。あやつがおったのでは、おぬし、人間と付き合う気など起こさなかったのではないか」
 こくん。楊ぜんは頷いた。ぐいっと目のあたりをぬぐって。
「ずっとここにいたんですね。一人ぼっちで。僕は師叔と皆と、ずっと一緒だったのに。淋しかったでしょうね」
「おぬしを待っておったのであろう」
 楊ぜんは顔を上げ。それから太公望を見た。
「おぬしが誰かに叱られて戻ってきても大丈夫なように。ずっとずっと、ここで待っていてくれたのであろう」

 友達だから。

 楊ぜんは太公望の肩口に顔をうずめてほんの少し泣いた。
 たとえこの世のものじゃなかったとしても。もう絶対に忘れたりしないから。
 その間ずっと太公望が背中をさすっていてくれた。子供にそうするように。それが思いのほか暖かくて気持ちよくて、楊ぜんはそれでもう少し泣いたのだ。泣き虫だった、子供のころみたいに。

「妬けるのぉ」
 泣きやんで、だいぶ落ちついてきた楊ぜんに太公望は言った。
「玉鼎にしろ、あの子供にしろ。おぬしの周りにわしの入り込む隙などなさそうではないか」
「莫迦」
 楊ぜんはくすっと笑う。
「師匠は師匠だし、あの子は友達ですよ」
「わしは?」
「え……。ええと。その」
 楊ぜんは珍しく歯切れ悪くいう。頬が上気して、さっき泣いたせいで目元が赤くなっててなかなか艶っぽかったりするのだが、本人は果たして気が付いているのだろうか。
「師叔は……大切な人です」
「しかし、あの子供だって大切なのではないか」
 その様子が可愛いから、太公望は楊ぜんをからかう。
「だから、好きなんです」
「玉鼎だって好きなのであろう」
 楊ぜんは真っ赤になって恨めしげに太公望を見つめ。
「だから、師叔は特別なんです!もぉ知らないっ。だいっ嫌いっ」
 そう叫んで金霞洞の方へと歩いていく。
「だああぁッ。待て楊ぜん。すまぬっ。おぬしが可愛いからつい」
「可愛い?仮にも男の僕に対して可愛いって何ですか。可愛いって!」
「しかし、実際に可愛いのだから……って、ああッ。悪かった。謝る。謝るから、三叉刀をだすでないッ!」
 ぎゃあぎゃあわめきながらも、二人は結構仲良さそうに金霞洞に向かって歩いていく。
 風が吹いて湖一面がさわさわと波打つ。
 小さな子供の、笑い声が聞こえたような気がした。

end.

novel.