並木道
〜5〜
2月も半ばになろうかという頃、楊ぜんは父玉鼎真人に呼び出されることになる。外は寒く雪が降っていた。
軽く三回ノックをし、失礼しますとかしこまって楊ぜんは父親の部屋に入った。
「楊ぜん。おまえ、姫家の次男坊を知っているか?」
突然の質問に楊ぜんはきょとんとする。
「姫家って。伯爵家の?」
「そうだ」
「さぁ。存じ上げません」
噂だけなら聞いたことがある気がする。兄と違い品行不良な女好き。しかし町娘には人気があるとかないとか。
楊ぜんには興味のない話である。
「おまえを欲しいというんだ」
「は?」
あんまりといえばあんまりな話に楊ぜんは思わず間抜けに問い返した。
「妻に迎えたいというんだ」
楊ぜんは目を大きく見開く。
「そんな。身分違いじゃありませんか!」
かたや伯爵様、楊ぜんの家柄はかろうじて子爵にぶら下がっている程度だ。とてもじゃないが釣り合わない。
「それは先方も承知だ。いったん姫家の親戚に養女として迎えた上で改めて、妻に迎えると」
「困ります。そんな急な話」
大体楊ぜんは結婚などしたくない。
「僕はずっとお父様のお傍にいます。この間もそう申し上げました」
玉鼎真人はじっと娘の瞳を見据える。
「楊ぜん。おまえはまだ本気でそう思っているのか?」
「楊ぜんはお父様が好きです。だからお嫁には参りません」
「では聞こう。太公望と私。どちらが好きなのだ?」
「え?」
楊ぜんはきょとんとして顔を上げる。父は楊ぜんを試しているのだろうか?否、父の顔はあくまでも優しい。
僕は……太公望様のことが
好きだ。
それは確か。それだけは確か。
だけれど。
どちらが?
お父様と太公望様。
お父様は優しい。お父様といると落ち着く。安らかになる。
でも。だけど。
「選べないだろう」
優しく、玉鼎真人はそういった。
「……は、い」
「それでいいんだ。楊ぜんはお父様のことが確かに好きだろう。でも、楊ぜん。その好きは、おまえが太公望のことを好きだというそれとは違うはずだ」
楊ぜんは薄く頬を染めた。
「でも。お父様」
小さい頃、良くやっていたように玉鼎真人は楊ぜんの頭を軽く撫でる。
「楊ぜんは優しい子だから。自分が嫁いだらこの家に私が一人ぼっちになってしまうことを心配しているんだろう」
「それは……」
確かにそれも、ある。でもそれだけじゃなくて。もっと子供っぽく、もっと我侭に。楊ぜんは幼い頃の自分の特等席。父のひざの上という暖かくて居心地のいい場所を失いたくないのだ。
知らず、楊ぜんは涙を流した。
「楊ぜん。私は大丈夫だ。おまえが心配するほど年寄りではないつもりだ」
柄になく玉鼎真人はおどけたように言って笑った。
「これからは太公望に甘やかしてもらいなさい。私が甘やかしすぎたから、太公望も大変だろうが」
「でも、お父様」
「子供はいつか巣立って行くものだ、お父様はね、これでも意地悪だから太公望の粗探しをしたんだ。だけれど、見つからなかった。どうしても見つけられなかった。楊ぜん太公望はいい男だよ。だからおまえの好きにしなさい。ずっと、お父様の所にいては駄目だ」
慈しむように玉鼎真人は楊ぜんの髪を撫ぜる。楊ぜんは子供みたいに泣きじゃくって、玉鼎真人に抱きついた。
「お……お父様。楊ぜんは……お嫁に行っても……ずっとずっと。お父様の娘です。それだけは忘れないで」
母親がいないから、父子二人。寄り添うように暮らしてきたのだ。父親だけを見つめて楊ぜんは育ったのだ。その事実だけは絶対に変わらないから。
楊ぜんが落ち着いた頃。玉鼎真人は優しく言った。
「あした姫家の次男がうちに来るそうだ。おまえからはっきり言いなさい。好きな男がいると。その男と添い遂げるつもりだと」
楊ぜんは子供みたいにこくりと頷いた。
☆
楊ぜんの屋敷へと続く銀杏並木は枝の上に雪を乗せきらきらと光っていた。通いなれた道を太公望は歩く。昨日は雪が降っていたが今日は日本晴れで、融け残った雪がきらきらと輝く。一月の終わりに頼んだ着物が仕上がったのである。
途中、雪かきに奮闘する鈴を見かけて太公望は声をかけた。
「おお、お鈴も大変だのぉ。手伝ってやろうか」
鈴は顔を上げ、あら、太公望様とつぶやいた。
「おやめください。太公望様ではひっくり返ってしまいますわ」
「随分ないいようだのぉ。わしとて男であるぞ」
太公望は苦笑する。まして鈴は太公望よりも小さいのだ。
「コツがあるんです。私の実家は北ですからご心配なく」
「そういう時は可愛い女子は何も言わずに手伝ってもらう物だぞ」
鈴はくすくすと笑う。
「素敵な殿方に言われたのでしたらそういたします」
うぬぅと太公望は唸った。
「お鈴。よぉく聞け。背が高いだけでは素敵な殿方といえぬであろう?」
鈴は茶化して太公望をにらんだ。
「太公望様。鈴に色目を使ったと、お嬢様に言いつけてしまいますよ」
「だああぁっ。これ、そういうことはするでない!」
太公望は慌てる。色目を使ったわけではなくて、単純にこの鈴という女中が妹のようでなんとも可愛かっただけなのだが。
「太公望様。これからお屋敷に参りますの?」
「そのつもりだが」
「日を改めてからのほうが、よろしいのではないかと……」
「何故だ?」
鈴はじっと俯く。
「お客様がいらっしゃったのです」
「楊ぜんにか?」
鈴はこくりと頷く。それから言葉を濁そうとしたのだが、いかんせん太公望のほうが一枚も二枚も上手であり。鈴は仕方なく、お客とは姫家の次男であること。楊ぜんに結婚を申し込みに来たことを洗いざらいしゃべってしまう羽目になった。
「お嬢様を、お疑いにならないでくださいましね。仕方なかったのでございます」
鈴は懸命に太公望を見据えてそういった。
太公望は考えていた。
「お鈴。おぬし一つ頼まれごとをしてくれぬか?」
己の失態に小さくなっていた鈴は顔を上げた。
「何でございましょう?」
「楊ぜんに渡しておいてくれ。それから、客人が帰った後でよいから、わしは不忍へ行った、と」
「上野でございますか?」
「そう」
鈴はきょとんとして、それからこくりと頷いた。
「お嬢様にはお会いになりませんの?」
「わしは会えると思っておる。これは賭けだがのぉ」
太公望はにょほほとわらって、それから少し鈴をからかって帰っていった。
☆
楊ぜんはその姫発という男を前にして、ずっと太公望のことを考えていた。姫発は話も面白く、それなりに魅力的でもある、と楊ぜんは彼女にしてはかなり高い評価を下していたのだが、それなのについ気を抜くと太公望のことが頭をよぎってしまうのだ。ここ一ヶ月ほどずっとそんな状態が続いている。
きっと楊ぜんは頭がおかしくなってしまったのだ。前は全然こんなことってなかったのだから。最近つくづくそう思う。
「なぁ、楊ぜん。聞いてるか?」
問われて楊ぜんは顔を上げる。
「ごめんなさい。何の話でしたっけ?」
楊ぜんは慌てて、真っ赤になった。
「ん。別にたいした話じゃなかったんだけどさ。それより面白いか?さっきから紅茶のカップずっとにらんでるみたいだけど」
姫発はそういって笑った。
「あ……。その。ごめんなさい」
「謝んなくていいって、そういうつもりで聞いたんじゃないから」
楊ぜんは困っている。まず、姫発が想像と違った。どうせ、貴族様の御子息なんて身分だけは高くても自分だけでは何一つできないような世間知らずだと思っていた。最初から相手にする気なんかなかったのに、姫発はずっと世慣れていて、楊ぜんよりも大人に見えた。
それから、二人きりになればすぐに結婚だの付き合って欲しいだのそうじゃなくても口説き文句の一つも出てくるだろうと思っていたのに、姫発はさっきからずっと世間話をしている。
だから、楊ぜんは断るタイミングをすっかり逃してしまったのだ。
そして、話をしてみれば姫発は実に会話が上手くて……早い話楊ぜんはすっかり姫発のペースに巻き込まれていたのだ。
それが、どうしても後ろめたい。早く断ってしまわないと。早く。早く。
だって僕には太公望様が。そう決めたのだから。
「あの、姫発様」
楊ぜんはかしこまって姿勢を正す。
「ん?何」
「申し訳ございません」
「何が?」
「好きな人がいるんです」
姫発は軽く眉をあげる。それからくしゃっと笑った。
「なんだよ。俺また失恋かよ」
「え?」
「これで、えーっと何回目かな。数えるのも莫迦莫迦しいや。今回は紳士を気取ったつもりだったんだけど、やっぱボロが出たか?おっかしーなぁ」
楊ぜんはきょとんとする。なんだか、雰囲気ががらりと変わった気がするのだけれど。
「何でだろ。ぜんぜんわかんねーや。なぁ楊ぜん。俺って格好良いとおもわねぇ?」
「は?はぁ」
格好良かったのかもしれない。……そのぉ。さっきまでは。
「それなのになんで駄目なんだろぉな。やっぱり、公爵ってのが駄目なんだよなぁ。俺さぁ。貴族のお嬢様より、一般庶民のプリンちゃんの方が好みなわけ。可愛いだろ。あいつら。お高くとまってねーしさ。それなのに、俺の名前聞くと皆びびっちまうんだよな。楊ぜんなら、お嬢様でも良い感じだと思ったんだけどさ」
楊ぜんはくすっと笑う。なんだか急に姫発が可愛く見えた。
「僕もお高く止まってましたよ」
「そうか?」
「あの人にあって僕は変わりましたから」
「何だよ。惚気かよ」
楊ぜんは真っ赤になる。
「ち、違いますよ。そんなつもりじゃありません!」
「そういうのを惚気って言うんだって。いいよ。後学のために聞いといてやるから。どんな男なんだよ、そいつ」
「どんなって……。琴と三味線の区別もつかなくて、初めて会った僕にいきなり、その。接吻するような人です」
「はぁ?何だよ。それ。どこがいいんだよ」
「さぁ」
「さぁって」
楊ぜんは真っ赤になって姫発をにらんだ。
「どこがいいんだか全然わかんないのに、いないとずっとその人のこと考えてて、いるとずっとどきどきして。とにかくそういう人なんですっ!」
姫発はけらけら笑い出した。それから言った。
「やっぱ聞くんじゃなかった」
楊ぜんはきょとんとする。それから、何気なく窓の外ををみやり、あ、と声をあげた。
窓の外には小さな太公望の姿。鈴となにやら話しているようだ。
「あいつが、おまえの好い人なわけ?」
姫発はにやにやしながら問う。
「女中口説いてるみたいに見えるけど」
「そういう人じゃありません」
「へぇ熱いね」
「莫迦」
楊ぜんはつい、言ってしまってから慌てて口を抑えた。小さくすみませんと頭を下げる。つい自分と姫発の身分差を失念していたのだ。もっとも、姫発はそんなこと気にもとめていないようだったが。
「あのなぁ。俺そういうの嫌いだよ。それよりさ、行ってこいよ。そのまま帰っちまうみたいだし、いいの?俺のこと聞いたんじゃないか、あの様子じゃ」
そういって、姫発は太公望の後姿を指差す。
「え?」
「おまえが姫家のボンボンと見合いしたと思ったんだろ?おまえの家と俺の家じゃ普通ことわれねーからなぁ……。あ、俺はそういう趣味ないぜ。他の男好きな女を無理やり自分の嫁にしてーとはおもわねーからさ」
「まさか」
楊ぜんはにっこりと微笑む。
「太公望様には約束してありますから」
姫発はきょとんとして、それから、あははと笑った。
「それでも、不安になるもんなんだよ。あんたやっぱり正真正銘のお嬢様なのな。いいから行けって」
そういって姫発はぽんっと楊ぜんの背中を押す。楊ぜんは困ったような顔をしてちらりと姫発を振り返り、姫発が頷くのを見て部屋から出て行った。
一人残された姫発は窓の外をみやる。そしてぽつんとつぶやいた。
「何だよ太公望の野郎。楊ぜんがあんなにプリンちゃんなら、引き受けるんじゃなかったぜ、全く。あーあ、マジで口説いちまえば良かった。にしても、太公望、あいつ何するつもりなんだ」
窓の外では楊ぜんがようやく並木道まで出て、女官を捕まえたところだった。
☆
「あら、お嬢様。もうお話は終わりましたの?」
庭掃除に精を出していた鈴は、駆けつけた楊ぜんに声をかける。
「鈴、さっき太公望様と話をしていたね」
楊ぜんはいつになく慌てて鈴に問い掛ける。
「え、あれは。お嬢様のことですわ。お荷物を預かっておりますの」
「あ、着物ができたんだ。それならあがっていってくださればいいのに」
「それが、私うっかり姫発様のことを申し上げてしまって」
鈴は小さくなる。
「いいよ。太公望様はそれくらいで動揺したりする人じゃないから」
てっきり怒られると思っていた鈴はきょとんとして顔を上げる。
「約束したから」
楊ぜんはそういうと、同性の鈴ですら思わずため息をつきたくなってしまいそうなほど見事な笑顔でにっこりと微笑む。鈴は嬉しくなってにっこりした。
「そういえば太公望様から伝言を言付かっておりました。上野に行くとおっしゃってましたわ」
楊ぜんはきょとんとした。
「上野?僕に来るようにって?」
「ええっと、不忍に行ったと伝えてくれって」
「不忍って、池?」
「ええ、たぶん」
「何しにいったんだろう?」
「さぁ珍しく真面目なお顔でしたけれど」
楊ぜんは思わず吹き出した。
「鈴、それはあんまり失礼だよ」
鈴はぱちんと手を叩く。
「あ、そう。賭けがどうとか」
「賭け?」
「お嬢様ご存知じゃありませんの?」
「さぁ。とりあえず上野まで行ってみる」
楊ぜんはそういってぱたぱたと歩き出した。それから急いだほうがいいような気がして小走りになる。途中で辻馬車を拾った。
☆
「よッ。プリンちゃん精が出るね」
声をかけられて鈴が振り向くと、姫家の次男坊が笑っていた。
「プリン?」
鈴は首をかしげる。
「楊ぜんは、太公望んとこ行ったか?」
「お嬢様は、上野に参られました」
鈴はわざとお嬢様を強調して発音した。
「へぇ、急いで恋人のところに駆けつけたわけだ」
「別に急いではいらっしゃいませんでしたけど」
「は?」
「何か?」
とたん姫発はけらけらと笑い出した。
「何だよ。全然楊ぜんわかってねーじゃん」
鈴はきょとんとした。姫発はぐいっと鈴の手をつかむ。
「なッ、なにするんですか!」
「な。面白そーだから、見に行こうぜ」
☆
上野は相変わらずごった返していた。馬車を降りた楊ぜんはあたりを見回し一つため息をつく。不忍池は大きいのである。太公望はどこにいることやら。仕方なく楊ぜんは池の周りを一周してみることにした。
それにしても太公望はなんだって楊ぜんをこんなところに呼び出したりしたのだろうか。一人で歩く上野はなんだか酷く寒かった。伝言を頼むならもう少し、わかりやすいところか、暖かいところにしてくれればいいのに。
いつもの白いショールをぎゅうっと抱きしめて楊ぜんはきょろきょろと歩く。一人で上野にきたのは初めてだ。
きょろきょろあるいて、人だかりができていることに気がついた。
楊ぜんは恐る恐る近づいてみる。と、急に大きな声が響いた。
「だからさぁ、この寒い時期に池に飛び込んだ莫迦がいるんだとよぉ」
楊ぜんは顔をしかめる。真冬に池に飛び込むなんて気が知れない。大方酒でも飲んで酔っ払って池にでも落っこちたのだろうか。それでも気になった楊ぜんは一応近くにいる人に尋ねてみた。
「あのぉ、池に落ちた人の容態は?」
「さぁ風邪ぐらいひいたんじゃねーの」
「ばーかっ。莫迦は風邪ひかねーんだよ」
そしてどっと笑い声。
心臓麻痺を起こすほど繊細な人ではなかったらしい。楊ぜんはほっとして、また太公望を捜し歩くことにした。
それにしても太公望様、賭けってなんだろう?
当然のことながら楊ぜんは太公望と賭けなんかした覚えはない。誰かと勘違いでもしているのだろうか。それに楊ぜんは太公望と上野に来たことは一度もなかった。待ち合わせるにしたって、お互い良く知った場所がいくらでもあるのにどうしてわざわざ上野で待ち合わせたりしたのだろう?
大体楊ぜんは太公望と上野の話なんかしたことがない。
否。あったっけ。そういえば。
確かあれは、初めて太公望の屋敷に言ったときで。
そう、約束をしたのだ。指切りして。
池の前で。
池。
そういえば、あの時池がどうのこうのと言って、その中で不忍池が出てきたんだ。確かあの時は。
――駄目。この池に飛び込んだって、駄目です。
そう、楊ぜんはそういったのだ。確か太公望は結婚の話をしていた。そして太公望が。
――上野の不忍池ならどうだ?
……。
楊ぜんはぴたりと歩みを止めた。
まさか。
まさか、ね。
――そんなの冗談に決まってるでしょう。わかりました。太公望様。
冗談って、いったもの。
だけど、はっきり否定したわけでもなくって。
嘘。
だって、あれから一ヶ月もたって。それに、ちゃんとゆびきりして約束も。
――それでも、不安になるもんなんだよ。
だから……?
僕なんかのために?
あなた、なの?
くるん。楊ぜんはもと来た道を引き返す。足は自然に小走りになりやがて駆け足になる。人はだいぶ減ったもののまだ、人だかりはできていて。楊ぜんは手近にいた人に問いただした。
「あの、池に飛び込んだ人って、今どこにいるんです?」
「え、ああ。さっきの。あっちだと思うけど」
「ありがとう」
楊ぜんは礼を言って指差された方向にぱたぱたと走り出す。
人の数が多くなる。楊ぜんはその間を何とかすり抜けて。
そして。
そして太公望を見つけた。
頭っから毛布をかぶっている。前髪からぽたぽたしずくをたらしている。誰かからお茶をもらったらしく美味しそうに飲んでいる。鼻をぐしゅぐしゅいわせて、それでも近くの人と話をしてはけらけら笑っている。やがて楊ぜんを見つける。そして、にっこりと微笑んだ。
「おお、来てくれたか」
楊ぜんは太公望をにらみつける。そして一言。
「莫迦っ!」
叫んだ。
それから人目も濡れるのもかまわずにぎゅうっと太公望に抱きつく。囃したてる声が大きくなる。
「楊ぜん、濡れるよ」
耳元で太公望は囁いた。
「僕のこと、信用してくれなかったんですか」
「いや。だがやっぱりわしはおぬしをわしだけのものとしたい」
「今だってそうですよ」
「違うよ。わしのものにしておかねば、いつか姫発のようなやからにとられてしまうやも知れぬ。わしはそれが心配だ」
「やっぱり、信用してない」
「信用してるのと、同じくらい心配なのだ」
「矛盾してます」
ぎゅうっと楊ぜんはずぶぬれの冷たい太公望を抱きしめる。
「だから……。あなたは罰として一生僕の傍にいるんです」
濡れたような瞳で楊ぜんは太公望を真正面に見つめる。
「楊ぜん?」
太公望はそっと楊ぜんの前髪をすくう。
「全然冗談じゃないですよ、これ。あなたは僕と……」
ぐいっ。太公望は楊ぜんの手をつかむ。引き寄せる。
「待て、それはわしが言う」
その瞳を見つめて。低い声で太公望は楊ぜんの耳元に囁いた。
「わしと結婚してくれるか、楊ぜん」
一瞬の沈黙。
「あなたが嫌だといっても」
楊ぜんはふわりと微笑む。
そして太公望と楊ぜんはたくさんのギャラリーの見守る中、二人出逢って二度目のキスをした。
「普通池に飛び込むかよ、ったく。俺はただのきっかけかぁ。ありゃ、正真正銘の莫迦だな。利用された俺も大莫迦だ」
少し離れたギャラリーの一角でなぜか双眼鏡持った姫発はつぶやく。
なぜかこんなところまでついてくる羽目になった鈴は顔をあかくしてこくりと頷いた。
「おっ、あいつらまたキスした。畜生太公望の野郎。俺も楊ぜんに一回くらいキスしときゃよかった」
次の瞬間。鈴に思いっきり足をふんずけられた姫発は手から双眼鏡を落としてしまい、それがまた足を直撃した物だからうんうんと唸った。
そんなことはつゆ知らず、池の傍の恋人達は甘いラブシーンを繰り広げている。
end.
novel.
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