菜の花畑の情景



 うららかな春のとってもよく晴れたその日。
 桜が満開で、庭にタンポポなんかが咲いて、モンシロチョウがおっかけっこしているような、そんな平和を絵に書いたような、その日。
 西岐城で一つ雷が落ちた。
 雷のもとは周公旦。引き金をひいたのは毎度のことながら姫発である。執務室にいた面々は慌てて耳を抑え、うずくまって衝撃に耐えようとしたが、それでも感電したらしきものが二、三人出た。そりゃあもう、すごい大声だったのだ。
 そしてなお一層悪いことに、その場に姫発はいなかった。普段遅刻の常習犯である彼は、今日ばかりは城で一番に起きて、早々に城を逃げ出したらしい。
 机の上には、置手紙。
 捜さないでください。姫発。
 いくら彼だってまさか家出するほど馬鹿でも、無責任でもないだろう。とすればこれは彼流のエスケープのためのジョークなのだろうが、分かってくれない人が一人いた。彼の弟。たった今、雷を落としたその人。
「し……しかし、周公旦。ここで怒ってもしょうがなかろう」
 とりあえず一番初めに立ち直った太公望は、なんとか彼の怒りを納めようとする。その声がほんの少しだけ、間延びしていたのは考えていたからだ。抱きついてきた楊ぜんを引き離すべきか、それともこのオイシイ状況を楽しむべきか。
 頭に血の上った、周公旦はぐるんとこっちを向く。
「い……いやあぁ。師叔。こっちにくるぅっ!」
 楊ぜんは涙目になって太公望にすがりつく。もともと彼は小さいときから優等生でお利巧さんだったし、彼を育てた玉鼎真人はめったなことで声を荒げる人でもなかった。怒られる、という状況に彼はなれていない。はっきりいってパニックを起こしていたのだ。
「これ、そんな怖い顔をして脅かすことはなかろう」
 そう言って太公望はぎゅっと楊ぜんを抱きしめた。端から見れば彼のほうこそすがりついてるように見えたかもしれない。声が震えていたのはご愛嬌。
「この顔は生まれつきです」
 あっさり言った周公旦はしかしほんの少しだけ傷ついていた。顔には出なかったけれど。
「大体あなたがしっかりしないから小兄様がだらけるんです!」
「わしはちゃんと仕事をしておるであろーがっ!」
「ほぉ。今月に入って、あなたは何回桃を盗みましたか?」
「うぅっ……。し、しかし衣食住は保証すると……」
「盗む分の桃まで保証するわけないでしょう!」
「しかし、隠れてこっそり食うのがうまいというか、なんと言うか……」
 尻すぼみになる太公望の台詞にいつのまにか立ち直ったのか楊ぜんまで冷たい視線を送る。
「師叔。それはいけませんよ」
 楊ぜんまで敵に回ったらこっちが不利だ。太公望は逃げ出すことに決めた。
「わかった!では、わしが責任を持って姫発を連れ戻す!」
「まさか逃げる気ではありませんね」
「何を言うか、このわしのいたいけな瞳が嘘をついている様に見えるか」
 その台詞そのものが立派に嘘だろうと周公旦は思ったが、あえて何も言わなかった。胃が痛くなってきたのだ。このごろいつもそうだ。そのうちきっと胃に穴があくのだろう。それもこれも、目の前にいる子供みたいな軍師のせいだ。
「そんなにいうのなら、さっさといってください」
 周公旦は諸悪の根源を追い出しにかかった。いったっきり、もう見たくもないとばかりにくるっと後ろを向いてしまった。だからその後ろで『諸悪の根源』がにまぁっと笑ったのにも気づかなかった。
「楊ぜん行くぞ!」
 太公望は楊ぜんの手をひいて脱出を図る。そのころようやく回復しだした文官たちは顔を見合わせる。太公望と楊ぜんがいなければ、それこそ仕事が進まなくなってしまう。そうは思ったものの、行動する勇気のあったものはいなかった。再び雷が落ちたら耳が駄目になってしまう。そんなことは御免こうむる。誰だって自分可愛さには勝てない。
 結果、二人は見事執務室からの脱出に成功した。


 

   ☆


 

「ねぇ、師叔。武王はどこにいったと思います?」
 成り行きでついてきてしまったものの、太公望は一向に姫発を捜そうとしない。不安になって楊ぜんは声をかけた。
「さーのぉ」
 帰ってきたのはやる気のない答。ほんの少し楊ぜんは眉をしかめる。
「四不象は呼ばなくてもいいんですか?それとも哮天犬を出しますか」
「いや。スープ―ではまずいし、哮天犬では目立ちすぎるであろう」
「どうして四不象だとまずいんですか?」
「うむ。あやつはおしゃべりだからのぉ」
 何でおしゃべりだとまずいんだろう。楊ぜんはほんの少し首を傾げる。
「しかしこの辺を歩いていてもしょうがないか」
「そうですよ。武王はもっと遠くに逃げちゃってますよ」
「よし、楊ぜん。遠出をするぞ」
「何か心当たりがあるんですね?」
 良かった。さすがは師叔。大見得切って出てきたんだからやっぱり当てがあったのだ。
 それには答えないで太公望はずんずん歩いていく。足は城の裏のほうへ。たどり着いた先は……。
「師叔。こんなところに武王がいるんですか」
 ほんの少し呆れ顔で太公望は楊ぜんを見返した。
「そーではない。一頭失敬しようと思ってな。遠出をするといったであろう」
「だけど師叔、馬なんて乗ったことがあるんですか?」
 そう。ここは厩である。
「ないこともない」
 羊に鞍を掛けたのを馬とは絶対にいわない気もするが、そこのところは無視することにした。それに、馬に乗ったことはある。乗ったことは。
「こいつにしよう」
 太公望がさしたのは、おっきなこげ茶色の馬。真っ黒なたてがみがふさふさしていて、とても綺麗だ。きっと手入れが行き届いているのだろう。真っ黒な瞳がイタズラっぽくきらきらしている。
 僕には白馬の方が似合うんだけどな、なんて思ったのも最初だけで、楊ぜんもすぐその馬が気に入った。あったかい首筋に抱きついても、馬はおとなしかったし、何より頭がよさそうだ。
 馬とじゃれてる楊ぜんをよそに、太公望は馬によじ登る。それから手を差し伸べた。
「おいで、楊ぜん」
 おとなしく楊ぜんはそれに従う。本当は前に乗せた方が安全なんだけど、悲しいかな、それでは前が見えない。しっかりしがみついてるように言って、馬を走らせた。


 

「ちょっと師叔。どこ行くんですか」
 思わず楊ぜんがたずねたのは、馬が町とは正反対の方向に歩き出したから。
「武王はきっと町で遊んでるんですよ」
「しかし、おぬし。この格好で町を抜けるのか?わしは別にかまわんがの」
 男二人が馬に二人乗り。きっとすごく注目を浴びるだろう。町の中は噂で持ちきりになるだろうし、おっきな尾びれがつくに違いない。明日の朝には周軍軍師様とその補佐楊ぜんの熱愛発覚!!愛の逃避行?!二人の仲は一体どこまで……?女官Aは語る。あの二人はきっとただならぬ関係ですわ。ええ、そうに決まってます!だって……。なんてゴシップが流れて……
 楊ぜんはぶんぶん首を振った。嫌だ。それは嫌だ。
 それからじろぉっと太公望を睨む。
「師叔。あなた始めっから武王を捜す気なんてなかったんですね」
「なぁんだ。今ごろ気づいたか」
「もう。そういうことなら僕は帰りま……うわっ!」
 声が途中から悲鳴に変わる。おとなしかった馬がいきなり走り出したから。
「だあぁっ!楊ぜん。おぬしが帰るなんていうから……」
 とりあえず二人は必死にしがみつく。
「えーっ!僕のせいですかぁ?」
「だって、おぬしが帰るって言ったとたんに……」
 声が流れる。風に飛ばされる。
「師叔っ!あなた馬に乗ったこと、あるんでしょ。何とかしてください!」
 舌をかまないようにはを食いしばりながら大声を出すというのはなかなか難しい。これだけ言うにも、楊ぜんは必死だった。
「乗ったことはあるが手綱を取ったことはないっ!」
 風にのって途切れ途切れに聞こえてきた太公望の台詞に、楊ぜんは真っ白になった。
「いやぁあっ。僕降ります!」
 言っては見たものの、失踪する馬から飛び降りるなんてできっこないのである。とにかく必死でしがみついていることしかできない。向かい風がきつく、髪をさらっていく。景色が流れ出す。躍動が体に伝わる。
「どこまでつれてかれるんですかぁっ!」
 黙っているのに耐え切れなくて楊ぜんはありったけの大声で叫ぶ。そうしないと声が風に飛ばされてしまうのだ。
「し、ら、ん、!」
 答なんか期待してなかったのに、太公望はあんまり聞きたくない返事を返してくる。
 それからどれくらい走っただろうか?ついに楊ぜんは音を上げた。
「もぉ、嫌ぁあっ!とまってぇえっ!」
 そのとたん、ほんの少しだけ馬がスピードを緩めた気がした。二人は同時に、はあっと息をつく。
「おぬし、さっさとそういわぬか……」
「だってホントに止まるとは思わなかったんですよぉ……」
 二人はよろよろと馬から下りると、ぺたんとその場に座り込んだ。体がまだゆれてる感じがする。
「師叔。生きてますか……?」
「たぶん……」
「ここ、どこですか……?」
「さあ、のお」
 がっくりした楊ぜんは這っていって太公望に寄りかかった。ほんの少しつぶれた気がしたけれど、知らない。心配そうに馬が擦り寄ってきたのでパタパタなでてあげた。頭がぐらぐらしてよく定まらなかった視点がだんだんはっきりしてくる。
 一面の黄色。
 あ……。
 いちめんのなのはな。
 風にゆれ、そよぎ、さわさわと音を立て、まるで囁きあうように蠢く一面の黄色の群像。見渡す限りの。春めいた黄色の群れ。
「すーす」
 楊ぜんは体を起こして、そして太公望を引っ張った。
「ね、見て。すごいですよ」
 つぶされたと思ったら引っ張られて、なんだか踏んだり蹴ったりの太公望はそれでも楊ぜんに促されて顔を上げ、ほお、っと歓声を上げた。
「これはすごいのお」
 端が見えないくらいの、一面の菜の花畑。
「君がつれてきてくれたんだね」
 楊ぜんがよしよしと馬をなでる。真っ黒な目がイタズラっぽくきらきら光った。楊ぜんがあんまり馬とじゃれてるものだから太公望としては面白くない。
「単に偶然ここにたどり着いただけではないか」
「どおしてそういうカワイゲのないこと仰るんですか?」
「何を言うか。カワイゲがないのはおぬしではないか」
 楊ぜんはぷいっと膨れて、これ見よがしに馬のほっぺたにキスをした。次いでギュウっと抱きつく。
「あーっ!わしにだってしたことないくせにっ」
「師叔なんて、もう知りません」
 今にもべぇっと舌を出しそうな楊ぜんを馬がぐいっと太公望のほうに押しやった。よろけた楊ぜんは太公望に抱きつくことになる。
「ちょっと、何するの」
 太公望はにまあっと笑った。
「ケンカはよくないといっておる」
「ケンカなんてしてません」
「では」
 そう言って太公望は自分のほっぺたをつついた。首を傾げる楊ぜんにほんの少し気落ちして。
「仲直りに」
「子供みたいに?」
 本当は少し違うのだけれど。
「そう。子供みたいに」
 ほんの一瞬、やわらかいものが触れて、はなれた。
 子供みたいな仲直りのキス。
 それから二人、照れて笑った。くすぐったそうに、菜の花もゆれる。風が渡って花がゆれる。一面の黄色がさわさわと音を立てる。暖かな黄色が世界を包み込む。やわらかくて、あったかくて、きっと世界中に菜の花畑ができればいい。幸せな世界とはそういうことをいうのだ。
「夏になったら種をもらいに来よう」
「食べるんですか?」
「なぜそうなるのだ?」
「だって師叔はいっつもそればっかりだから」
「わしはそこまで卑しくはないぞ」
 花畑を造るのだ。武吉や天祥に手伝わせるのもいい。
「楽しそうですね。何考えてるんですか?」
「ナイショ」
「師叔?」
「とってもいいこと」
 きっと話せば、このほんの少しとぼけた恋人は、盆栽でも始めるんですか?歳ですね。なんて可愛げのないことを言い出すのだろう。ほんの少しイジワルするのも悪くない。
「夏になったら教えてやろう。それまではヒミツだ」
 ぐいっと立ち上がって、楊ぜんに手を貸す。
「歩こう。せっかくの菜の花だ」
 頷いて楊ぜんも立ち上がる。
「どうせなら少し摘んでいこうか」
「執務室にいけるんですか?」
「おひたしにして食おうかと……」
「なんだ、やっぱりそればっかりじゃないですか」
 だってハズカシクていえぬであろう。菜の花を抱えたおぬしが見たい、なんて。


 

   ☆


 

 どこまでも続く菜の花畑を二つの影が歩いていく。菜の花に飲み込まれそうになりながら。
「ねぇ、師叔」
 ふと、思い出したように楊ぜんがいった。
「もしかして、帰りも馬で走るんですか……?」
 ほんの少しぞっとして二人は振り返る。こげ茶色の馬はイタズラっぽく瞳をきらきらさせた。

end.

novel.