O・MA・JI・NA・I



 左手に筆を握り締めて、もう一方の手で書簡をつかんで、太公望はひたすらひたすら悩んでいた。といっても、軍に何か不備があったわけじゃない、予算が足りなくなったわけでもない、雨で進軍がなかなかできないわけでもない。彼が悩んでいるのはひたすらひたすらプライベートなことだった。
「師叔。何か不都合なことでも?」
 太公望がひたすら黙って考え込んでいたものだから、悩みの種が声をかけてきた。ほんの少し不安そうな顔はテストを返却されるのを待つ子供みたいだ。それも、自信のある答案なのにクラスの平均点が低いのを見て心配になってきた優等生みたいだ。
「いや。そういうわけではない」
 楊ぜんはちょっと不信そうな顔をする。怖がってるみたいだ。まるで。
「おぬしの仕事はいつも完璧だ」
 そう言ってやれば、顔がほころぶ。答案は百点。にっこり笑ったコドモ。
 そう、年齢はどうであれ、子供なのだ。それが問題。
 はじめは、純粋なのだと思ってた。長い歳を経てそれでもなお、美しくいられるのだと。醜くなり下がらずにあれるのだと。彼は自分とは正反対なのだと思った。復讐という業火に身を焼く自分とは、相反するものだのだと。だから惹かれた。これは恋ですらないと思った。ただ必要だったのだ、彼が。
 一世一代の決心で好きだと言った。男が男にそんなことを言うのだ。玉砕覚悟だった。
 意外にも楊ぜんは微笑んだ。
 ――僕も好きですよ。師叔。
 あまりにもあっけなくて、逆に拍子抜けした気がした。勢いあまってギュウっと抱きしめたら、くすぐったそうにくすくす笑った。そしてそっと抱き返してきた。
 その時一体誰が想像できただろう。その「好き」が、桃や哮天犬の「好き」と同じレベルだったなんて。「純粋」の意味が「子供」と同義だったなんて……。
 はあっと太公望はため息をつく。
「どうしたんですか、師叔。まさか、具合悪いんですか?」
 心配そうな顔でハズレたことを言ってくる楊ぜんにひらひらと手を振って大丈夫だと答える。しかしそれを楊ぜんは勘違いしたらしい。
「駄目ですよ。無理はいけません。気分が悪いんですか?だるいんですか?」
「いや、そうではない」
 敢えて言うなら気が滅入ってるだけだ。
「そんなこといって重い病気だったらどうするんですか。あなたがここで倒れたら、周はどうなるんです!」
 腰に手を当ててガミガミ怒鳴りだしたようぜんは、ちょっとませた子供みたいでなんだかおかしかった。仮にも太公望だって道士なのだが、楊ぜんはわかってくれないらしい。
「何笑ってるんですか!」
 笑ったつもりなどなかったのだが……。
「もう、ここはいいですから、あなたはおとなしく寝ててください」
「大丈夫だよ。楊ぜん。別に具合が悪かったわけじゃなくて……」
 ちょっと考えて言いよどむ。まさか、おぬしがあんまり子供だからキス一つするのにも罪悪感が伴って、何にもできないのが苦しいのだとはいえまい。とっさに言い訳が思いつかなかったのは、相手が楊ぜんだったからだろうか。
「だって師叔、最近元気ないでしょう。ずっと働き詰だったし。今ちゃんと、休んでくれないんなら雲中子様を呼んできますよ」
 それは困る。大いに困る。
「しかし楊ぜん、わしはホントに……」
「師叔!」
 それでも言い訳を並べようとした、太公望を楊ぜんは怒鳴りつける。そのまんま猫みたいに襟首をつかんでぐいぐい引っ張っていった。悲しいかな、体格差。太公望に勝ち目はなかった。周公旦がじろりと睨んだが、結局何も言わなかった。なぜか周公旦は楊ぜんには甘いのだ。密かに敵視していた太公望は、ほんの一瞬、優越感に浸ってみたりする。だけど。
「のう、楊ぜん。わしは自分で歩けるのだが……」
 引っ張られているのは少々かっこ悪い。それに結構苦しくなってきた。
「逃げませんか?」
「ここで逃げてもしょうがなかろう」
 ほんのちょっと考えると、楊ぜんも納得したらしく手を離す。それがいきなりだったため太公望は倒れそうになる。
「ほら、やっぱりよろけてるじゃないですか」
 そういう意味でよろけたわけではないのだが。だけど、太公望を支えようとしてか楊ぜんが擦り寄ってきたので、黙ってることにした。自分の部屋までの距離がひどく短く感じた。


 

 部屋の中までついてきた楊ぜんは、太公望を寝かし付けにかかった。お布団を肩まで引っ張り上げて、そのまま、「寝る前のお話」でも始めそうな感じで。さすがにお話はしてくれないようだが、どうやら自分が寝るまでずっとそばにいるつもりらしい。近くに椅子を持ってきた。
 しかし当然のことながら、どこも悪くない太公望は眠くない。実は楊ぜんが部屋を出て行ったらこっそり抜け出そうと思っていたのだが、その作戦は見事に失敗したようだ。
 仕方がない。
「のう、楊ぜん」
「なんですか?」
 にっこり笑って言う楊ぜんは子供みたいだ。ママゴトのお母さん。自分の役は子供なのだろうか、それともお父さんなのだろうか?
「この間、わしはおぬしのことを好きだといったであろう?」
 こくんと頷く楊ぜん。まさかこんな恥ずかしいことをもう一度言う羽目になるとは思わなかったけど。
「言い直そうと思って」
「僕のこと嫌いになりましたか?」
 心配そうな楊ぜん。そんなこと、あるはずないのに。
「いや、そうではなくて。――おぬしのことが特別に好きだ」
 くすくす笑う楊ぜん。
「きっと熱があるんですね」
「そうではない」
「熱の下がるおまじないをしてあげます」
「だから違うと――」
 思わず起き上がった太公望に楊ぜんは人差し指を立てる。
「目を閉じて」
 耳元で囁かれた声。ほんの少し、イタズラっぽい声。
「楊ぜん?」
「はやく」
 せかされる声に、目を瞑る。秘密の儀式みたいだと思った。子供にしか立ち入ることの許されない、魔法の儀式。妙なものに突き合わされている、冷め切った大人の気分。仕方なく付き合ってやる、そんな感じ。おまじないも、魔法も、大人は信じない。
 そして。
 やわらかいものがくちびるにふれた。
「ようぜん?」
「駄目ですよ。目は閉じてなきゃいけないのに……」
 ほんの少し、怒ったような声。すねた子供の声。だけど。
「ではもう一回」
「おまじないは一回きりって決まってるんです」
 目の前にある大きな眼にドキリとした。身体のシンがあつくなる。ひょっとしたら本当に熱があるのかもしれない。熱に浮かされて、だからこんなことをしてしまったのかも。
 無理に抱き寄せて、おとがいに手をかける。体制が悪い。楊ぜんは苦しいのか少し身をひねる。それを動けないようにさらに抱きしめて、口付ける。軽いキスじゃない。言うなれば大人のキスという奴。舌を入れるときにわずかばかりの抵抗。見開かれた瞳。紫の。僅かに困惑を映して。
 嫌悪じゃなくて困惑。
 それに罪悪感が広がった。
「すまぬ。楊ぜん」
 唇を抑えて、少しの間楊ぜんは呆然としていた。それから首を振る。抱きつくようにして太公望の胸に顔を押し付けた。
「いいです」
 その先は聞こえないように。
「だって嬉しかったから」
 抱きついてきた楊ぜんの髪をなぜながら太公望は少しほっとする。あのまんま泣き出されてしまったらどうしようかと思った。泣かれると弱いのである。


 

 それに。思わず顔がにやけてしまう。
 聞こえてしまった。実は地獄耳だったりするから。

end.

novel.