思い出
セピア色に変色した写真には華奢な子供が写っている。半そでの服や短ズボンからは、いかにも子供っぽいしなやかな手足が伸びている。可愛らしいひざ小僧にはすりむいたのか小さな傷がある。肩のところでバッサリと切りそろえた髪の間から、にゅうっと硬い異質なものが生えている。胸に薄汚れた小さな子犬を抱いて、写真の中の子供はまぶしそうに笑っている。その汚れた頬にわずかに涙の痕が見えた。
☆
「ね、懐かしいだろ」
楊ぜんはその写真を小首を傾げて眺め、それから「こんなことありましたっけ?」と呟いた。
「あったよ。君が十歳くらいの頃」
太乙真人はほんの少しあきれたように言う。
「たった二百年前の昔を思い出せないなんて、君ボケたんじゃない?」
その言い草にさすがにむっとして楊ぜんは写真から顔を上げた。
「あいにく僕はあなたほど年寄りではありませんからね。まだボケることは無いと思いますよ」
太乙真人は笑いながらため息をつく。
「子供の頃はあんなに可愛かったのにねぇ」
楊ぜんもつられて笑う。
西岐城の廊下でナタクの様子を見にきた太乙真人とばったり鉢合わせてしまったのである。もっとも、太乙真人は楊ぜんにも会いに来る予定だったらしいが、親莫迦な彼は久々にナタクにあって命がけでおっかけっこをしたせいで、そのことをすっかり忘れていたのだという。
まったく、殺されるかと思ったよと言う割に彼は楽しそうだ。
「それで、僕に何か?」
楊ぜんはにっこりと話を促す。ので太乙真人はきょとんとした。
「え?」
「何かお話があって僕に会いにいらしたんでしょう」
忘れてたみたいですけどね、と楊ぜんは付け足す。
「いや、そんなかしこまったことじゃなくてさ。部屋の掃除してたら偶然写真見つけて、懐かしいから君にみせにきたんだけど」
今度は楊ぜんがきょとんとした。
「それだけですか?」
「そう。それだけなんだけどさ。すごく極端に言っちゃえば二人で懐かしいねって話したかっただけなんだけど。そういうのってわからない?」
「はあ」
楊ぜんは気の抜けたような返事をした。
太乙真人はくすっと笑う。
「ほんっとに君は昔っから人付き合いへただよね」
そういって、楊ぜんがもっとずっと小さい頃にやってたみたいに髪の毛をくしゃくしゃ撫でた。
「ほぉぅ。おぬしらそんなに仲が良かったのか」
気が付いたら太公望が廊下の端に立っていた、手には書類を抱えて。どうやらずいぶん長い間立ち話をしていたようだ。
楊ぜんはほんの少し赤くなる。
「別にそんなに仲がいいわけじゃないです」
どうも太乙真人は楊ぜんを小さな頃から知っているから、楊ぜんは自然と気を抜いてしまうのだ。それに子供みたいに太乙真人に髪を撫でられるところをよりによって太公望に見られたことで、余計楊ぜんは赤くなる。顔に血が上っていくのがわかって、そのことでますます恥ずかしくなる。こうなるともう堂堂巡りだ。
「酷いなぁ。楊ぜんは私のお嫁さんになってくれるんだろう?」
そこで楊ぜんの想いを察した太乙真人は意地悪くそんなことを言った。
今度は太公望の顔が引きつるのが見えて太乙真人はほほうと思う。楊ぜんも太公望もどちらも子供の頃から良く知っているのだけれど。まさかこういうことになっていたとは。
どうせこの二人のことだから、自分の思いを伝えることはおろかろくに二人でしゃべることすら出来ていないのだろうと太乙真人は考える。悲しいことにこの推理は見事にあたっていたりする。
「太乙様!そんなでたらめを言わないでくださいっ」
案の定楊ぜんはむきになって反発する。可愛いことこの上ないから、太乙真人はよけいに喜んでしまう。
「でたらめじゃないだろう。君が五歳のときに指切りして約束したんだから」
「そんな、昔のこと……」
「おぬしそんなこと言っておったのか」
くすっと太公望が笑う。
「師叔」
楊ぜんは困った顔をして、手にもった写真をぎゅっと握った。
「おぬしそれは何だ?」
目ざとく見つけて太公望が尋ねる。
「これは……」
言ってから楊ぜんはさっと写真を背中に隠した。
「駄目です師叔」
「どうして、良いじゃない別に。可愛いよ、それ。」
太乙真人が楊ぜんを促す。
「絶対駄目です」
楊ぜんはくるくる首を振った。
太乙真人はくすくす笑う。
「太公望、どうしても見たかったら私のラボにおいで、まだネガがあるはずだから、あ、でもお土産は忘れちゃ駄目だよ」
「太乙様っ!」
楊ぜんが叫んだ瞬間、手の中のものがひょいっと抜かれた。
「あーッ!」
「甘いのぉ、楊ぜん。どれどれ……ぬおぅ、可愛いのぉ。おぬしであろう、これ。この小さいのが哮天犬か、ひょっとして」
「師叔。駄目です、やだッ。返してください」
おろおろした楊ぜんの声はなんだか幼く聞こえる。楊ぜんが写真を取り上げようとするたび、太公望はひょいっと身をかわしてしまうのだ。さすがは原始天尊様の一番弟子だけある。
「だああっ。楊ぜん。せっかくの写真を破いてしまったらどうするのだっ。のぉ太乙、これは楊ぜんいくつくらいかのぉ」
「十歳くらいのときだよ」
太公望はくすくす笑う。
「楊ぜん。天才様にも泥だらけで遊んでいた頃などあるのだのぉ」
「師叔っ」
楊ぜんはとうとう太公望から写真を取り上げるのをあきらめ、ふくれて真っ赤になった。
「うーん。でも結構、真面目に修行してたからね。でもこれは違うんだ」
「どう違うのだ?」
「台風の日にね。哮天犬が迷子になったんだよ。宝貝部分に水が入っちゃったんだよね。だからコンパスが狂ってお使いから戻れなくなっちゃったんだ」
「ほぉう。そんなことがあったのか」
楊ぜんはちょっと考え込んでいた。それから何か思い出したらしく小さく、あ……、と声をあげる。
「雨はどんどん酷くなるじゃない?それなのに哮天犬はお使いに出たきり帰ってこない。楊ぜんは外に出るって言うんだ。哮天犬を探すって。私と玉鼎が必死で止めたけどなかなか言うことを聞かない。哮天犬は宝貝なんだから大丈夫だよっていくら言っても、雨にぬれてきっと心細くて寒くて仕方ないだろうからって」
「ふぅん」
太公望は優しい目で楊ぜんを眺めた。まるでそのときの小さくて一生懸命な楊ぜんがそのままこの場所にいるかのように。
楊ぜんはその視線にますます赤くなる。
「太乙様。もうやめてください」
泣き出しそうな小さな声で楊ぜんは言う。
「思い出した?楊ぜん」
こくんと楊ぜんは頷いた。
「どうにか楊ぜんを説得して、寝かしつけた。と思ったんだ、私と玉鼎は。だけどさ。一時間くらいして楊ぜんの様子を確かめに行ったら部屋にいないんだよね。もうこっちのほうがぞっとしたよ。小さな子供が台風の真っ只中に一人っきりで出て行ったんだからね」
「勇敢だのぉ」
「そう、楊ぜんは小説で読んだ通りにシーツを破いてロープの代わりにして窓から脱出したんだよ。楊ぜんは軽かったからシーツは破けずにすんだんだけど、私たちは本当に冷や汗が出た」
楊ぜんは赤くなって黙っている。必死でやめてくださいと太乙真人に目で訴えているのだけれど、彼はとことん気づいてくれなかった。
「探そうにも金霞洞の周りは森なんだよね。熊なんかは出ないけど、蛇ならいるし、目に付きにくい崖もある。あの森は下手に入ると大人でも危ないんだ。日ごろ言い聞かせてたはずだったのにね」
「だから、ほっといたら哮天犬が死んじゃうと思ったんですよ。だって哮天犬は僕より小さくて、僕より年下なんだから」
赤くなって楊ぜんは弱く反論する。
「その君だって、まだたったの十歳だったんだよ」
太公望は少し笑った。
「太乙、今の楊ぜんに説教しても意味が無かろう」
「ああ、それもそうだね。私たちはそれから一時間も歩いてようやく楊ぜんと哮天犬を見つけたんだ。雨の中歩き回ったせいで楊ぜんも方向の感覚がなくなっていたんだね。哮天犬を見つけたのは良いけど今度は自分が帰れなくなっちゃってたんだ。道がわからないと判断した時点でその場にじっとしてたのは賢明だったと思うけどね」
「可愛いのぉ」
太公望がぽつりと言ったので楊ぜんはますます赤くなった。
「太乙様もう良いでしょう。やめてください」
「ここまで聞いたら最後まで聞きたいよね。太公望」
「そうだのぉ」
「……師叔」
楊ぜんは困った顔をして黙り込んだ。
「楊ぜん、そういえば哮天犬はどこにいたんだい?」
「川にはまってたんです」
太乙真人は爆笑する。ので楊ぜんはむっとした顔をした。
「流れが急になってておまけに石に挟まって動けなかったんです」
「おぬしが助けたのか?」
太公望の問いに、こくんと楊ぜんは頷く。
「必死でしたから」
「危ないのぉ。一歩間違えばおぬし流されていたのではないか」
「そうですね」
楊ぜんはくすっと笑う。
「哮天犬のことだけで自分のことは考えていなかったんです」
「だぁほ」
「人のこといえないでしょう。師叔」
楊ぜんと太公望は目を合わせてくすっと笑った。
ほほう、いい感じじゃないかと太乙真人は思う。
「道理で金霞洞からずいぶん離れたところにいたもんだね。私も玉鼎も驚いたよ。子供の足で歩ける道じゃないと思ってたから。雨の中で哮天犬を抱いて、楊ぜんは震えてたんだ。青白いかおで、でも泣いてなかった」
「泣いたら、くじけると思ったから。余計怖くなると思ったんです」
「玉鼎見たとたんに泣き出しちゃったけどね」
「た、太乙様っ!」
「楊ぜんは滅多に泣かないけど、その分泣いてるときは可愛いんだよね」
「ほぉう」
楊ぜんは黙っていた。何か言おうとして口を開くのだけれど言葉が出ないのだ。
「洞府に帰ってから思わず写真とっちゃったのが、これ」
そう言って太乙真人は写真を指差す。
「な……。哮天犬が見つかった記念にっておっしゃってたのにそういう魂胆だったんですねっ!」
「うわっ。楊ぜん、怒らないでよぉ」
赤くなって太乙真人をにらみつけた楊ぜんの手にはなぜか三叉刀が握られている。ひぃっと太乙真人は咽喉のおくで悲鳴を凍りつかせた。
「楊ぜんっ。そんな、昔のことじゃないかっ。もう時効だよぉ!」
「そんなの知りません。問答無用です!」
今までの恥ずかしさをごまかすように楊ぜんは言い張った。
「太公望〜!」
哀れな太乙真人は太公望に泣きついたが太公望はあっさりと身を翻した。
「いたいけな子供の写真をそんな下心で撮ろうとは、おぬしそんな趣味があったのか」
そういいつつもちゃっかり楊ぜんの写真は懐にしまいこんでいる。裏切りものっと太乙真人は心の中で叫んだ。
「そんなぁ」
「楊ぜん、ここはわしが片をつける。おぬしは仕事に戻っておれ」
楊ぜんはきょとんとしたが、はい、と太公望の指示に従った。つい癖で丁寧に太乙真人にお辞儀をする。それから自分の失態に気づき、あ……、とくやしそうな声をあげた。
太公望は楊ぜんがいなくなったのを見計らって太乙真人に話し掛ける。
「のぉ太乙。おぬしほかにも楊ぜんの写真持っているのではないか?」
太乙真人はにやりと笑った。
「あるけど。欲しいのかい」
「まぁのぉ」
「一枚仙桃十個」
「なっ……おぬしそれはちとぼったくりすぎではないかっ」
「いらないんならあげないよ」
「ううっ。わかった。背に腹は代えられぬ」
商談は成立したようだ。
「じゃあね。太公望、私はもう上に帰るよ」
太乙真人は歩き出し、それからふと太公望のほうを振り返った。
「あ、そうだ」
「何だ?」
「楊ぜんは、昔から雰囲気とかにすごく流されやすいんだよ。じっと目を見て甘い言葉でも囁けば一発で落ちるんじゃない?」
「な……」
太公望はちょっとだけ赤くなる。
「それくらいの甲斐性はもちなよ」
太乙真人はそういうとひらひらと手を振って今度こそ行ってしまった。
「わかっておるわ」
太公望はやっぱり赤くなって呟いたのだった。
end.
novel.
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