プレゼント
「ちょっと師叔。止めてくださいよ」
西岐城の執務室にて、楊ぜんは非難の声を上げた。太公望はいつものルーティンワークに嫌気が差したのか、やる気なく頬杖なんかついて筆をもてあそんでいた。その筆からとんだ墨がぱらぱらと机に散って、どうやら楊ぜんはそれが気になったようだ。
「ああ、すまぬ」
太公望はそういって、とりあえず筆を置いた。それからはぁっとため息をつく。
「つまらんのぉ」
頭を使わない、ひたすら単調なだけの仕事は実はあんまり好きじゃない。
「しょうがないでしょう」
楊ぜんはそういうことが気にならないらしく、さらさらと筆を滑らせている。達筆で有名な玉鼎真人に育てられたせいか、楊ぜんも結構字が上手いのだ。
ああいう、綺麗な字が書けるのならば、こういう仕事も楽しいのかもしれない。そんなことを思いながら太公望は原始天尊様直伝のお粗末な自分の字を眺めた。周公旦をして、読めないから書き直せと言わしめた逸品である。いや、下手なわけではない、むしろかなり上手いはずだ、ただ読めないだけで。
「あのじじい、ろくなこと教えんかったからのぉ……」
字などいくら芸術性が高くても、読めなければ何の意味もないのだ。所詮、実用品なのだから。
「師叔、何か言いました?」
呟いたら、楊ぜんに聞こえてしまったようだ。
「のぉ、楊ぜん。気分転換にでも、外に出ないか」
「そうしたらこの仕事は、誰かが片付けてくれるんですか?」
楊ぜんは山積みの書類を指差す。今日は周公旦が休みなのだ。
「ったく、あやつサボりおって……」
「周公旦君は、夏風なんだからしょうがないでしょう」
「おぬし、わしが休んだときはいちいち仮病かどうか確かめにきたくせに、周公旦にはなぜそんなに甘いのだ」
楊ぜんは一つため息をついた。
「だって、普通道士が病気になるわけないでしょう。まさか、桃の食べすぎで腹痛を起こすとは……あきれて物も言えませんね」
楊ぜんはふるふる首を振る。
「うぬぅ」
太公望はむくれて黙り込んだ。
「それで、こりたかと思ったら、あなた今日は一体いくつ桃を食べたんです?」
「まだ五つくらいかのぉ」
「それこそ、まだ朝なんですよ」
楊ぜんは口を尖らせる。あ、可愛い。と思う。
「好きなのだから、仕方なかろう」
「程があるっていってるんです」
楊ぜんはそこでお説教を止めることにしたらしく、また書類に目を落とす。
ほんの少し残念な気持ちで太公望はそれを見ていた。楊ぜんが下山してから太公望はちょくちょく楊ぜんにお説教を食らう羽目になったのだけれど、どういうわけか不思議と嫌ではないのだ。それどころか、楊ぜんのお説教の相手をするのが楽しかったりする。
それは時折楊ぜんが見せる思いがけず――男相手にこんなことを言うのもなんだが――可愛らしいところのせいなのかもしれないし、自分でも気づかなかったような悪癖を見つけ出してくれるからなのかもしれないし、そして、あるいは。わずか十二歳で両親を亡くした彼にとって、いちいちかまってくれる相手がいるというのが思いがけず居心地の良いものだったからかもしれない。
それはまだ、好きだとか愛してるとかそういうレベルの感情ではなくて、ただなんとなく傍にいたいとか、話していると楽しいとか、もっとずっと初期段階の感情ではあって。太公望自身ですらそのことには全く気が付いていなかったのだけれども。
一方、書類に目を落とした楊ぜんはちょっと困っていた。
どういうわけか太公望が、ずぅっと自分を眺めているので。
視線が気になってしょうがない。今朝、周公旦が休みだと聞いたときから、言い換えれば、太公望と二人っきりで執務室で仕事をしなくてはいけないと決まったときから、ずっとそうではあるのだけれど。
勿論太公望に他意はないのだと思う。どちらかと言えば気にしすぎているのは自分なのだ。
ほんの少し前から楊ぜんは太公望を意識していた。
何かきっかけがあったわけではない。ただなんとなく、気になるのだ。
おかしいと思う。楊ぜんの好みはどちらかと言うと年上で、もっとはっきりといってしまえば師匠なのであって。その点太公望は外見的には全く正反対とすらいえるくらいなのに。ただ、内面の家長的な側面から言えばこの二人は意外と近いところにいるのだが、楊ぜんはそこまでは気が付いていない。
ちなみに、楊ぜん、あんまり性差というものは意識していなかった。楊ぜんが思春期に差し掛かって、いわゆるそういうことに興味を持ち始める時期に玉鼎真人は修行の妨げになるからと全く女性を寄せ付けなかったのだから、これは仕方のないことなのかもしれない。つまり楊ぜんは、一生物として近場にそういう対象を見つけてしまうよりほかに術がなかったのだから。そして、始めのところで道を踏み外しかけた楊ぜん、後に思いっきり道を踏み外してしまうことになるのだが、それはまだずっと先の話だったりする。
「暇だのぉ」
うんざりしたように言う太公望の台詞にいくぶん救われたような気持ちで楊ぜんは顔を上げる。
「暇じゃないですよ。することはたくさんあるんですから」
たしなめるように言う楊ぜんにほんの少し喜びながら太公望は考える。このままではこれだけで会話が終わってしまうから。
「楊ぜん、町に行かぬか」
「仕事はどうするんですか」
「これも仕事だ。視察に行こうと言っておるのだから」
「お一人でどうぞ」
うぬぅと太公望は唸る。なかなか敵はしぶといらしい。
「薄情者。妲己の手下でも紛れ込んでいたらどうするのだ」
ちなみにこの可能性はまずない。理由は簡単、地味だからだ。それは妲己の趣味ではないだろう。たとえ紛れ込んでいたところで殺されたりさらわれたりすることはほぼないといえる。
だが楊ぜんは、ちょっと迷ったようだ。
「……あなたはそんなに弱くないでしょう……?」
「妲己の手下なら強かろう。お、それとも楊ぜん。おぬしもしや怖いのか」
「まさか」
「では、行こう。楊ぜん」
言うが早いか太公望は立ち上がる。それから楊ぜんに手を差し伸べた。差し伸べてからちょっと赤くなる。
何をやっているのだろう。これはどう考えても男相手にするようなことではないのに。
奇妙にはしゃいでいる自分を感じる。楊ぜんがついてきてくれることがそんなにも嬉しいのだろうか。
楊ぜんはきょとんとして、それからそおっと太公望の手に自分の手を重ねた。
まるで、手から電流が走ったような気がした。
☆
西岐の町はにぎやかである。城下町にはいくつもの店が建ち並び、老舗の並んでいる観光名所にでもなりそうな古ぼけたいかめしい一角もあれば、露店の並ぶ華やかな一角もある。当然、人通りも多い。
さすがに手を引いてやるわけには行かなかったけれど、太公望と楊ぜんはほんの少しいつもよりくっついて歩いていた。
「やはり、気分転換には外を歩くのが一番だのぉ」
太公望は一つ伸びをする。ほんの少しだけ体が大きくなるような感じが好きなのだ。
「視察じゃなかったんですか」
楊ぜんは冷やかすように言う。
「しかし執務室は暑くて仕方なかろう」
「あなたの格好が暑いんですよ」
太公望はいつもの道服に上着まで着込んでいる。季節感と言うのを気にしないらしい。
「おぬしとてそうではないか」
太公望はからかう。楊ぜんは自分の長袖の道服をちょっと引っ張り、そうですね。と言って笑った。
「だいたいその髪が暑苦しいのだ。切ってしまえば良い」
「嫌ですよ」
楊ぜんは髪を押さえつける。
実際のところは青い髪はそんなに暑苦しく見えるわけではない。ただ本人が暑いだろうと言うだけで。
「おぬし暑くはないのか?」
「僕はちゃんと修行してますから」
「それではわしが、修行をしておらぬようではないか。いや……実際サボっておるのは認めるが……しかし……ああッ!」
ぶつぶつ呟いていた太公望が急に大声を上げるものだから楊ぜんは驚く。
「どうしたんですか、師叔」
本当に妲己の手下でもいたのだろうか。
「ぬおぅ。桃まんではないか。楊ぜんおぬしも食べるであろう」
目をきらきら輝かせて、台詞の最後にハートマークでもつきそうな勢いで太公望は言う。
「いりませんよ、僕は」
莫迦らしくなってつっけんどんに楊ぜんはそういった。
「そぉかぁ……しかしなかなか美味いのだぞ」
「甘いものは苦手なんです」
「それは損だのぉ」
「師叔だけでも、召し上がったらいかがです?」
「うぬぅ……しかし悪いのぉ」
そういいつつも、太公望の足は勝手に店の中に入っていった。
全体的にごちゃごちゃした感じの店だった。ついでにひどく薄暗かった。食べ物屋と言うよりは、雑貨屋の店先で食べ物を売っているという印象だった。太公望はちょっと迷いつつも、楊ぜんにあきれられるのを恐れて遠慮して三つだけ桃まんを買った。袋に包んでもらっている間に、いいものを見つけた。
赤い組みひも。あの青い髪にはきっと映える。
「のぉ、ついでにこれもくれぬか?」
「軍師様がつけるの?」
くすくす笑いながら店番の娘が言う。
「だぁほ、これは……」
楊ぜんにやるのだ。そういおうとして、太公望は赤くなって黙り込んだ。
「……何だって良いではないか」
小さな声で口の中でもごもご言った。
娘はくすっと笑う。それからいたずらっぽく笑った。
「それね、町の女の子の間ではやってるの。好きな人と二人で同じのを身に付けるの。同時に切れたら二人は絶対に結ばれるのよ」
「な……」
「勿論、二本買うわよね?」
「そんなのどうせ迷信ではないか」
「あら、本当よ。私の従姉はそれで結婚したんだもの」
「道士は結婚などせぬ」
「莫迦ね。両思いになれたらハッピーじゃないの」
店の外で待っていてくれる楊ぜんの青い長い髪が視線の端に見えた。
「結婚できないんなら道士なんてやめちゃえばいいのよ」
「短絡的だのぉ」
「あら、私そう思うわ。で、どうするの。買うの、買わないの?二本組みじゃないと売らないわよ」
「何だ。結局商売ではないか」
「まあね」
くすっと娘は笑う。
「でも軍師様、お金なさそうだからサービスしてあげるわ。その代わり、絶対に渡すのよ」
くすくすくす。
店を出たとたん、なんだかからかわれたような気がしてきた。手には桃まんの包みと二本の組みひもが残っていた。
「師叔。遅かったですね。……それ、一人で召し上がるんですか?」
楊ぜんはあきれたような顔をする。ちゃんと遠慮したのに、たったの三つでも多いと言うのだろうか。
「またおなか壊しますよ」
「そうしたらおぬしが看病してくれるのであろう」
「何で僕が。嫌ですよ」
うぬぅ。と太公望は唸る。それでもまたおぬしにお説教をもらえるならそれも良い、と思った。
「師叔。その紐はどうしたんですか」
「ああ、これは……サービスだそうだ。ほれ一本おぬしにやろう」
嘘ではない。でも。子供だましなおまじないなんか信じてない。でも。だけど。
――莫迦ね。両思いになれたらハッピーじゃないの。
「悪趣味ですね」
あっさりと楊ぜんは言った。
「しかしその邪魔な髪を結わえておけばよい」
「僕が?小さな女の子がやるみたいに?」
「駄目、かのぉ」
楊ぜんはちょっと首をかしげる。
「そんなに邪魔ですか」
太公望は頷く。いや。本当はおぬしの髪を見るのは大好きだ。だけれど。
――私の従姉はそれで結婚したんだもの。
信じているのだろうか?……まさか。
「邪魔と言うわけではないが、おぬしが暑そうだ」
「ふうん」
楊ぜんは、しばらく、太公望からもらった組みひもを手にもてあそんでいた。それから髪を軽くまとめると組みひもをくるくる回して結い上げる。白い、白すぎるうなじの辺りが鮮やかに目に焼き付いて、太公望はどきんとした。
「これでいいんですか。お気に召しました、師叔?」
楊ぜんは無邪気に微笑んだ。
☆
夜。太公望は残されたもう一本の組みひもを手にもてあそぶ。指に引っ掛けて通してみたりして。組みひものいささかどぎつい赤い色に安っぽい金の刺繍。
それにかぶって昼間の情景がよみがえる。さらさらと流れた青い髪。その青に絡みついた赤い紐。うなじの漂白されたような白。無邪気に微笑む楊ぜん。
――同時に切れたら絶対に……
絶対に結ばれるのよ。
太公望はちょっと勢いが良すぎるくらいに首を振る。
「やはり、こんなものに頼るのは駄目だのぉ」
くすくすくす。自分で自分に苦笑いしてみたりして。
しかしちょうど良かった。
やっぱりわしは、きっと、どうしようもなく。
楊ぜんが好きなのだろうな。
それを教えてくれただけでも、この紐は役に立ったのだろう。
だったら。こんなまじないじみたものには頼らない。それは楊ぜんに対しても失礼だ。あくまでも自分の力で楊ぜんを振り向かせるまで。
だから太公望は、ぱちんとはさみで真っ二つに赤い組みひもを切ってしまった。
だって、こんなもの所詮迷信なのだ。
それから、いっときでもそんな莫迦なことを信じた自分がどうしようもなくおかしくなって、太公望はしばらく笑いつづけた。こんなことを知ったら楊ぜんはどう思うだろう。きっと怒った楊ぜんに叩かれてしまう。
楊ぜん、わしはおぬしを手に入れるために赤い紐を使ったのだよ。
くすくすくす。
☆
ばさっと、髪が落ちてきて楊ぜんは慌てて抑えようとした。その手に赤い紐が引っかかる。
「あーあ。せっかく師叔にいただいたのに」
組みひも、切れてしまった。
せっかくはじめていただいたプレゼントだったのに。たとえ桃まんのおまけでも。
「やっぱり、おまけなんて弱いのかな……」
でも、こっそりとっておこう。一番奥の引き出しに。
大好きなあなたからもらった最初のプレゼント。邪魔な髪を抑えるための。
end.
novel.
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