台風一過
いつもの執務室にトントン、とノックの音が響いた。
ので、執務室にいた面々は顔を上げる。
入ってきた女官は執務室の静けさに一瞬気後れを感じたように黙ると、気を取り直してしゃべりだした、否、しゃべりだそうとした。だけどここでちょっと邪魔が入る。執務室の面々は今さら驚くまでもない、新しい女官が来るたびに訪れる通過儀礼のようなものだ。
「プリンちゃーんッ!」
「えっ。いやっ。きゃあああぁっ!」
バシッ!
男ばかりの執務室に閉じ込められてプリンちゃん中毒を起こしかけていた姫発は女官に飛びかかろうとし、すんでのところでハエでも叩くように振り下ろされたハリセンにあっけなく沈んだ。
女官はびっくりして目をぱちぱちさせた。
「何かありましたか?」
何事もなかったように周公旦が言う。
「おお、もうおやつの時間かぉ。今日はフルーツパフェが良いのぉ」
子供みたいな軍師が嬉しそうに言う。
「僕は今日は紅茶がいいですね。ハーブティーもいいなぁ。なかったらダージリンでいいけど」
楊ぜんは、そういいながら真っ白な大きな犬を撫でた。どうやら姫発からの護衛用に使っているらしい。
「哮天犬にはミルクをお願いしますね」
そういってにっこり微笑む。
このおっきな犬が子猫みたいにミルクを飲むのかしら、と女官はちょっと首をかしげた。
それから慌てて言う。
「あの、そうじゃないんです。お客様がお見えになりました」
「なぁんだ。おやつではないのか」
がっかりしたように太公望は言う。
「客をここに通されても困りますよ」
周公旦はそっけない。
ぷりんちゃぁ〜ん。と倒れていた姫発が女官の足に手を伸ばしたので女官はちょっと、後ろに下がった。蹴飛ばしてやろうかと一瞬迷ったのだがさすがにそれはまずいだろうと思って一応止めた。
「いえ、楊ぜん様にお客様なんです」
「僕に?」
楊ぜんはきょとんと顔を上げる。だからちょうど女官は楊ぜんと見詰め合う形になってしまって、ほんの少し顔を赤くした。女より綺麗な顔の男なんか全然タイプじゃないっ。と言うのが彼女の主張だったのだけれど、そういうレベルでなく楊ぜんの顔は整ってるのだ。
「誰だそれは?」
女官の気を引くように、というよりも女官の視線を楊ぜんからはずさせるように太公望は少し大きな声を出した。不自然にならないくらいの範囲で。
「仙人様だそうです。背が高くて、顔が整ってらっしゃって、黒い髪の綺麗な」
「太乙か?」
「いいえ、楊ぜん様の」
ここで女官はくすっと笑った。
「保護者様だそうです」
太公望と楊ぜんは顔を見合わせる。
「玉鼎か?」
「師匠ですよ。師叔!どうしましょう」
二人は同時に立ち上がる。
「お二人とも仕事が……」
「そんなことしておる場合ではないっ!」
「そんなことしてる場合じゃないですっ!」
周公旦の台詞をさえぎったのも二人同時だった。
そして二人はこれまた同時に廊下に駆け出したわけである。
「なぜだ。どうして玉鼎が下山するのだ?」
「さぁ、だけど太乙様なんて用もないのにしょっちゅう下りていらっしゃいますからね。師匠も久々に下界見物でもしたくなったのでしょう」
楊ぜんはもっともらしいことを言ったが、太公望の見解では十中八九弟子の顔を身にきたのだろうと思う。せっかく、楊ぜんを独り占めしているところなのに、あの親莫迦め。
「しかし、玉鼎はおぬしにも会いにきたのであろう?」
「ついでですよ」
楊ぜんはそういいながらも、ひどく嬉しそうだ。こっちは弟子莫迦かい、と太公望は心の中で思った。
「しかし、いったん下におりて日帰りと言うこともあるまい。やはり泊まるとしたらおぬしの部屋かのぉ……」
それは嫌だのぉと太公望は口のかなで呟いた。
「え?何か言いました、師叔。でも、そうですね、僕の部屋に寝台を運んでもらうか、客間を使ったとしても師匠は僕の部屋に来ると思います」
「困ったのぉ」
実は楊ぜん、ほとんど自分の部屋を使ったことがないのだ。寝るときはいつも太公望の部屋に押しかけているわけで、はっきり言ってしまえば同棲してるようなものである。もっとも、楊ぜんが部屋にやってくる理由は一人で寝るのが淋しいからといういささか情けないものだったりするのだが。
そして勿論、日用雑貨も太公望の部屋に運び込んでおり。楊ぜんの部屋はほぼ空き部屋と化している。まるで生活感なんかないわけだ。
「楊ぜん、おぬしは自分の部屋に行って、掃除と、あと、寝台にとりあえず寝たあとだけでも残しておけ。シーツでも少し乱しておけばよいから。それからわしは部屋に戻っておぬしの、パジャマと枕と歯磨きと……あとほかにいるものはないかのぉ?」
「え……っと。師匠にもらった文鎮と、あと羊のぬいぐるみとぉ……あ、一応洋服とかも」
「わかった」
というわけで、二人は楊ぜんの部屋を何とかして楊ぜんがいつも過ごしている部屋に見せるために、せっせと働き出した。
☆
さて、とりあえず応接間に通された玉鼎真人は思いのほか待たされたので、ちょっとと惑っていた。
楊ぜんはそんなにも忙しいのだろうか。本の少し顔を見説だけのつもりで着ただけなのに。仕事の邪魔をするのもかわいそうだ。今日は残念だが帰ることにしようか。
そう思って玉鼎真人が腰をあげようとしたとき、取り次いでくれた女官が顔を出した。
「あら、楊ぜん様、まだいらっしゃらないんですか。お呼びしたのに」
女官は申し訳なさそうな顔をする。
「いや。いいよ。もう帰らせてもらうことにするから。楊ぜんには忙しいところにすまなかったと伝えておいてくれ」
「でも、楊ぜん様はすぐ執務室を出ていかれましたのに……、あら、私ったら、応接間にいらしてくださいって言いそびれちゃったんだわ。申し訳ございません。楊ぜん様はきっとお部屋でお待ちです。ご案内いたします」
女官はそういうとぺこりとお辞儀をした。
ほおぅ、楊ぜんの部屋か。小さい頃は一人で寝ることを怖がったものだが、さすがにもう一人で眠れるようになったのだな。
玉鼎真人はほんの少し目元を緩める。長い長い生の間で、一番彼が愛しているのはこの弟子なのかもしれない。勿論、それは恋愛などと言うものではなくて、だけれどいっそう深い慈愛の念なのだろう。
女官に案内されながら玉鼎真人は、少し弟子について探りを入れてみることにした。
「楊ぜんは元気かい?」
「ええ、お元気そうでしたわ」
「ほかのものとは上手くやっているのか」
女官はちょっと困る。そんなこといわれたって、彼女は別に楊ぜんと親しいわけでもしょっちゅう執務室に出入りしているわけでもないのだ。だから彼女はここのところ、西岐城でよく聞く噂をそのまま伝えることにした。
「はい。軍師様とはとても仲がよろしくて、こちらが微笑ましくなるくらいですわ」
言ってからしまったと思った。わすれがちなことだけれど、楊ぜんはれっきとした男の子なのだ。当然太公望も男であるわけで……。
で、でも。大丈夫よね。だって私、仲がいいといっただけだもの。
夏だというのに、肌寒いのはきっと気のせいだろうと思いつつも、女官は怖くて後ろを振り返れなかった。
☆
一方、楊ぜんの部屋ではあらかたの作業はだいぶ片付いていた。
「ふぅ……。終わったのぉ。間に合った……」
真夏に走り回ったものだから太公望は楊ぜんの寝台でぐてぇっと横になった。
「ああっ。ちょっと師叔!せっかくセットしたのにっ」
「良いではないか、別に。おぬしが毎晩寝起きしているといった感じになるであろう?」
「僕はそんなにだらしなくありません!あーあ、ぐちゃぐちゃじゃないですか」
楊ぜんは太公望を睨みつける。それからちょっと奥に行って悲鳴をあげた。
「どうしたのだ?楊ぜん」
太公望は起き上がる。軍師様と補佐官様の部屋は特別待遇で、ちょっとしたシャワールームなんかがついているのだけれど……。
「師叔ぅ……黴ちゃってます……」
「そんなところまで見ないから大丈夫だよ。それに使ってないからと言えばよいであろう。風呂は大きいのがあるのだから」
「だけど……」
楊ぜんはそこも掃除する気らしい。そういえばこやつ完璧主義者だった、と太公望は今ごろになって思い出した。はっきり言って損な性格である。
そしてまた上がる悲鳴。
「今度はどうしたのだ?」
太公望は汗を拭きながら訊く。さすがに暑くって上着を一枚脱いだ。それから首の辺りを緩めてぱたぱた扇ぐ。
「もぉやだ。間違えてシャワーかぶっちゃいました」
「だあほめ。着替えを持って着てよかったのぉ」
こういうところも可愛らしいところの一つではあるのだが。
「ちょっと師叔。着替えるからバスタオル出して……」
太公望はいそいそとバスタオルを探す。
☆
部屋の前について女官はぺこりと頭を下げた。
「ここでございます」
「ああ、すまなかったね。ありがとう」
玉鼎真人はドアを見る。なかなかしっかりしたドアだ。ならば相当良い部屋なのだろう。楊ぜんがそんなにも評価されているのを知って玉鼎真人は嬉しくなった。勿論、あの子にはそれだけの価値があるとは思っているが。
それから、ちょっと顔を引き締める。ここにきたのが楊ぜんの顔を見るためだというのは勿論本当のことだが、実はそれ以外にも目的はあった。弟子の生活ぶりを知るため。もっと言うならば、噂に聞くとおり、太公望と恋人同士であるのか、もしそうなのだとしたら、どの程度まで進んでいるのかを確かめなくてはと思ったのだ。
勿論楊ぜんのことは信じている。しかし信じていても不安になるというのが男親と言うもので。ましてや、楊ぜんは玉鼎真人がまだおしめも取れない頃から育てた、それこそ目に入れても痛くないくらいの可愛い弟子なのだから。
そう、実はこの二人、親子どころか祖父と孫以上に年齢が離れているのだ。どちらかと言えば家族の縁が薄いほうだった玉鼎真人が、楊ぜんを可愛がりすぎてしまったのも、わかる話ではある。
トントン。軽くノックをする。
「楊ぜん、私だ。入るよ」
返事はなかった。おかしい、聞こえないのだろうか。それとも子供の頃のように私を脅かそうとドアの影に隠れてどきどきしながら待っているのだろうか?
「楊ぜん。開けるよ」
そして玉鼎真人はドアを開いた。
☆
……。
乱れた寝台。
シャワールームから半裸で顔を出す楊ぜん。
汗びっしょりの服の乱れた太公望。
脱ぎ捨てられた上着。
さぁっと、気温が氷点下まで下がったように感じたのはきっと気のせいではないと思う。太公望は顔を引きつらせながらも、どうやってこの場を切り抜けようか必死になって考えた。
「玉鼎……お、おぬし、そのぉ……部屋を間違えたのではないか?」
安易だが、それしかなさそうだ。
「ここはわしの部屋なのだがのぉ」
そういいつつ、シャワールームにチラッと目を走らせて太公望は固まった。
よーぜん。おぬしどうして顔を出しておるのだっ!
だって、シャワールームから出たときと師匠がドアを開いたのがちょうど同じくらいで、まともに師匠と目があっちゃったんですよ!
楊ぜんは困ったように太公望を見ると、しょうがなくて玉鼎真人の方に歩み寄る。
「師匠、これはそのぉ……誤解なんです」
バスタオル一枚でそんなこといわれたって全然説得力がない。
だあほ。服を着ろっ!と太公望は楊ぜんに道服を投げてよこしたが、それは玉鼎真人に新たな誤解を生んだだけだった。
なぜ、太公望が楊ぜんの服を持っているのか?
わなわなと玉鼎真人は震えながらも、太公望をみじん切りにするために斬仙剣へやった手を、何とか元に戻した。たとえとう考えたって申し開きの出来ないような状況に出くわしてしまったとしても、楊ぜんが誤解だと言うのなら話をきこう。師匠は楊ぜんを嘘をつくような子に育てた覚えはないのだから。
勿論、太公望の言い訳なんか聞いてやる気もないが。
「楊ぜん、ちゃんと説明してごらん。出来るのであればね。だがその前にまず服を着ておいで」
楊ぜんはしゅんとしてシャワールームに戻っていった。
太公望はその後姿を未練がましく見送る。そして、嫌だのぉと思いつつも仕方なく視線を玉鼎真人に戻した。
楊ぜんとは別の意味で整った顔からはよく表情が読み取れない。
怒っておるのかのぉ。怒っておるのだろうのぉ。
「玉鼎、これはそのぉ……誤解なのだ。つまりわしが楊ぜんの部屋の模様替えを手伝っておって……」
「弁明は楊ぜんからきく」
玉鼎真人はそっけない。顔には出ないが彼は非常に怒っていた、というよりも恐れていたのだ。
勿論。楊ぜんを昼間っからよりにもよって自分の上司――しかも男!――とああいう不埒な行いをするような弟子に育てた覚えはない。
だが、目の前に事実を突きつけられるとそうそう否定するわけにもいかないだろう。しかし、弟子の楊ぜんは信じたい。というか、楊ぜんが自分を裏切るなどと言う言葉は玉鼎真人の辞書には載っていなかった。
そして、いくら自分が認めていたとはいえ太公望は所詮他人である。
とすれば……?
目の前に浮かぶのは、己の権力を乱用して無理やり楊ぜんを陵辱する極悪人太公望像。この辺で妄想への空回りが始まる。
なんと言うことだ。あの可愛い弟子を私は自ら悪魔の元に送り込んでしまったのか?
目の前が真っ暗になる思いで玉鼎真人は考える。
ちょうどシャワールームから出てきた楊ぜんが、驚いて玉鼎真人の下へ駆けつけた。
「師匠!顔が真っ青ですよ」
「ああ、すまなかった楊ぜん」
玉鼎真人は遠くを見つめてそんなことを呟いた。
「もういいよ、楊ぜん。崑崙に帰っておいで。太公望は封神計画に必要だから、今すぐ殺したりはしないが……しかし、いつか必ず師匠がお前の敵をとってやるからね」
楊ぜんはきょとんとする。
「師匠?」
怪訝そうに形のいい眉をひそめ、それから太公望を睨み付けた。
ちょっと師叔っ。師匠に何を言ったんですか!
わしは何も言っておらぬぞ、と太公望は首を振る。
その間にも玉鼎真人の現実逃避は続く。
「そうだ、楊ぜん。山を降りて師匠と一緒に二人で暮らそう。お前が勝手に封神計画を抜けるとなると、当然風当たりも強くなるだろうから。私はもともとお前が封神計画に関わるのは良くは思っていなかったんだ」
楊ぜんと太公望は顔を見合わせる。
「師匠、しっかりしてください。僕は封神計画を降りたりしませんよ」
「そうだ、わしには楊ぜんが必要だ」
「師叔はちょっと黙っててください」
「何だ。せっかくの一世一代の大告白だったのにのぉ……」
「師叔の莫迦」
いちゃつき始めた二人をよそに玉鼎真人はまだ遠くを見つめていた。
「楊ぜん、それではお前はまだ封神計画を補佐するのか?」
こくんと楊ぜんは頷く。
「僕は師叔のお手伝いがしたいんです」
それからはにかんだように微笑んで。
「だって僕は師叔のことが大好きですから」
ああ、そんな。莫迦なことが。それだけ虐げられても、まだお前は太公望をかばうのか。好きだと言うのか?
そして玉鼎真人は貧血の発作を起こして今度こそ本当に目の前が真っ暗になった。きゃあっ。師匠。大丈夫ですか!と言う弟子の声がはるか遠くで聞こえた気がした。
☆
「とりあえず、ことがうやむやになってよかったのぉ」
玉鼎真人を何とか二人がかりで楊ぜんの寝台に引っ張り上げたあと、ほっとしたように太公望は言う。
「でも結局師匠は何が言いたかったんでしょうね?」
楊ぜんは首をかしげる。敵を取るだの、崑崙に帰ろうだの楊ぜんにはほとんどちんぷんかんぷんだ。
「年なのではないか?一人で暮らしていると心細くもなるだろう。ましてやあやつの親莫迦は崑崙では有名だからのぉ」
極悪人太公望はあっさりと結論付けた。
「そんなことないですよ」
言いつつも楊ぜんは赤くなる。
おぬし、わしのこと以外で赤くなるでない。と太公望は思ったが、あんまりにも独占欲丸出しのような気がして黙っていた。
代わりに口を開く。
「のぉ、楊ぜん。師叔のことが大好きなのか?」
楊ぜんは目に見えて赤くなる。そう、それで良い。
楊ぜんはこくんと頷く。寝台に腰掛けてるため、いくぶん上目遣いで。
「師叔も、楊ぜんのことが大好きだよ」
耳元で囁いて太公望は楊ぜんをぎゅうっと抱きしめると楊ぜんの額にチュっと軽く口付けた。
「やぁだ。師叔っ。師匠が目を覚ましちゃったらどうするんですか」
言いながらも楊ぜんの声は甘ったるく響いた。
翌日、崑崙への帰り際に玉鼎真人は楊ぜんから一つプレゼントをもらうことになる。ちっちゃな楊ぜんのぬいぐるみ。可愛らしい巻つのに赤いリボンで手紙がくっついている。
――師匠。これで夜も淋しくありませんよ。
玉鼎真人の誤解が解けたかどうかは、定かではない。
end.
novel.
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