蜥蜴
最終章 開放の時
あれから、一週間たって崑崙事務所は山の手に引っ越した。
相変わらず普賢真人が買い叩いて……もとい、負けてもらったという物件でなかなか住みやすいところである。
「引越しして広くなったよね。ソファーは残念だったけどまたいいの探してくるから」
普賢真人はにっこりと笑った。
書類を捲っていた太公望とお茶を酌んでいた楊ぜんはやましい記憶がよみがえったのか、顔を合わせて真っ赤になる。
金鰲の遺産をすべて受け継いだ楊ぜんはそのほとんどすべてを、寄付してしまい、今は事務所に居候している状況だ。もっとも、その楊ぜんの相続金で事務所を買ったわけではあるので、正確には太公望と普賢真人が居候なのかもしれない。
「どうしたの?二人とも。楊ぜん。お茶、こぼれてるよ」
「あ」
楊ぜんは慌てて布巾をとりに台所に走った。
「ねぇ。望ちゃん」
「んー?」
「あそこでやったの?」
太公望はケホケホと咳き込んだ。
「何を?」
普賢真人の目が少し細くなる。
「今度は三人でも眠れるのにしよーっと」
「なっ。なんだとぉ?」
ケホケホケホ。
「太公望先生大丈夫ですか?」
台所から出てきた、楊ぜんが慌ててお茶を差し出す。
「何の話をしていたんですか?」
楊ぜんが尋ねると普賢真人は意味深ににっこり笑った。
「おぬしは、知らなくてもよいことだ」
太公望がそういうと楊ぜんはむっとした顔をする。
「仲がよろしいんですね」
「何を言っておるのだ?」
太公望はきょとんとする。
「だって、やっぱりお二人は仲がよろしくて僕の入り込む隙間なんかないじゃないですか。やっぱり本当は恋人同士なんでしょう?」
ケホケホケホ。
「あーあ。楊ぜんが変なこというから……」
「だって。じゃあ、普賢様は僕が太公望先生もらっちゃってもよろしいんですか」
普賢真人は面白そうにくすくす笑う。
「へぇ。欲しいの?」
楊ぜんは真っ赤になって黙り込んだ。
「おぬしら一体何をいっておるのだ?」
太公望は自分自身赤くなって口をはさむ。
楊ぜんはじっと太公望を見つめる。
「太公望先生。僕のこと好きですか。サーカスが終わっても、まだ僕のこと好きでいてくれますか?」
ひゅうっ。普賢真人は小さく口笛を吹いた。
「なッ。おぬし何をいきなり……」
「真面目に答えてくださいっ」
潤んだ目で楊ぜんにじっと見つめられると、まるで楊ぜんの瞳がどんどん大きくなってその瞳にとらわれてしまうかのような錯覚におそわれる。
「だっ、だから。そのぉ……好きだと……思う」
もごもごと太公望はいった。
「望ちゃん。聞こえない」
「好きだっ!」
太公望は怒鳴った。
「誰がですか?」
じっと楊ぜんは太公望に顔をくっつけるようにして太公望を見る。
「楊ぜん。楊ぜんが好きだよ」
「太公望先生ッ」
ぎゅうっと楊ぜんは太公望に抱きついた。勢い良く抱きつかれたため太公望は酸欠でばたばたした。それからぎゅうっと楊ぜんを抱きしめる。
あーあ。人前で……と普賢真人はあきれながらもくすくすわらう。
「ねぇ、太公望先生知ってます?僕、もう16なんですよ」
「え?ああ。知っておるよ、楊ぜん」
「もう結婚できるんですよ」
……。
「なっ。なにぃっ!」
「あれ、知りませんでした?この国では女は16歳で結婚できるって……」
「そ、それは。知っておる。知っておるが……」
「駄目?駄目ですか。僕、医者が、手術しても普通の女の人より子供生める確率はすっごく少ないって。やっぱり、僕は結婚なんかできないんですよね」
楊ぜんはしゅんとしおれる。太公望は慌てだした。
「なにをいうか!こんなに健気で可愛い楊ぜんと結婚したくない男などいるものかっ!子供が居なくともおぬしさえいればそれでよい。ただ、おぬしはあんな事件があった後だから、少しのぼせておるのだ。わしは勿論嬉しいがしかし、おぬしにはもぉちっと考える時間が必要だ」
「先生僕のこと信じてくださらないんですか」
「そうではないが、おぬしが後悔する顔は見たくない」
「しませんよ。でも太公望先生は犯罪者の娘なんかと結婚できませんよね」
楊ぜんはぎゅっと太公望にしがみつく。
普賢真人は全く動じることなく美味しそうにお茶を飲んでいる。
「な、何を言うかそんなこと楊ぜんには全然関係ないであろう?おぬしは被害者だよ。だからもうそのようなこと考えるでない。わしはただおぬしが若すぎるのではないかと……」
太公望は男らしくなくおろおろした。
「後悔なんて絶対にしません。だってあなたは初めて化け物の僕を愛してくれた人だから」
楊ぜんはにっこりと微笑む。
この微笑が、本当に自分だけのものになってくれるのだろうか。信じていないわけではない。否、むしろ。楊ぜんの悲しい過去を自分が少しでも慰めてやることが、あの、狂気から開放してやることができるのならば。
否。それも違う。これはそんな同情なんて安っぽい物ではない。ただただ純粋に好きだという想いだけがあふれている。
「楊ぜん」
太公望はそっと楊ぜんに口付ける。楊ぜんは夢中になって太公望にしがみついた。心地よい酩酊の中で、何かが浄化されていくような不思議な気分を味わいながら。
「良いのか?」
こくりと楊ぜんは頷いた。そして再び甘い口付けを繰り返す。過去を清算しようとするかのように。
太公望と楊ぜんは硬く抱き合っている。
普賢真人は相変わらず美味しそうにお茶を飲んでいる。
誰かがドアを叩いている。
普賢真人は顔を上げると、ちらりと太公望と楊ぜんを横目に見た。
二人はまだ熱烈な、いいかげん人があきれたくなるようなラブシーンを演じている。
「何だ。せっかくいいところだったのに」
仕方なく湯飲みをおき、立ち上がって二人に何の前触れもなしにドアを開けた。
「おはよーございますっ。お師匠様っ」
とたん、とっても元気のいい声が部屋の中に響いく。
うわっ。と悲鳴をあげて太公望から楊ぜんが離れた。慌てて着物のすそを直す。太公望はわたわたと書類を捲り始める。
「あれ、拙かったですか」
純真な武吉は困ったように赤くなり、にっこりと微笑んでいる普賢真人を見た。
「全然。朝っぱらから事務所で人の目気にしないで抱き合ってる誰かさんはね、観察されても文句言えないんだよ」
くすりと普賢真人は笑う。太公望と楊ぜんは真っ赤になった。
「武吉君。寒いだろうからドア閉めて中に入って」
楊ぜんが赤くなりながら武吉を勧める。
「あ、はい。お師匠様。楊ぜんさん。おめでとーございますっ」
そして武吉は部屋の中に入ってくると、大声でそういってきちっと礼をした。よぉくみれば、花束を抱えている。
「武吉。おぬしどうしたのだ?」
不信に思って太公望は声をかける。
「え?やだなぁー。お師匠様ったら照れちゃって!」
「何を言っておる」
「だって、今日はお師匠様と楊ぜんさんの婚約披露パーティーだから花を買ってこいって普賢さんが」
太公望はじろりと普賢真人をにらむ。
「普賢。おぬし……」
「だって、二人ともじれったいからつい」
普賢真人は悪びれもせず、くすくす笑った。
「えーっ。違うんですかお師匠様っ」
「違うと言うか、そのぉ……のぉ、楊ぜん」
太公望は楊ぜんを見る。
楊ぜんは真っ赤になってこくんと頷いた。
「たった今、そうなったのだ」
太公望と楊ぜんは顔を見合わせ、そして二人同時にくすっと笑った。
「なんだ、やっぱりそうなんですね。僕普賢様にかつがれたのかとおもっちゃいましたよー」
武吉はあははと笑う。あながち間違いでもないのだがのぉと太公望は心の中でつぶやいた。
「じゃあ、パーティーの準備はじめようか」
普賢真人はにっこりと笑う。
「望ちゃん。どうせだからお世話になってる刑事さんたちにも連絡したら?」
「ううッ。それも何か照れるのぉ……」
楊ぜんはくすくすわらう。
「あれーッ。何にも用意してないじゃないですか。僕ひとっ走り、材料買いに行ってきますよ」
「あ、じゃあ。お願いしようかな。僕、今メモとるから武吉君待っててよ」
普賢真人はそういってボールペンと紙を探し始めた。
「望ちゃん。ケーキとタルト、どっちがいい?」
「両方!」
「太りすぎで楊ぜんに捨てられても知らないからね」
「普賢様、僕そんなことしませんよ」
「はいはい。熱いねぇ」
「え?じゃあ、暖房止めましょうか?」
「違うよ、楊ぜん。そうじゃないの」
楊ぜんはわかっていない顔で困ったように太公望を見る。
太公望は笑って楊ぜんの髪をくしゃりと撫でた。楊ぜんはそっと太公望のそばに寄り添う。そこにはもう、陰りのあるサーカスの花の面影は何もなかった。ただ幸せそうで、ちょっとばかりはた迷惑なカップルの片割れが幸せそうに微笑んでいた。
明日の朝の朝刊には注意しないとわからないくらい小さく、名探偵の吉報が載るのかもしれない。そして、その記事を眺めながら優雅に微笑む髪の長い美女の姿もまた、どこかの一風景としてあるのかもしれない。
いずれにせよ、それはまた別のお話。
だって、もうすぐパーティーが始まる。
end
novel.
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