蝶々 



「あ、ひらひら」
 ぽつんとつぶやかれた声に太公望は顔を上げる。部屋の中に迷い込んだのであろうモンシロチョウがひらひらと舞っていた。
「ああ、蝶々だのぉ」
 つぶやいてからくすっと笑う。ひらひら、か。可愛いではないか。
 発言者の楊ぜんは、決まりが悪そうにそっぽを向いた。

 

   ☆

 

 ずぅっと昔、まだ頭に角のついていた頃の話。師匠におねだりしたことがある。真っ白なモンシロチョウに手を伸ばして。
「師匠ぉ、あれ」
 ふわふわして綺麗な生き物が欲しくなった。だけど蝶々はゆったりしている割に簡単に楊ぜんの伸ばした手をすり抜けてしまう。
 師匠はちょっと困ったかおをして楊ぜんの手をやんわりと抑える。
「楊ぜん、駄目だよ」
 楊ぜんはきょとんとして師匠を見上げる。それから。
「いやぁ。ひらひらぁ」
 ぐいっ、師匠の服のすそを引っ張る。そうすれば師匠は困った顔しながらも、楊ぜんのために蝶々をとってくれるはずだった。師匠は何だって楊ぜんの願いをかなえてくれるのだから。
「駄目だよ。楊ぜん。生き物を捕まえるのは可哀想だろう」
 だけど師匠は、ちょっと悲しそうな顔をしてそういった。楊ぜんはきょとんとして、それからこくりと頷いた。実はよくわからなかったのだけれど。
「師匠ぉ、おなか痛いの?」
 思いっきり見上げて。
「そんなことはないよ」
 師匠は軽く笑った。
 だけれど。楊ぜんは首をかしげる。師匠はひょっとしたら楊ぜんに心配をかけないように無理をしているのかもしれない。もちろん、あの頃の楊ぜんにそんな難しいことはわからなかったのだけれど、でも子供ながらに感じることは確かにあったのだと思う。
「師匠ぉ、大丈夫?」
「大丈夫だよ。私はね、楊ぜん。蝶々は野原にいるときが一番綺麗だと思うんだ。蝶々だって、ここにいるのが一番幸せなんだよ」
 小さい楊ぜんには本当は良くわからなかったのだけれども、楊ぜんはこっくり頷いた。
 蝶々は――ひらひらは、相変わらず楊ぜんの近くでゆらゆらと飛び回っていた。

 

   ☆

 

 ひょっとしたら、玉鼎真人は蝶々と楊ぜんを重ねてみていたのかも知れない。楊ぜんは、崑崙に捕らえられた蝶々のようなものだ。ひらひらと、野原を舞うこともできず、帰ることすらできない。
 そういえば玉鼎真人は、たまに悲しそうな眼をすることがあった。
 きっと師匠は嫌だったのだろう。楊ぜんを崑崙に閉じ込めておくことが。師匠は、生き物を閉じ込めるのが嫌いな人だから。

 

 でも。
 くすっと楊ぜんは笑う。
「駄目なんですよね、僕。綺麗なものがあるとどうしても欲しくなるんです」
「それは誰とて同じであろう」
「でも蝶々は、捕まえたらきっと壊れちゃうじゃないですか」
 あの繊細な羽はきっと触っただけでぼろぼろになってしまう。
「壊したら、だめかのぉ」
 ぽつんとつぶやかれた台詞に楊ぜんはきょとんとする。
「だって、壊しちゃったら捕まえた意味、ないじゃないですか」
「そうか、それもそうだのぉ」
 納得してるのかしてないのか、いまいちわからないような顔して太公望はつぶやいた。
 蝶々はひらひらと部屋の中を舞う。そして、窓から外に逃げていく。
 あ、いってしまう。ひらひら。
 ぐいっと太公望が手を握っってきたものだから、楊ぜんはちょっと赤くなる。
 やだ。仕事中。
「師叔?」
 だけど、慌ててる楊ぜんをよそに太公望はにぃっと笑った。
「追おう、楊ぜん」
「え?」
 意味のつかめない楊ぜん。
「だから、ひらひら」
 言うが早いか、お行儀悪くそのまま窓から飛び降りた。
「ちょっと師叔」
 楊ぜんは困って窓の外を覗き見る。と、なぜか手を広げてたってる太公望。
「速く」
「仕事中ですよっ!」
「いいから」
「それに、支えてもらえなくったって、僕はこれくらいの高さから飛び降りるのくらい平気です。僕を誰だと思ってるんですか」
「わかったから、速くせい!行ってしまう」
 もぉ、しょうがないな、とかなんとかつぶやきながら楊ぜんは窓から飛び降りる。着地は上々。
「師叔。本気で蝶々なんか追っかけるんですか」
「おぬしが欲しいといったのではないか」
「だけど生き物を捕まえるのは……」
「だから、追いかければよかろう。どこまでも追いかけていけば捕らえたのと同じではないか」
 楊ぜんはくすっと笑う。
「めちゃくちゃな理屈ですね」
「ほら、楊ぜん。行ってしまうぞ」
 そういって太公望は楊ぜんを促す。ぐいっと手を引っ張って。
 二人でひらひらを追っかける。モンシロチョウはゆらゆら飛んで、城の庭木を飛び回る。だからこれはちょっとした花めぐりになった。
 バラにボタンに椿をめぐって、ガーベラ、パンジー、カスミソウ。ついでにタンポポにひらひらとまった。
 ゆらゆら飛んで庭の奥へ。そこで藤棚に突き当たる。紫色の房がゆれる。藤の花は満開で。
「ほおう、これは」
 太公望は感嘆の声を上げる。
「綺麗ですね」
 楊ぜんも藤の花を見上げた。
「気づかなかったのぉ。こんなに近くにあったのに、藤の花があることすら知らなかった」
「仕事、忙しかったですから」
「もったいないのぉ。こうやって忙しさにかまけて、季節の一番きれいなところを見過ごしてしまうのは」
 太公望はくやしそうだ。
 見上げると藤の花は風にそよがれふんわりゆれる。藤棚の下、楊ぜんを引き寄せて。小さな花びらがはらはら舞った。楊ぜんの上にも花びらが落ちる。
 それを払おうとした楊ぜんの手をやんわりと止めて。
「良いではないか」
「だって師叔」
「おぬしの瞳の色だ。よく似合っておる」
 太公望がそんなことを言うものだから、楊ぜんはほんのり赤くなった。その様子が可愛くて、太公望はもっと何か言ってやりたくなる。
「わしもいろいろ季節を見てきたが、おぬしと見るのがどういうわけか一番綺麗だ」
「師叔。良くそんなこと、恥ずかしげもなく言えますね」
 楊ぜんはなんだか恥ずかしくなって、可愛げのないことを言う。
「本当のことなのだから仕方あるまい」
 さらっと太公望は言ってのけた。そのまま伸び上がって、楊ぜんの頬に口付ける。
 あ。
 顔に血が上るのがわかる。
 なんだか、どきどきする。
 どうしたらいいんだろう。
 急に握ったままの手のひらが意識されてしまって。
 どうしよう。

 

 目の端に、真っ白な蝶々。

 あ。

 

「師叔。蝶々、行っちゃいますよ」
 楊ぜんはそういって、太公望の手のひらをすり抜けようとして。だけれど、太公望はその手を逆にぎゅっと握り締めた。
「師叔?」
 やだ。どきどきする。きっと握った手のひらから、このどきどきが伝わってしまう。
「蝶々が……」
 言おうとして、台詞が凍る。なんだか、やけに真剣な太公望の目と出会ってしまったから。
「楊ぜん。綺麗なものを捕まえておくのは、そんなに悪いことか」
「え?」
 とっさに何の話かわからなかった楊ぜんは、首をかしげる。
「生き物を閉じ込めておくのは、嫌いだと思っておったのだ」
「師叔?」
「だけど、今たまらなく」
 ぎゅうっ。抱きしめられて楊ぜんはわけがわからなくなる。
「おぬしを閉じ込めておきたいと思った」
「師叔、あの……」
 はらはらと、紫色の花びらが舞う。二人の上に花びらが降る。
「おぬしを、閉じ込めてしまいたい。鍵をかけて、わししか見えないように。わしにしか見えないように」
 白い蝶々はいつのまにか、消えてしまった。はじめから、存在しなかったみたいに。
 どこへいってしまったのだろう。ひらひら。
「たとえ、壊してしまっても」
 どきん。心臓が、大きく、はねた。
 声を出すのが、ひどく難しいことのような気がして、だけれど楊ぜんは口を開く。
「僕は」
 口の中が乾いてる。上手く声が出せない。
「壊れたりしません」
 強く風が吹く。紫の花びらが散る。さながら、吹雪のように。
「それに。師叔が僕を閉じ込めたりしなくったって、僕はずっと師叔のそばにいますよ。どこまでも追いかけていけば捕らえたのと同じなのでしょう」
「そうかのぉ」
「あなたがいったんですよ。それに、僕は蝶々なんかじゃありませんからね」
「おぬしは蝶々だよ。わしの」
 楊ぜんは再び赤くなる。そして照れ隠しに可愛げのないことをいってしまうのもいつものパターンで。
「言っておきますけどね。多分僕より師叔のほうがか弱いですよ」
「ほおぅ、それは頼もしいのぉ。では今度試してみるか」
 にんまりと太公望は笑った。
「ええ、いつでも受けてたちます」
 今にも三叉刀でも持ち出しそうな勢いで楊ぜんはそんなことを言う。
「そー言う意味ではなかったのだがのぉ」
「なんですか、それ。じゃあどういう意味なんです?」
「おぬしにはまだわからぬ」
「どうしてあなたまで僕のこと子ども扱いするんですか」
 ちょっと怒った楊ぜんは可愛い。そんなこといったらきっとすごく怒られて、哮天犬でもけしかけられるだろうけれど、だからついつい怒らせて見たくなってしまう。
 太公望はにまぁっと笑って、楊ぜんをぎゅうっと抱き寄せる。楊ぜんの顔が近くに来るまで、半ば無理やりに。
「ちょっと、師叔……」
 体制がきつくって楊ぜんは声を上げる。もちろんそんなこときいてやらない。
 そしてそのまま口付ける。ぎゅうっと息継ぎもできないくらいに。酸欠で苦しくなるまで、離してなんてやらなかった。
「すぅす……」
 涙目になった楊ぜんは、ぺたんとその場に座り込んむ。
「つまりそういう意味だよ」
 にょほほほほと笑ったセクハラな上司兼コイビトめがけて、楊ぜんは悔し紛れに哮天犬をけしかけた。
 ぺちゃんと太公望はつぶれる。
 だけどいいかげん、哮天犬の攻撃にも免疫のできた太公望はたいした怪我もせずに起き上がる。そして楊ぜんの隣に座り込む。
 そして変にまじめな顔をした。
 そういう顔をされると、楊ぜんは困ってしまう。
「楊ぜん、莫迦なことを言った。忘れてくれぬか」
「え?」
 きょとん、と楊ぜんは顔を上げる。
 太公望はやんわりと笑う。
「やはり、蝶々は自由に舞っているのが一番綺麗だからのぉ」
 あ。
 なんだか。
 ほんの少しだけがっかりしたような自分がいるのに楊ぜんは驚く。
 藤の花を見上げて、太公望の顔を見ずに楊ぜんは口を開く。
「閉じ込めても、いいですよ」
「楊ぜん?」
 くすっと笑って、楊ぜんはうつむく。足を抱え込むように座りなおす。
 襟足から白い首筋がちらりと覗けた。
「師叔がそうしたいのなら、閉じ込めてもいいです」
 音もなく藤の花は散ってゆく。

「そうだのぉ。おぬしがわしから離れようとしたら、いっそ閉じ込めてしまおうか」

 その声は不思議とあまく響いた。

 これ以上ないくらい、あまく。

 あまく――。

 くすくすと楊ぜんは笑う。
 すくっと立ち上がる。
 そして。
「ああっ」
 そして素っ頓狂な声を上げた。
「師叔。蝶々、いなくなっちゃった」
「良いよ」
「え?」

「とびっきり綺麗なのがここにおるから」

 楊ぜんは少し目を見開いて、それからくすくす笑った。
 あたりは一面の紫。青い髪がまるで蝶の羽のようにふわふわゆれた。

end.

novel.