やまい
「だからさ、代わりに下におりてくれない?」
雲中子はそういうと、試験管の中のどろりとした液体を三角フラスコの中に落とした。太乙真人は実験室の中にこぼれている奇妙な液体やら、染みやらになるべく触らないようにしながら、いい返す。
「君がよばれたんなら君が行けばいいじゃないか」
雲中子はちょっと考え込んだ。
「今手を離すのはちょっとねぇ……。代わりに見ててくれるんならいいけど」
そういってちらりと奥へと通じるドアを見る。
「何を?」
太乙真人はなにやら嫌な予感にとらわれながらドアからできるだけ離れようと、足の踏み場のない床の上に足場を探した。
この部屋の主はなれたもので、ひょいひょいと障害物を避けながらドアに近づきそれを開ける。
奥の部屋には不定形のぶよぶよした物体がまるで生き物のようにうごめいていた。気のせいか目があるような気がする。光ってるような気がする。こちらに動いてくるような気がする。
雲中子は振り返ってにやあっと笑うと、親友に今度の実験の説明をしようと振り返り、そこに親友がいないことを発見した。
「太乙どうした?」
「わ、私が下の様子をみてくるから、雲中子はゆっくり実験しているといいよ!」
遠くで声が聞こえた。高いところが大嫌いな太乙真人はゲテモノも大嫌いだったりする。あんなものと一緒の部屋に閉じ込められた日には、体中に蕁麻疹でもできてしまうだろう。
「ったく。あの変人!」
人のことを言えないような台詞を呟いて、太乙真人は黄巾力士に乗り込んだ。
「道士がインフルエンザとはねぇ〜。太公望も楊ぜんも鍛え方、足りないんじゃないの?」
☆
「それで、その雲中子とかいう奴を呼べば大丈夫なんだな」
姫発は山済みになった書類の山をできるだけ見ないようにしながら呟いた。
「た、たぶん。雲中子様はあんまりそういうこと気にする人じゃない気がするさ。一番考え方人間離れしてるってゆーか。それに医学系得意だし」
天化は自分に言い訳するように、そうこたえる。
「そういう問題なの?あの状況はちょっと、普通の理性持った人間なら無理よ。妖怪でも引くかも」
蝉玉は疑わしそうに天化を見る。
「だって、他にどうするさ。蝉玉はあの中に入れるんかい?」
「嫌よ」
蝉玉はきっぱりと言い切った。
「じゃあ、仕方ないさ」
「だよなぁ。旦ですら無理だったんだから」
「周公旦様も無理だったさ?」
「血管ぶちきれそうな顔して出てきたぜ」
そして、天化と姫発と蝉玉は同時にため息をついた。
「やっぱり、その雲中子とかいう奴を生贄にするしかないか」
「そうですね」
遠くから声が聞こえた。
「周の未来のためには止む終えません」
「おい、旦。おまえどこから入ってきたんだよ!」
「さっきからいましたよ」
「じゃ、おまえも共犯な」
そして、今度は周公旦を含めた四人のため息が部屋の中に積もった。
☆
「あれぇ……」
久々に地上に降り立った太乙真人は呟いた。
「何だ。みんな元気そうじゃないか」
兵士達は訓練をしている。女官はいそいそと働いている。雲中子は周でインフルエンザが大流行して誰一人起き上がれないとかそんなことを聞いてきたのだが。
「どうなってるんだ。一体」
狐につままれたような思いでかって知ったる城の中を歩き、執務室の扉を開けると見慣れた面々が集まっていた。天化に蝉玉に武王と、周公旦。
「あれぇー。太乙様何しに来たさ?」
一番初めに気がついた天化が声をあげる。
「何をって。失礼だね。皆が大変だって言うから雲中子の代わりに着たのに」
「あ……雲中子様の代わりさね……」
天化が気まずそうに呟いた。
「私じゃ不満かい?インフルエンザだろ。あれは確かに難しいけど、サンプルがあれば薬くらい作れるさ」
「いや、そういうんじゃなくって」
姫発は引きつった笑を浮かべた。
「あんた、心臓強いほう?」
蝉玉は真面目な顔でわけのわからないことを言う。
こほん。と周公旦が咳払いした。
「とにかく患者のところに案内しましょう。ええと、その。……見ればわかります」
一同の暗い雰囲気に流されて太乙真人は少しばかり焦る。
これはひょっとしたら、普通の病気ではないのかもしれない。インフルエンザというのは、実は嘘で、全くの新しい病気か、それとも奇病の類なのかもしれない。そうだとすれば、最初にあった天化の気まずそうな反応も納得できるのだ。さすがに、そういった知識は雲中子のほうが強いだろう。
そして、この雰囲気から察するに、病気は重い物だ。もしかしたら、身体の一部が腐っていったり顔が著しく崩れたりするような。そんな病気も確かに存在する。見ればわかりますというのは、そういう意味だろうし、心臓のことを聞かれたということは、相当酷いことを覚悟しておいたほうがいい。
「それで、患者はどんな具合なの?インフルエンザじゃないんだろう」
だとしたら、必要なのは予備知識だ。
「そう。ですね。問題はインフルエンザではありません」
「患者の数は?」
「二人ですよ残っているのは。太公望と楊ぜん殿」
「二人だけ?」
「ええ」
周公旦はそっけないが。握り締めたこぶしがわずかに震えているのを太乙真人は見て取った。それだけ多くの命が失われたということか。
まして患者は太公望と楊ぜん。どちらも子供の頃から良く知った人物である。
「よりによってあの二人か。大変だね。周も」
「全くです」
そういっている間に、太乙真人は太公望に与えられた部屋の前までやってきた。
「では、私はこれで失礼します。くれぐれも御覚悟を」
周公旦は意味深な言葉を残して去っていった。病は移るのだろう。周公旦の行動が薄情だとは太乙真人は思わない。道士が病みつくような病気なら一般人が罹ったらひとたまりもないはずだからだ。
それにしても。
太公望と楊ぜん。酷いことだ。
そして、太乙真人は扉を開けた。
☆
ばたんっ!と音を立てて勢い良く扉を閉める。
太乙真人はぐるぐる頭をふって、網膜に焼きついた風景を何とか振り落とそうとした。
今の。今のは、一体……。
頭の中が混乱する。それから一つため息をつく。
嘘だ。こんなことってあるはずがない。そうだ。今のはきっと幻覚だ!そう。そうだよ。いくらあの二人だからって。そんなのって。そんなのって。
意を決してもう一回扉を開ける。
そこにいたのは打って変わって酷く顔の崩れた太公望……ではなかった。
いや。太公望もいたのだけれど。
「何だ。太乙か。さっきからうるさいのぉ。楊ぜんが起きてしまうではないか」
立ち直るのに数秒。
「き、君たち病気で倒れてるんじゃないかったのかい」
「だから、寝ておるではないか」
「ね、寝てるって……」
確かに太公望はおとなしく寝台に横になっていた。まるで抱き枕のように楊ぜんを抱え込んで。その太公望に抱きしめられた楊ぜんは軽く身をひねる。
「あ……太乙様ぁ……」
太乙真人は落ち着くためにとりあえず一回目を瞑って深呼吸などしてみた。
「確認するけど。太公望と楊ぜんは病気で寝ているんだよね」
「インフルエンザなんです」
くしゅん。そういって楊ぜんはくしゃみをした。ぎゅうっと太公望は楊ぜんを抱きしめて、毛布を楊ぜんの上にかぶせてやる。
「師叔がどうしても薬飲みたくないって駄々こねるから。無理やり飲ませたら僕が移っちゃったんです」
毛布の下からくぐもった声が聞こえる。
「なるほど、それでただのインフルエンザに太公望のみならず楊ぜんまで罹ってるんだ」
無理やりってことは、やっぱり口移しなんだろぉなぁと太乙真人は面白くなく考えた。残ったのが二人というのは、生き残ったのが、ではなく未だ治っていないのがという意味だったか。確かにこの状態の二人を治療するにはある意味、相当の覚悟が要るだろう。
「だからってどうして、二人一緒に寝てるのさ」
「だって、師叔のことが心配で」
「おぬしが、淋しいからここにいるといったのだろうが」
「あん。師叔の莫迦。言わないでくださいよぉ」
楊ぜんは熱があるせいか、しゃべり方がとろんとしている。太公望の袖をつかんだ指先にも力が入っていない。
太乙真人ははぁっとため息をつく。とにかくこの二人を引き離さないと面白くない、基、治療の仕様がない。
「わかったよ。楊ぜんが淋しいのなら私がついているから。楊ぜんもたまには玉鼎のこととか聞きたいだろう。私はこれでも仙人だからインフルエンザなんか移らないよ」
「ほんとぉですか?」
楊ぜんはにっこり微笑む。「玉鼎」の餌は楊ぜんにはよく効くのだ。
「駄目だ」
ぎゅうっと太公望は楊ぜんを抱きしめた。子供みたいに太乙真人をにらみつける。太乙真人としては面白くない。
「太公望は淋しいなら道徳でも呼ぼうか?」
が、太乙真人言葉を完全に無視して太公望は楊ぜんの髪に口付けた。
「楊ぜん。わしを置いていってしまうのか?」
「師叔ぅ」
ぎゅうっと楊ぜんは太公望に抱きつく。太公望はぐいっと楊ぜんを抱き寄せた。
「ごめんなさい。そんなこと絶対にしません」
軽い眩暈を覚えながらも太乙真人は何とか持ちこたえた。が。
「太乙様。師叔は僕が飲ませてあげないとちゃんと薬飲んでくれないから僕がついてなきゃ駄目なんです」
「あ……そう……」
嬉しそうに微笑んだ楊ぜんに太乙真人はひきつった笑みを浮かべて部屋を飛び出した。
「そぉだのぉ。苦い薬はちゃんとおぬしが口移しで飲ませてくれないと嫌だのぉ」
追い討ちを掛けるように太公望の声が響いた。
☆
「9分26秒。きゃぁー。あと34秒で私の勝ちだったのにっ!」
蝉玉はストップウォッチを手にもって叫んだ。
「甘いなぁ。十分以内だからな俺の勝ちだ」
すぱぁんっ!とそう言った姫発の頭を周公旦がハリセンで叩く。
「ってーなっ!なにすんだよ」
「小兄様。仮にも西岐城内で賭博はおやめなさい」
「ちょっとあんた。十二仙なんでしょ!もうちょっと根性見せなさいよ」
言われた太乙真人は放心したように壁にもたれかかっていた。
「よすさ蝉玉。あの部屋に十分いられたんだから太乙様にしてはがんばったさ」
えらそうに天化は言った。
「何よ。9分26秒よ。34秒くらいがんばれるでしょ」
「じゃあ、残りは蝉玉が行ってくればいいさ」
「うっ……。と、とりあえず。それはもういいわ」
あっさりと蝉玉はあきらめた。
「十二仙でも駄目でしたか……」
はぁっと周公旦はため息をつく。
「旦。仕事たまってるけど、どーすんだよ」
「仙道などに頼っていても始まりません。いい機会です。私達ですべて片付けましょう」
周公旦は握りこぶしを固めた。相当頭に来ているらしい。
「おいおいマジかよ……」
うんざりしたように姫発はいい、それでも自分から立ち上がる。
「あれ、王サマ仕事するさ?」
「仕方ねーだろーが。いつまでもあいつらに任しとくわけにもいかねーしな。周は人間が作る国だからよ」
天化はにかっと笑う。
「じゃ、蝉玉。俺っちたちも修行するさ」
「いいわよ。つきあったげる。今日こそあんたに分裂魔球を当ててやるわ!」
「そんなのあたんねーさ」
そう言って天化はひょいっと庭に飛び降りる。
「何よ。むかつくわね。待ちなさいよ」
蝉玉が後を追い、最後に、未だ太公望と楊ぜんの毒気に当てられて立ち直りきれていない太乙真人が残された。
☆
くすくすくす。部屋の中に笑い声が満ちる。
「駄目ですよ。師叔。まだ外に誰かいます」
「太乙だのぉ。ちといじめすぎたか?」
「何がです?」
楊ぜんはきょとんとする。
「わからないなら良いよ」
楊ぜんはすねたように太公望の手を軽く叩いた。
「ねぇ師叔。いつまでやるんですか。お芝居」
「もう少し待っておれ。今、周はわしらに頼りすぎておるから」
「そう。それは僕も思ってましたけど。でもまさか騙すなんて」
「これ位したほうがよいときもある。待っておれ、そろそろ周は自力で動き出すから」
仙道に頼らず、人間だけの力で周は回り始める。そのためには今のままでは駄目なのだ。太公望はいたずらを仕掛けた子供みたいに楊ぜんにこたえる。未来を見据えるような目。太公望のそんな目が楊ぜんは好きだ。
太公望はふと話題を変える。
「それにしても楊ぜん。おぬし、太乙の話に乗ろうとしたのは本気か、芝居か?」
楊ぜんはきょとんとして太公望を見ると微笑んだ。
「師叔。妬いてる?」
「妬いてる」
くすくすと楊ぜんは笑う。
「莫迦」
「どちらなのだ」
「教えません。でも、迫真の演技だったでしょう」
ぐうぅと太公望は唸った。
「おぬしに風邪の芝居などもうさせぬ」
楊ぜんはきょとんとする。
「どうしてですか?そんなに下手でしたか、僕」
太公望は楊ぜんの髪を取りくるくると指に絡めて弄ぶ。それからその髪をぐいっと引っ張り、一緒に近くに来た楊ぜんの唇に軽く口付けた。
「おぬしの潤んだ瞳も、可愛い声も、もう誰にも教えたくないからのぉ」
「莫迦」
くすくすと笑い声が響いた。
end.
novel.
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