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09……まだ恋は始まらない



「お父様は……僕のこと……」
 楊ぜんは小さく呟き、それから泣き出しそうな顔をした。
「嫌いじゃなかった?」
「我が子を嫌いになどなれるはずがないだろう。おまえは私と口も利いてくれないからおまえのほうこそ私のことを嫌っているのだとばかり思っていた」
「だって」
 戸惑うように楊ぜんは言葉を紡ぐ。
「お父様、僕の起きているときに帰ってきてくださらないし。僕、お父様と話なんかしたことが無いから、何言っていいのかも、判らないし」
 会うと気まずくて、お互いに話し掛ける言葉も見つからず。てっきり嫌われているものだとばかり思い込んでいた。近くにいて嫌われるのが怖いから、ずっとずっと、遠い人だった。
「帰っておいで、楊ぜん」
 楊ぜんはちらりと太公望のほうを窺い、太公望は一つ頷いて見せた。それから楊ぜんは真っ直ぐに自分の父親を見詰め、ぎこちなくはにかむように微笑んだ。
「はい」
 太公望は二人の様子をうかがう。
「わしはお邪魔虫だから、帰るかのぉ」
 ほんの少し淋しいような気持ちで太公望は歩き出す。その背中に、楊ぜんが走り寄って囁いた。
「太公望先生。あのね、少しだけ、格好よかった」
 少しだけ。少しだけ――。
 それでも、なんだか緩んでしまう頬を引き締めるように太公望は首を振る。帰さなければ楊ぜんとずっと一緒にいられたかもしれないのに、莫迦みたいだと、心の中で自分を嘲笑ったりして、でも、少しだけ、それもいいかもしれないと考えた。
 そう。少しだけ。
 そして、太公望は歩き出す。



      ☆



「それで、帰しちまったのかよ」
 がりがりと爪を齧りながら王天君は言った。
「ばっかじゃねぇの」
 思ったとおりの反応に太公望は苦笑した。
「誤解が解けてよかったではないか」
「善人ぶるんじゃねーよ、キサマ」
 それから王天君はクッションを蹴っ飛ばす。
「親なんてもんはよぉ、ろくなもんじゃねぇーんだ」
 太公望はちらりと王天君を見た。
「あの二人は、もう大丈夫であろう。駄目なら楊ぜんもわしのところにくるであろうし」
 太公望は畳の上にのの字を書く。
「太乙の方に行くんじゃねーの」
 あっさりと王天君は言った。
「のわっ。忘れておった。あの不良教師めをどうにかせねば!」
「どうにかって、あんた、明日で教育実習終わってただの大学生だろ」
 太公望は固まる。
「わすれておったー!」
「わすれんなよ、莫迦」
「お、おぬし居候の分際で、人のことを莫迦莫迦といいおってからに!」
「莫迦を莫迦って言って何が悪いんだよ、莫迦」
 太公望はじろりと王天君を睨んだ。
「ほぉ、しかしおぬし、わしが教育実習を終わったらおぬしを養ってやる義理もなくなるのぉ。今から荷物をまとめておいたほうがよいのではないか?」
「な、なんだよ。キサマ」
「まあ、家賃と光熱費を納めれば置いてやらぬこともない。しかしそれならばそれ相応の礼は尽くさねばのぉ。ほれ、頭を下げて置いてください太公望先生と言うてみい」
 にやにやと太公望は王天君を見る。
「いいのかよ、キサマ。俺が出てったら楊ぜんの様子もわからなくなるんだぜ。学校で太乙に手出されてもキサマにゃ手がとどかねぇ」
 太公望は憮然として王天君を見た。
「おぬし、わしの間諜をやるというのか」
「交換条件」
 太公望は少し考える。確かに実習が終わってしまえば太公望はただの大学生だ。楊ぜんの高校に顔を出す機会など滅多になくなるだろう。
「家賃は払うのだぞ」
「判った」
 太公望は一つため息をついた。
「何故わしがこんな厄介ごとを背負い込まねばならぬのだ」
 しかし、王天君がここにいれば楊ぜんが様子をみにやってくるかもしれない。太公望はちらりと王天君を見る。こうなったからには、せいぜい利用してやらねば。



      ☆



 翌日は快晴だった。
 出かける前に太公望は一つ王天君を蹴飛ばす。
「なにすんだよ、てめぇ」
「おぬし今日から謹慎がとけるのであろう、遅刻するでないよ」
「実習の癖に教師ぶるんじゃねーよ」
「教師ぶらねば、実習にならぬではないか」



      ☆



 授業の終わったあとで、太公望は花束を貰った。
「お疲れ様」
 職員室で、太乙真人が笑って出迎えた。
「へぇ、豪華だね」
「うぬ。邑姜が声をかけたらしい」
「らしいね」
「もう、教師ではないな」
「ならないのかい?教師」
「判らぬ」
 太公望は椅子に座って足をぶらぶらさせた。悲しいかな、大人用の椅子では床まで脚が届かないのである。
「で、今はただの太公望としてだ、おぬしに言いたいことがある」
 ぐいっと太公望は太乙真人に詰め寄った。
「何?」
「楊ぜんはおぬしには渡さぬ。宣戦布告だ」
「ふうん」
 太乙真人は腕組みして太公望を見た。
「そういえば、あの親子のよりを戻したんだって」
「まあ、のぉ」
「で、楊ぜんは家に帰ったんだね。君と楊ぜんの接点はなくなってしまったんじゃないのかな?」
「わしのおらぬ間には王天君が見張っておる」
 太乙真人はゆっくりと瞬きをした。
「君たちいつから仲良くなったんだい?」
「仲良くなどなっておらぬ。一時的に手を組んだまでだ」
「それはそれは……。そうすると王天君は楊ぜんを見張りに――あるいは私を見張りにこれからずっと、学校にこなくちゃいけないわけか……。君は、実にその……よくやってくれるね」
「結果的にはそうなるのぉ」
 のんびりと太公望が言った。
「結果的に、ね」
「まぁ、そういうことだ。いずれ楊ぜんはわしが頂く」
「ふうん」
 じろじろと太乙真人は太公望を見た。
「な、なんだ」
「頑張ってね」
「むかつく言いかただのぉ……。上から見下ろしてるような言いかたするでない」
「仕方が無いじゃないか。私のほうが背が高いんだから」
「背……。ほぉ、そうかい。それはよかったのぉ。だがな、人間背ではないぞ!絶対に背ではないのだ!」
 ぎゃあぎゃあと太公望はわめいた。
「な、なに?コンプレックスだったのかい。それ」
「だったら悪いか!」
「悪くは無いけど……」
「どうせ、どうせ、わしは背が低いのだっ」
 いじけつづける太公望に太乙真人はいささかあきれてため息をついた。

「失礼します」

 扉が開いた。
「あ、楊ぜん」
 とたん。太公望はいじけるのを止めて楊ぜんの方に振り向く。
「あ、いらした。太公望先生」
 楊ぜんはにっこり微笑んだ。
「一緒に帰ろうと思って。待っててもいいですか」
「あ、判った」
 太公望は一拍送れて返事をし、それから太乙真人ににんまりと笑った。
「一歩リードだのぉ」
「よかったね」
 あきれた太乙真人はそれだけ言って机に向かう。
「今、荷物まとめて、それから……」
 太公望はわたわたと支度を始める。
 太乙真人は顔を上げて太公望を見た。
「実習の打ち上げやるって言ってたけど、じゃ、太公望先生は用事があって帰ったってことにしておいてもいい?」
 太公望はきょとんとして太乙真人を振り返り、それからにっこり笑った。
「かたじけない」
「こういうの、敵に塩を送るって言うんだろうね。きっと」
「後悔するでないぞ」
「しないよ。どうせすぐ振られるから」
 あっさりと太乙真人は言う。
「お、おぬし……」
 太公望はわなわなと腕を振るわせた。
「先生ー。どうしたんですかー!」
 軽やかな楊ぜんの声に、太公望は我に返る。
「すぐ行くから待っておれ!」
 それからちらりと太乙真人を見た。
「絶対後悔させてやるからなっ」
「せいぜいお幸せに。早く行かないと楊ぜん帰っちゃうよ」
 太公望はじろりと太乙真人を睨んだあと満面の笑みで楊ぜんに振り返る。
「済まぬ。今行く」
 そして、職員室を後にした。



      ☆



「先生」
 にっこり笑って楊ぜんは言う。
「もう先生では無いよ」
 花束を抱えて太公望は答える。
「ただの大学生?」
「そうだのぉ」
 楊ぜんは足元を見つめる。
「先生、大学4年?」
「そうだが」
「来年、卒業しちゃうんですよね」
「まぁのぉ」
「あの」
 楊ぜんはちょっと口篭もってから言った。
「大学院、行く気ありませんか?」
 太公望は立ち止まる。
「大学院?」
「はい」
 真面目な顔で楊ぜんは頷いた。
「学部とキャンパス同じでしょう」
「そうだが」
「僕、先生いる大学、受けようかと思って」
「わしの?」
「はい」
 太公望は少し考える。
「それはわしと……」
「それだけじゃないんですけど。あの、でも。先生もいらしたほうが、僕嬉しいかなって」
 太公望は苦笑した。
「おぬしは随分とその……唐突だのぉ」
「先生、昨日格好よかったから」
「少し?」
 太公望はそう言って人差し指と親指で空間をつかむまねをした。
「もう少し」
「これくらい?」
 笑って、太公望は指を広げる。
「もっと?」
「はい」
 楊ぜんは笑う。
「えと、ね。先生。目、閉じて」
「ん?」
「これくらい」
 小さく、楊ぜんは太公望の額に口付けた。軽く触れてすぐに離す。
 太公望はぱちぱちと瞬きした。
「怒っ、た?」
「だあほ」
「酷い」
「ありがとう」
 楊ぜんはきょとんとする。それから、赤くなってくすっと笑った。
「先生。来年会いましょうね」
「そうだのぉ」
「そのとき先生が、まだ彼女いなくて淋しいって泣きついたら、僕またキスしてあげますよ」
「だあほ」
「本気ですよ」
 楊ぜんは怒ったように言う。
 太公望は笑った。
「キス、だけではのぉ……」
「うわあ。何考えてるんですか。不潔」
「おぬし……」
 太公望はちらりと楊ぜんを見る。
「おぬしは太乙からわしに乗り換えるのか」
「わかんない」
 あっけらかんと楊ぜんは言った。
「わかんないのか?」
「わかんないですよ」
「わしの進路を勝手に決めておいて、わかんないというのかおぬしは」
「だって、太公望先生だって、今、僕と就職とどっち選ぶかわかんないでしょう。僕だって太乙先生と太公望先生とどっち選ぶのかわからないです」
「それは同じ次元なのか」
「同じですよ」
「そうかのぉ」
 太公望は苦笑する。
「とにかく僕は、来年僕と先生がまた会えて、そのとき先生に彼女がいなくて、先生が淋しかったらキスしてあげるって約束しかできません」
「賭けみたいだのぉ」
「賭けですよ」
 楊ぜんは言った。
「では、わしも賭けるか」
「何を?」
「もし、来年おぬしと会えておぬしに彼女か彼氏がいなくて淋しかったらわしの恋人にしてやろう」
 楊ぜんはくすくすと笑った。
「いいですよ」
 それから二人、顔を見合わせてもう一度笑う。
「約束の証に」
 太公望はそう言って、貰った花束から薄紅色のガーベラの花を取り出して楊ぜんの髪にそっとさした。
「これ差して帰るんですか、僕」
「似合っておるよ」
「恥ずかしいなぁ」
「だあほ。男が花束抱えて歩くほうがずっと恥ずかしいのだぞ」
「僕も男なんですけどね」
「いらぬのならやらぬわ」
 楊ぜんは小さく首をかしげた。
「貰っておきます」

 それから二人、
 二度と会わないかもしれない相手に、さよならを言った。

end.

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