接吻



「嘘、ついてるんだ」
 ぽつんと楊ぜんは呟いた。部屋の中で一人っきり。大きな白い犬を抱きしめて。
 きゅーんと白い犬、哮天犬は楊ぜんを見上げる。楊ぜんは特に哮天犬に話し掛けたわけでもなさそうで、どこを見るともなく、ただぼぉっと大きな虚ろな瞳で闇の中を見ている。
 部屋が暗くったって別に不都合なわけじゃない。楊ぜんは普通の人間よりは夜目が利く。だから、哮天犬は楊ぜんの目が悪くなるのじゃないかと心配することはなかったのだけれど。だけれど、この虚ろなぼぉっとどこを見ているのかもわからないような瞳は、なんだかたまらなく不健康な物に思えた。
 きゅーんと哮天犬は楊ぜんに擦り寄る。楊ぜんははっとしたように、まるでそこに哮天犬がいたことに今はじめて気がついたというように哮天犬を見つめ、それからいつものようににっこりと笑った。
「どうしたの。ずっと遊んでやってなかったからすねてるのかい?」
 きゅーん。
 楊ぜんはくすくすと笑って楊ぜんを撫ぜる。
「仕方ないんだよ。哮天犬はこんなに大きいんだもの。僕が一緒のときでないとみんなびっくりしてしまうだろ、それに」
 それから楊ぜんは笑いを引っ込めて、ひどく神妙な顔で哮天犬を眺めた。
 それに哮天犬は宝貝だから、普通の人が触れると怪我をする。
「哮天犬。おまえは淋しいかい……?」
 哮天犬は困ったようにきゅーんと鳴いた。淋しいかい、そういった楊ぜんのほうがずっとずっと淋しそうに見えたから。
「哮天犬」
 そっと優しく哮天犬を撫ぜていた手の動きが遅くなりやがて、ぴたりと止まる。
「どうして、哮天犬は宝貝なんだろうね」
 楊ぜんは虚ろな目でぼんやりと闇を見つめる。小さな、ほとんど、自分自身にすら聞き取れないような声で。
「どうして僕は妖怪なんだろう」
 呟かれた声は、音にならずに闇に融けた。

 嘘をついている。
 それははじめの頃は別段重たいことではなかった。
 楊ぜんはそれまでだってずっと嘘をついて生きてきたのだから。それはいつのまにかあたりまえのことになりつつあり、もう罪悪感すら感じる余地もなかったはずだった。
 それなのに。
 本当のことを言いたい。
 自分をわかって欲しい。
 今までの嘘を許して欲しい。
 ああ、だけれど。
 そんな贅沢なことは望まない。
 ただ、あなたの側にいたい。
 あなた――。
 ――太公望師叔。
 いつからだろう。そんなことを思うようになってしまった。
 ああ、だけれどきっと。
 太公望は身近に妖怪がいることを好ましく思わないだろう。あの人は身内――いや、それだけじゃない――を妖怪に殺されていると聞いた。きっと本当のことを知ったら楊ぜんを嫌悪する。嫌いになる。あの人はきっと楊ぜんにそうと感じさせないように存分に気を使いながら、それでも楊ぜんを遠ざけようとするだろう。
 何故ってあの人は優しいから。とってもとっても優しい人だから。
 それでも。
 それなのに。
 側にいたい。
 たとえ嘘をついても、あなたの側にいたい。それが、その行為そのものがあなたを裏切ることになっても。
 だから楊ぜんは嘘をつきつづける。今を壊さないために。



     ☆



 朝。いつもと同じ一日が始まる。
 日差しは少しづつ春めいて、朝起きるのもそんなに苦じゃなくなってきた。楊ぜんはそれでも低血圧なためかともすればお布団のなかにもぐりこんでしまいそうになる身体をなんとか叩き起こして、うーんと一つ伸びをする。
 それから、枕代わりの哮天犬を袖の中にしまった。顔を洗って歯を磨いて、いつもの道服に着替える。水はまだ冷たい。おかげでしっかりと目が覚めた。
 髪を梳いて大きな姿身の前で確認。よし、問題なし。
 出かけようと戸を開いて、楊ぜんはうわっと小さく叫んだ。
「師叔。何でそんなところにいるんです!」
 そう、戸を開いたら目の前に太公望がいたのだ。
「わしが執務室に行くにはおぬしの部屋の前を通らねばならぬからここにいるのだが」
 太公望は今にも爆笑したいのを押さえ込んでいるような表情でそんなことを言う。
「あ」
 楊ぜんは口元を抑えた。
「そうですね。申し訳ありません、驚いたものだから」
 何変な期待してたんだろう。この自意識過剰。
「良いよ。朝から面白い物が見られた。天才様も寝ぼけるのだのぉ」
 太公望はからから笑いながら、先を歩いていく。
「何ですか、それ」
 楊ぜんは、怒った振りをしながら太公望の後を追う。
 三歩後ろ。あなたの後姿を見つめて。並んで歩くとなんだか赤くなってしまいそうだから。
「あ、そうだ。言い忘れておった」
 くるん。太公望は後ろを振り向く。どきん。楊ぜんの心臓が大きくはねる。
「何ですか、師叔」
 太公望はにっこりと笑った。
「おはよう、楊ぜん」
「おはようございます、師叔」
 いつもと同じ一日なんかじゃない。朝からとってもいいことがあった。



    ☆



 ほんの少し歩調をいつもより緩めて太公望は歩いていた。
 後ろから楊ぜんが歩いてくるのを感じながら。三歩の距離。並ばない距離。それは実質的な長さとしては、きわめて短い距離なのだろうけれど、でも、それは同時に1と0の徹底的な差を太公望に思い起こさせた。ときに1と0は1と100よりも遠いのである。
 決して一緒に並んでは歩かない楊ぜん。振り返ればきっとあの秀麗な顔が見えるのだろう。だけれど楊ぜんとの距離を見るのが怖くて、太公望はなかなか振り返ることができない。
 何をしているのだろう、わしは。
 崑崙に昇ったのは仙人になるためではなかった。仲間の仇を打つという、言うなれば至極不純な動機である。それだけを思って、生きてきた。
 封神計画を承った。
 準備は整った。
 駒はすべてそろった。
 それなのに。
 邪魔立てするのはほかならぬ自分自身の感情。ここまで来て、まさか自分に裏切られるとは。
 太公望は、たぶん、きっと、楊ぜんを想っている。
 好きというよりは、もう少し不純に、けれど愛と呼ぶには、もう少し臆病に。
 頭の中で二律背反を起こしている。いや2つどころではない。もっとだ。
 敵を取る。計画を実行する。感情など邪魔だ。愛などという生ぬるい感情はいらない。いっそ、鬼になってしまえばよい。
 楊ぜんが欲しい。あやつを手に入れたい。狂おしいほどの劣情。あの美しい身体を。あの儚い心を。
 嫌だ。楊ぜんを守りたい。悲しい顔をして欲しくない。戦争などに、自分の不幸などに断じて巻き込みたくはない。楊ぜんは太公望などにかかわるべきではない。
 それでも側にいて欲しい。自分に向かっていつも微笑みかけて欲しい。
 すべてがごちゃごちゃになって。混沌としている。まるで底なし沼のようだ。もがけばもがくほどに深くはまってゆく。
「師叔、なにか問題でも起こりましたか?」
 楊ぜんの気遣うような声に太公望ははっと我に返った。知らぬ間に、自分の心の中にどっぷりと沈み込んでいた。
「いや、どうしてだ」
「何か、悩んでいらっしゃるようでしたから。僕でよろしければ相談に乗りますが」
「ほぉ。天才様ともなれば後姿でそのようなことまでわかるのか」
 どきりとしたのを隠そうと、太公望は楊ぜんをからかうようにそういった。見抜かれていた?否。違う。楊ぜんはただ太公望が考え込んでいるのを当て推量しただけだろう。
「わかりますよ」
 ぽつんと、楊ぜんは呟く。
 ならばおぬし、今すぐわしから逃げよ、と太公望は念じた。強く強く。まるでそうすれば本当にその思いが楊ぜんに届くと信じ込んでいるかのように。
 楊ぜんは逃げなかった。太公望の後ろを静かに歩いていた。
 相変わらず、3歩の距離を保って。



     ☆



 執務室。
 楊ぜんが崑崙から言われたのは太公望を手伝えということだけで、それはたぶん封神計画については、という前置きが暗に込められていたはずだったのだけれど。どういうわけかここで楊ぜんは太公望の秘書のようなことをさせられてしまっている。秘書、いや。もっと補佐に近いような。
 それは勿論、趣味で一通り勉強してきたから官学のいろはを聞かれて困るようなこともないのだけれど。
 それでも欲求不満の国王陛下の相手をしなくちゃならないというのはなかなかに骨が折れる。
「武王、間違ってますよ、これ」
 何しろ三回に一回は書類の形式を間違えてくれるのだ。大体国王陛下直々にすることなんて、サインくらいの物なのに、である。ある意味特殊技術だろうと楊ぜんは考えていた。
「なぁ、楊ぜん。この花さぁ、おまえが生けたんだって?」
 姫発はそういって、白い花瓶に生けられた白い花の茎をそっとつかむ。
「ええ、そうですよ。だって執務室は殺風景でしょう」
 それは半分本当で半分嘘。緑は気持ちをリラックスさせると聞いたから。楊ぜんが太公望のためにやったことだ。
「ふぅん。アンタさぁ。いい奥さんになるよ」
「僕は男ですよ。とうとう頭に蛆でも湧きましたか」
「ひっでぇなぁ」
 そういいつつも姫発は笑う。
「太公望だってそう思うだろ」
 とくん、と楊ぜん鼓動は大きくなる。びくっと太公望は顔を上げる。
「そぉだのぉ」
 机の端に生けられた白い花を見上げて。そっとその花弁に手を伸ばした。
 楊ぜんの生けた花。あの白い手が生けた花。
「太公望、なにやってんだよ。花は食えねーぞ」
「何を言うか姫発。わしとて花を愛でることくらいあるわ」
 姫発はまた笑う。そして楊ぜんに手を伸ばす。
 止めよ。触れるでない。
「なぁ楊ぜん。ちょっとこっち来いって」
「何ですか、武王」
 姫発のほうに身を乗り出す楊ぜん。流れる髪を止めようとこめかみのあたりを抑える白い指。
 姫発は花瓶に手を伸ばし。
 そして。
 ぷちっ。姫発は花瓶の花を手折った。楊ぜんの生けた花を。
 その瞬間太公望の心の中に一瞬だけ沸き起こった黒い憎悪。それはすぐに消えたけれど。頭の芯が沸騰するような。視界が狭くなり、周囲の音が聞こえなくなるような。怒りというよりもむしろ憎しみに近いほどの感情は、その余韻を未だ残しつづけ太公望自身を戸惑わせる。
 太公望にはその手折られた白い花が楊ぜんそのものであるかのように写ったのだった。
「ああっ。せっかく生けたのに」
 不満そうなでも少しだけ笑を含んだ楊ぜんの声が遠く聞こえる。
「いいからもうちょっとこっち」
 その流れるような青い髪に伸ばされた姫発の手。そして。
 姫発の爆笑で太公望は我に返った。
「おまえ似合いすぎっ!」
 姫発が指差して笑ってるその指の先。楊ぜん?
「もぉっ。ほんっとにくだらないことしかしないんだからっ!」
 青い髪に白い花。姫発は手折った花を楊ぜんの髪に簪のように挿したらしい。
「取るなよ。似合ってんだから」
「似合わなくていいですよ」
「何でだよ。その辺の女よりずっと似合うって」
 そういってまたけらけら笑う。楊ぜんはおもいっきり不機嫌な表情で姫発を睨みつける。それから太公望のほうを向いた。
「師叔も何か言ってくださいよ」
 完全に膨れた顔で腕を組み、髪に花を挿した楊ぜんはなんだかとても愛らしかった。
 太公望はわずかに苦笑する。
「良いではないか、似合っておるよ」
「師叔」
「姫発、おぬしは遊んでないで仕事をせい」
 楊ぜんは一つため息をついて、小さく呟いた。
 師叔がそう仰るならいいですけど。
 太公望は軽く顔を上げ、それから聞こえなかったふりをして書類に目を落とした。
 楊ぜんは。
 もしかしたら。
 おそらくきっと。
 太公望のことが。
 違う。あれは幻聴だ。太公望は自分に――それとも自分の中のもう一人に?――そう言い聞かせるように、目を閉じる。
 すっぱぁんっ!と大きな音がした。
「いったいのぉ。何するのだっ!」
 頭を抑えて太公望は叫んだ。
「仕事をなさい」
 ハリセンプラス周公旦である。
「たわけっ。わしが人生最大の大ピンチやもしれぬと思い悩んでおるときに。おぬしはこのシリアスな雰囲気がよめぬのかっ!」
「あなたにそんなものあるものですか」
 マジで叫んだ太公望に周公旦はしゃあしゃあと言ってのけた。
 うぬぅ〜。と唸って太公望は未だ痛む頭を抑える。ほんの少しだけ救われたような思いを味わいながら。
 そう、わしにそんなものあるわけないのだ。
 顔を上げると楊ぜんと目が合った。その心配そうな視線から、太公望は無理矢理引き剥がすように視線をそらせた。
 そんなもの、あるわけないのだ。



    ☆



 仕事が終わって、楊ぜんは自室に戻った。
 くすっと笑って鏡を見る。右のこめかみのちょっと上あたり、髪飾りのような白い花。
 師叔が似合うって言った。
 あの人が、誉めてくれた。
 袖の中から哮天犬を出して、それから上機嫌でにっこり微笑む。
「哮天犬。今日はね。とっても、とってもいいことがあったんだよ」
 あの後。ほんの一瞬だけ目が合って。太公望はすぐに視線をそらせてしまったけれど、楊ぜんはそのどきどきする感覚をずっと引きずっていた。
「この間ね。師匠から蜂蜜酒をいただいたでしょう。あれ、差し上げたら師叔喜ぶかな?」
 そういって楊ぜんは棚の中をごそごそと探る。小さなビンを取り出して。
「部屋に行ってもいいと思う?いいよね。哮天犬。それだけだもの」
 ぎゅいっ。手のひらを握り締めて。
 妖怪だって、それくらいしても許されるしょう、師叔。それくらいならば。
 側にいたい。それだけ。それだけしか望まないから。
 あなたにこの想いを押し付けるようなことは絶対にしないから。嘘はつきとおす。つきとおしてみせるから。
 返事は返らない。
 楊ぜんは哮天犬の頭を一つ撫でる。自分自身をも元気付けるように。
「すぐ戻ってくるから。留守番頼んだよ」
 わんっ。と哮天犬はぱたぱた尻尾をふった。



    ☆



 明りもつけずに酒を飲んでいた。飲んで何も考えないで酔っ払って寝てしまいたかった。
 何も考えたくなくて酒を飲むのに、太公望は酒など飲んだところでどうせ酔えやしないのだ。
 頭の中は飽和状態で、何か考えられるとも思えなかったが、それでも何か考えてしまうのが怖くて、太公望はグラスをあおる。崑崙から持ってきた薄いガラス製のグラス。もっとずっと後の時代にならなければ、地上には存在し得ない物。
 まるで、まるで、楊ぜんのよう――
「やめいっ!」
 自分の妄想に恐れをなして太公望はグラスを力いっぱい投げつける。
 パリンと派手な音を立ててガラスはこなごなに砕け散った。
 意味をなさなくなったグラス。それでもなお輝きつづける破片。
 それが、どうしてだかとても憎らしくて、太公望は砕け散ったガラスの破片を踏みつける。
「いっ……」
 いくら靴を履いているといっても鋭いガラスは太公望の足をざっくりと傷つける。太公望はそっと足をどけて、グラスの残骸を見つめた。
 その残骸の上にぽたりと雫が落ちる。
 雫。
 ではわしはないているのか?
 楊ぜんを手に入れたら、太公望はきっとこんな風に楊ぜんを傷つけてしまうだろう。いくら太公望がそうしたくないと願ったところで、運命――嫌だ。そんなものは信じぬ――は無慈悲に楊ぜんを巻き込むだろう。
 可哀想な楊ぜん。
 いっそ嫌ってくれれば良かったのに。
 可哀想な――
 何故わしの前になど現れた。何故そっとしておいてくれぬ?
 自分はきっと、それでも楊ぜんを手に入れるのだろうと、半ば確信のように太公望は感じていた。もう戻るすべはないのだと。あがらう事のできない大きな流れは、ゆっくりとだが残酷なほど確実に動き始めたのだと。



    ☆



 そのとき、楊ぜんは太公望の自室の前で戸惑っていた。怖気づいたというよりはむしろ精神的に張り巡らされた結界のような物を感じて。
「師叔……?」
 それに、かすかに血の匂いがする。
 不吉な予感にかられ楊ぜんはそっと戸を叩いた。
「師叔。何かありましたか」

 何故だ。暗い部屋の中で太公望は考える。
 何故こんなにも御都合主義に楊ぜんが現れるのだ。まるで、わしを嘲笑っているかのようだ。ならば嘲笑っているのは誰だ。神か?運命だとでもいうのか?
 ふ ざ け る な。
 太公望はそれに抵抗するように薄く笑い、それから、なんとか普段どおりの声を絞り出すのに成功する。
「楊ぜん、グラスを割ってしまっただけだよ。済まぬが箒と塵取を借りてきてはくれぬか」

 いつもどおりの太公望の声に楊ぜんは心なし安堵する。
「わかりました。ガラスは危ないから僕が戻るまでそのままにして置いてください」
 だけど。不安は再び心を覆い尽くす。何か、何かあったのだろうか。あの小憎らしくなるくらい冷静な人が。
 どうしよう。どうしたらいい。どうしたらあの人の力になれる?
 僕が。妖怪の僕が。

 あやつめ。わしのことを子ども扱いしおって。
 楊ぜんの立ち去る気配。戻るまでにきっと数分かかるだろう。どう見ても戸に叩きつけて割れたとしか思えないガラスの破片。どう言い繕おうか。
 楊ぜんはきっと太公望のことを心配してくれるのだろう、太公望の気持ちなど知りもせずに。
 きっとそれでいいのだ。
 もう流れ始めてしまった運命――違う、これは心だ。太公望自身の心――にそれでも太公望はまだ抵抗していたかった。
 戸を開ける。
 楊ぜんが帰ってきたときに普段の自分で楊ぜんを出迎えるために。そして、床に目を落とし、太公望は凍りついたように動けなくなった。
 月明かりに反射し、ぼぉっと光る白い花。
 きっと、楊ぜんの髪から滑り落ちた花。
 すべてを浄化させ、すべてを癒そうとするかのように、その花は床に落ちてなお美しかった。
 ああ、そうか。太公望は感嘆とともにそう思う。自分のなんと傲慢だったことだろう。楊ぜんを汚すことなどきっと誰にもできやしないのに。
 太公望はそれまで糧として生きてきた己の憎しみが楊ぜんによって浄化されることが怖かったのだ。憎しみを疎いながらそれを頼りに生きていたのはほかならぬ自分だったから。
 なんて臆病で、なんてあさましい。
 太公望はそっと白い花を拾い上げる。

 月光にひかる穢れない純白の花びらに――
 ――静かにそっと口接けを落とした。



 月夜の晩、二つの運命がゆっくりと交錯する。

end.

novel.