子守唄






 街には光があふれていた。
 太公望はぼんやりと街を冷やかして歩いていく。
「あらぁ、太公望様じゃないの!」
「あらホント。太公望様ぁー!」
「ねぇ、寄っておいでよ。いい思いさせたげるからさ!」
 春を売る女達の黄色い声を聞きながら闊歩するのも一つの醍醐味、とはいえ、その黄色い声は太公望そのものというよりは彼の家の財産に対する物であると彼は考えている。
 別に女を買いたくてここにきているわけではない。これは一つの商いなのだ。太公望は櫛や簪を卸す小物問屋なのである。
「だあほ。仕事だ」
 太公望はにやりと笑った。
「いいじゃないのさぁ、ねぇ」
 そうだよ。よっておいきよ。くすくすと響き渡る笑い声。
 そんな声にまぎれて、ふと、この場に似つかわしくない声が聞こえた。
 太公望は立ち止まって耳を澄ます。
「あら太公望様。とうとうその気になったのかい?」
「だぁほ、うるさい。聞こえぬではないか」
「まぁ」
 女達は鼻白む。
 一瞬だけ静まる彼女達の声。その一瞬。

 ……坊やの姉やは どこ行った……

 か細い、でも妙に響き渡る不思議な物悲しい節回し。
 これは……子守唄?

 太公望は声の聞こえる方向に歩み寄った。この場に似つかわしくない子供をあやす声。なんなのだ、これは。
「のぉ、この唄は、誰のものか」
 女達は困ったように顔を見合わせた。
「ああ、これは……楊ぜんだよ」
 歯切れ悪く一人が答え。答えた女を別の女が突っついた。だって……と女が言い訳する。
「楊ぜん?」
 何者だ。遊女の源氏名だろうか。それにしても、子守唄はおかしい。
 そのとき、店の主人が顔を出した。
「おや、若旦那。遊んでいく気になりましたか。いいのを見繕ってあげましょうね、えーと誰がいいかな」
「主人、それより楊ぜんというのは誰だ?」
 太公望が尋ねたとたん、店の主人はお化けでも出たような顔をした。太公望から目をそらそうとする。
「楊ぜんは……ああ、このところ臥せっておりまして」
 太公望は怪訝そうな顔で主人を見つめた。
「何か都合の悪いことでもあるのか。あわせて欲しい」
 そこまでするつもりはなかったのだが、口から勝手に言葉がついで出た。
「いえ、ねぇ……。あの娘はちょっと頭が……」
「いかれちまったんだよ」
 女が脇から口をはさむ。
「これ。おまえはあっちへいっていなさい」
 あははと女は笑いながら行ってしまった。
「おぬしまさか阿片をやらせておるのではあるまいな」
 壊れたような女の笑い声を聞きながら太公望は言った。
「まさか。とんでもない」
 主人はぶるぶると首を振る。
「あれは元からあんななんですよ」
「とにかく楊ぜんというのに会ってみたい」
「正気ですか?若旦那」
 主人は嫌そうな顔をする。
「そんなに見たいんだったら見せてもかまいませんけどね。気が知れねぇな」
 さ、こっちです。と主人は店の奥のほうに太公望を招きいれた。

 ……ねんねんころりよ おころりよ……

 酷く薄暗く湿った部屋だった。
 昼になっても日などあたらないだろう。
「楊ぜん」
 主人はがらりと扉を開いた。ぴたりと歌が止んだ。
 青い髪の毛が目に入った。と、言うよりも髪の毛しか目に入らなかった。
「こら。楊ぜん、顔を上げないか」
 主人の声に反応して、それはわずかにうごめく。青い髪の間から紫のぼおっとした瞳が太公望のほうを見つめた。はるか遠くを見つめるような目。ガラス球のような表情のない瞳だった。それが一つ顔を振ると青白い顔が現れる。
 幾分頬がこけてはいたが、それでもどきりとするくらい綺麗な顔だった。手に何か持っているようだ。古ぼけた破れた人形。
「おぬしそれは……」
 楊ぜんは太公望の方をむいて童女のようににこりと微笑んだ。
「坊や」
 主人はため息をつく。
「ずっとこうなんだ」
 そういって楊ぜんから無理矢理人形を取り上げようとした。
「あ、嫌!いやぁ!返して。返して!」
 必死になって楊ぜんは叫んだ。か細い腕を伸ばして泣きながら人形をとりかえそうとする。
「やめぬか。返してやれ」
 太公望は叫んだ。
 主人から人形を放られた楊ぜんはそれをぎゅうっと抱きしめると主人を避けるように狭い部屋のできる限り奥まで後ずさった。着物からはみ出した白い脛がちらりとのぞいた。
 古ぼけた人形をぎゅうっと抱きしめ、楊ぜんはわずかに震え、太公望を見つめる。太公望は引かれたように楊ぜんに歩み寄った。
「若旦那駄目ですよ。そいつは本当に病気持ちなんだ」
 太公望はじろりと主人を睨んだ。
「うつるのか」
「やればね。だから、もう商売物には……」
 太公望は半ば怒り半ばあきれて、主人を無視することにした。
 そっと白い頬に手を伸ばす。
「大丈夫。おぬしの坊やを取り上げたりはせぬよ」
 楊ぜんはにこりと微笑む。
「清吉さん。お仕事はもう終わったんですか」
 太公望はぴたりと動きを止めた。
「こら、こちらは太公望様だ」
 太公望はそっと音を封じてしまうように楊ぜんを抱きしめた。楊ぜんはされるがままに身動き一つしなかった。
「やめよ。清吉というのは?」
「さあ、松吉だったり、達吉だったり。なんだっていいんでしょうよ。いかれた頭の考えることなんか判りませんからね」
「何故、人形を離さぬのか」
 主人は話しにくそう顔をそむけた。
「子供の代わりでしょう」
「子供がおるのか?」
「いえ……男の子だったんでね。遊郭に生まれたって、ねぇ。お足がかかるだけだし」
「おぬし、まさか……取り上げて殺したのか」
「知ってたらおろさせましたよ!大体、遊女が子供産んでどうしようっていうんです?しかたないでしょう。貧しい農村じゃ良くあることなんだ」
 主人はわめいた。自分自身の罪悪感に言い訳するように。
 かッと頭が熱くなった気がした。
「繰言はもうよい!わしがこやつを引き取ることはできるか」
「ええっ。そりゃあ。もう売り物にはなりませんからね。こっちはかまわないけれど。でも医者からはもってひと月って言われてるんですよ」
 太公望は楊ぜんを見つめた。正確に言えば太公望は楊ぜんの耳をふさぐように抱いていたため、見えたのは頭のてっぺんだけだったのだが。
「ここにいるよりはマシであろう」
「そりゃあ、ここで死なれるよりは私もいいですけれどね。とんだ酔狂だよ、全く」
 最後のほうは小さくぶつぶつと呟いた。
「じゃあ、安くしときましょう。これでも売れっ子だったからね。眺めるだけでも欲しいってのもいるかもしれねぇな」
「おぬし金を取るのか!」
 太公望は叫んだ。
「こっちだって商売ですからね」
 さらりと主人は言ってのけた。
「ったく、がめついのぉ」
 太公望はごそごそと懐を探った。
 漸く自由になった楊ぜんはぼんやりと太公望を見上げた。
「清吉さん、お出かけですか?」
 太公望は微笑んだ。しばらくこの茶番に付き合ってやるのもいいかと思った。
「おぬしもだよ、楊ぜん。坊やも一緒にのぉ。ここよりはいい部屋に引っ越せるぞ」
 楊ぜんは嬉しそうににっこりと微笑んだ。そして、そっと古びた人形に頬擦りした。
「坊や、お引越しだって。よかったね」



      ☆



 小さな長屋だった。太公望はそこに部屋を借りて楊ぜんを住まわせた。二人は新婚の夫婦ということにした。それしか言わなかったのだが、さすがに狭いだけあって、楊ぜんの気がふれていることは知れ渡ってしまった。
 それでも長屋の主人が好人物だったのか、楊ぜんが子供のこと以外は普通の暮らしができることがわかったからか、または太公望がかなりの額の前金を払ったからか出て行くようには言われなかった。
 太公望は薄い布団を買ってそこに楊ぜんを寝かせた。当時布団は高級品である。いくら彼でもそれ以上の金は動かせなかった。親は多少の道楽は許しているが、遊女を囲っていると聞いたらさすがに顔色を変えるだろう。
「清吉さん。お仕事はいいんですか」
 人形を抱きかかえながら楊ぜんは太公望に話し掛ける。楊ぜんの頭の中では太公望は清吉という飾り職人ということになっているらしい。太公望は楊ぜんの夫であり人形は楊ぜんと太公望の子供だった。楊ぜんは針子をしていたという設定になっているようだ。こういう暮らしがしたかったという楊ぜんの夢なのかもしれない。
「うぬ。この間ので金が入ったからな。当分は食っていけるぞ。おぬしこそ起き上がって大丈夫なのか」
 楊ぜんはにっこり微笑む。
「今日は調子がいいんです」
 それから抱いている人形をあやすようにゆすって。
「ほおら、坊や。蝶々だよ」
 太公望にはどこにも蝶々など見えなかった。
「いずれ、ちゃんとした医者に見てもらわねばのぉ」
「お金、あるんですか」
「大丈夫だよ」
「本当?」
 信用されていないようだと太公望は苦笑した。
「滋養のつくものを食べればすぐ良くなるであろう。高麗人参でも買って来ようか」
「駄目ですよ。高いもの」
 楊ぜんはそういうと胸をくつろげた。何をする気なのだろうと思うと人形を自分の胸に押し付ける。授乳をしているつもりらしい。
 これが、本当に赤ん坊で楊ぜんがもう少し健康そうに太っていれば、きっと極楽の天女のような光景になるのだろうと太公望は考える。
 じっと見つめている太公望に気がついて楊ぜんは呟いた。
「えっち」
 太公望は思いっきり慌てまくって、その場からわたわたと逃げ出した。
 くすくすと楊ぜんの笑い声が響いた。

 食事の支度はなかなか重労働である。楊ぜんにできるとも思えなかったので、太公望は何とか米を洗って飯を炊く。水加減を間違えたのか米はべちょべちょになってしまったが、楊ぜんは返ってこの方が食べやすいと笑った。
「ごめんなさい。僕がこんなじゃなかったら」
 あるとき楊ぜんはそういって押し黙った。楊ぜんは最近は具合が悪いようであまり起きてこられなくなっていた。
「気にするでないよ。楊ぜん」
 そういって太公望はにっこりと微笑んだ。
「それよりわしにも坊やを抱かせてはくれぬか?」
 楊ぜんははっと顔を上げ、それからにっこりと微笑む。そっと人形を太公望に抱き渡した。渡された人形は楊ぜんが連れまわしているせいで真っ黒になっていた。
「新しい寝巻きでも繕ってやろうかのぉ」
 楊ぜんは人形を抱いてあやす太公望をじっと見つめている。
「わしと楊ぜんの子だからのぉ、将来街娘を騒がせる美男子になるぞ」
 楊ぜんはくすっと笑った。
「親莫迦」
「おぬしも早く元気にならねば。良庵先生のところの薬をちゃんと飲んでおるであろう」
 楊ぜんは淋しそうに微笑む。それから太公望から人形を受け取りしっかりと寝かしつけた。

 ねんねんころりよ おころりよ

 ぼうやの ねえやは どこいった

 いつかの、物悲しい調べだった。
「楊ぜん」
 楊ぜんは振り返ってにっこり微笑む。それから太公望の腕をつかんでそっと自分の胸に押し付けた。やわらかい胸に、硬い感覚。
「ここにね。しこりがあるんです。こんなに大きくなったら、もう駄目だって」
 どきりとした。
「し、しかし。楊ぜん。見たて違いではないのか?」
 楊ぜんはゆっくりと首を振る。
「でも……まだ。一緒にいられるのであろう……?……嫌だ。嫌だよ。楊ぜん」
 ――でも医者からはもって一ヶ月って言われてるんですよ
 太公望はたまらなくなって楊ぜんを抱きしめた。楊ぜんは最初に抱きしめたときよりももっと肉が落ちていた。着物越しにでも背中を撫ぜれば骨のありかがはっきりとわかるくらいに。そういえば、目ばかりが妙に大きくなったように見える。
「楊ぜん。ちゃんと食わねば。しっかり食べて、栄養をつければ」
 楊ぜんは困ったように笑った。そして、人形にしていたようにぽんぽんとあやすように太公望の背中を叩いた。
「坊やをよろしくお願いします」
「駄目だ楊ぜん」
 ぐいっと太公望は楊ぜんの肩をつかんだ。肩をつかまれて楊ぜんはゆらゆらゆれた。
「おぬしがそのようなことを言うのをわしは許さぬ!」
 楊ぜんはまた困ったように笑った。
「そんなに大声を出したら坊やが起きてしまいますよ」
 人差し指でそっと太公望の唇に触れる。
「嫌だよ。楊ぜん」
 楊ぜんは静かに太公望に口付けた。
 二人、初めて交わした口付けだった。
 太公望は強く楊ぜんを抱き寄せ、野獣のように楊ぜんの唇をむさぼった。楊ぜんは太公望にされるがままにゆらゆらとゆれた。
 唇を離すと楊ぜんは肩で荒い息をしぐったりと太公望の胸にもたれかかった。
「すまぬ。すまなかった」
 楊ぜんは太公望を見上げ力なく微笑んだ。
「嬉しい……」
 二人、抱き合ったまま夕餉の時間すら忘れ、ずっとそうしていた。夕焼けが淡く空を包んでいった。

 そのうち、楊ぜんの様態は目に見えて悪くなった。苦しそうに胸を抑える。時には吐血することさえあった。
 太公望は必死で医者のもとへ走った。言われた言葉は残酷な物だった。医者は白い薬を渡して太公望に言った。
 ――この薬を飲めばある程度痛みを抑えることができますよ。でもね、これを飲めば確実に楊ぜんの命は縮まっていくでしょう。
 楊ぜんは決して弱音をはかなかった。痛いとすら言わなかった。しかし痛みに耐えるため夜着をつかんだ指の白さや、こめかみに浮かぶ脂汗に、その痛みは想像を絶する物なのだろうと想像がつく。
 痛みは間隔を短くし、やがて楊ぜんが落ち着いているのは寝ているときのみという状態にまで陥った。もう楊ぜんは子守唄を歌うことができなくなった。
 どうしようもなくて太公望は白い薬を楊ぜんに与えた。
 楊ぜんの命と引き換えに、痛みは少しだけ治まった。
 太公望はずっと楊ぜんの側にいた。手を握って背中をさすってやった。楊ぜんの代わりに人形を背負って子守唄を歌った。楊ぜんはやんわりと太公望の手を握り返し、にっこりと微笑んだ。いつかの童女のような笑みだった。
「坊やを見せて」
 太公望は人形を楊ぜんに見えるように抱きなおした。
 楊ぜんは微笑んで力の入らない手で人形の頭をそっと撫でた。
「いい子、いい子」
「坊やのためにも、良くならねばのぉ」
 楊ぜんはまた、困ったように太公望を見上げて微笑む。
「あのね。清吉さん」
「どうしたのだ」
「一緒になれて、幸せでした」
 太公望は黙り込んで、涙を見せまいと歯を食いしばった。
「楊ぜんは、ずっと、これからも、わしと一緒であろう?坊やを残して、逝ってしまっては駄目であろう?」
 楊ぜんはじっと太公望を見つめた。いつかの夕日が二人を包んでいた。

 それから何日もしないうちに楊ぜんの様態はさらに悪くなった。もう、白い粉を与えても朦朧としている日々が続いた。太公望は楊ぜんの手をずっと握っていた。子守唄を歌いつづけた。

 ねんねんころりよ おころりよ……

「あのね、清吉さん」
 楊ぜんは太公望を見つめてそういった。楊ぜんがしゃべれることはもう、ほとんどなかった。さすがの太公望もこれが最後になるだろうと認めないわけには行かなかった。
「どうしたのだ、楊ぜん」
 楊ぜんは恥ずかしそうに笑った。
「抱きしめてください」
「つらくはないか?」
 太公望はそう聞き返し、今の楊ぜんにはどんな体勢だってつらいのだということに思い当たった。楊ぜんに負担がかからないように、そっと楊ぜんを抱きかかえる。楊ぜんはさらに小さくなってしまっていた。太公望の胸に頭を寄せて嬉しそうに微笑んだ。そこから甘えるように太公望を見上げた。
「それからね、接吻していただけますか」
 太公望は微笑んで楊ぜんの小さな頭を撫ぜた。そして、そっと楊ぜんに接吻しようとした。その唇が合わさる一瞬前。
「ありがとう。太公望様……」
 その言葉はしっかりと唇を合わせた太公望の耳に届いた。

 楊ぜんが太公望の名前を耳にする機会があったのは遊郭での一回のみ。その後はずっと太公望は長屋でも清吉で通していた。
 では楊ぜんは、すべてが夢だとわかっていたのか。清吉も坊やも、すべて自分が作り出した幻であるとわかっていたのか。
 否、違う!少なくともそれは、太公望にとって夢ではなかった。始めは確かにただの同情だったのかもしれない。ふざけた茶番に付き合ってやっているつもりだったのかもしれない。でも、いつからかそれはどうしても守りたい大切な物になった。自分が清吉でも良かった。坊やが古いボロボロの人形でもかまわなかった。ただ、楊ぜんが微笑んでくれればそれでよかった。この空間を壊したくはなかった!太公望はここにいる間、確かに清吉だったのだ。
 涙がこぼれた。その涙はそのまま楊ぜんの頬に落ちて楊ぜんの頬を滑り落ちた。

 楊ぜんが息を引き取ったのはその日の夕方だった。眠っているような綺麗な死に顔だった。茜色の夕日が空を真っ赤に染め抜いていた。
 太公望はそっと楊ぜんの乱れた髪を直してやった。それから人形の坊やを楊ぜんの隣に寝かせた。人形の坊やは何故か泣いているように見えた。太公望はずっと楊ぜんの髪を撫ぜていた。
 翌日になって長屋の主人が訪ねてきた。葬式を出さなければならないといった。皆でお足を出し合うからとも。
 太公望は楊ぜんを燃やすのは嫌だと言い張った。
 主人は困ったように、あんたがそれじゃ、お楊さんはあっちへ行かれないよといった。あんたのそんなすがたをみて、三途の川できっと泣いているよ。
 行かなくてかまわないと太公望は言った。ずっとずっとわしのそばにおればよい。
 とにかく誰かを呼んでこよう。清吉さん早まるんじゃないよと主人は言った。そして部屋を出て行った。
 主人が戻ってきたとき部屋はもぬけの殻だった。
 太公望どころか楊ぜんもいつも楊ぜんが抱きしめていた人形すらなくなっていた。
 長屋中で手を尽くして探したが、誰にも見つけることができなかった。
 楊ぜんの後を追って大川に身を投げたのだろうという人もいた。
 楊ぜんが連れて行ってしまったのだという人もいた。
 太公望の想いの強さに楊ぜんが幽鬼になって甦ったんだという人もいた。
 いろいろな憶測が飛び交って、でも結局わからなかった。
 いつのまにかすっかり夕方になっていた。淡い紫の光がやんわりと空を染め抜いていた。
 ああ、そういえば、お楊さんの瞳の色はちょうどこんな色でしたねぇと誰かが空を見上げ放心したように呟いた。

 どこか遠くで、物悲しい子守唄が聞こえていた。

end.

novel.