人形遊戯
03.
あの時楊ぜんが罵ったように、崑崙は成り上がりの国だった。
楊ぜんの頭を撫ぜながら太公望はぼんやりと考えていた。
貧困した民を集め、変わり者で知られていた太公望の祖父元始天尊が蜂起してつくられた建国50年にも満たない小さな国はほとんど、独立国として認めてもらえなかった。楊ぜんの言うように成り上がり物という蔑視も強かったが、何より崑崙は国土に恵まれていなかった。
痩せた大地に実る米はあまりにも乏しく、結局崑崙は食料の大半を輸入に頼らざるを得なかった。足元を見られた崑崙は相場の倍以上の値段で輸入をさせられることになる。まして、未だ金鰲の属国扱いの崑崙と取引する国は少ない。金鰲は大国だし、どの国も金鰲に気を使ったのであろう。
それでもまだ、元始天尊が政治を行っているうちは良かった。
元始天尊は金鰲でもそこそこ名の知れた貴族であったし、外交も上手かった。金鰲にも彼を慕う一派がいたし、それを上手く利用していた。
だが、太公望の父の代になるとそれは一変する。
父は決して悪い人間ではなかった――
太公望はぼんやりとそう思う。
だが、権力を持つべき人物でもなかった。
ありていに言ってしまえば、父はお人よしだった。頼まれれば嫌といえない。相手に強く出られると断れない。なるべきところで非情になれない。大を助けるために小を殺すことなど到底できない。
おそらく、町人ででもあれば、皆に慕われいい一生を送る事ができたのであろうに。
太公望の知る限り、もっとも皇帝の座にふさわしくない人物。それが父だった。
腰抜けの外交で、築かれたのは餓死者のリスト。崑崙は窮乏していた。
もう一刻の猶予もならない。
止める父を振り切って、太公望は挙兵した。
戦を起こせば、血が流れると父は言った。
これ以上黙っていれば、国が滅びると太公望は言った。
ちょうど、三年前のこと。
金鰲に仕掛けた奇襲は成功した。
だが、太公望も結局父の血を継いでいたのである。人を殺すときのたまらない手ごたえ。この男にも親がいるのだろう、もしかしたら彼自身が小さな子供の親であるのかもしれない。そう気づくときのやるせなさ。それでも、まだ、斬りかかってくる相手を倒しているうちは良かった。
後々の反乱を防ぐため何も知らない幼い姫の首をはねたとき、太公望の中で何かが壊れた。
目の前が赤く染まった。それは血の色だと、彼が殺した、そしてこれから殺すのであろう人間の流した血の色だと思った。歩むべき道は血に染まっていた。しかしそれは彼自身が選んだ道だった。
壊れた頭の中で、不意に浮かんだのが楊ぜんだった。
蔑視され国際社会に受け入れられない崑崙と、妾腹と侮蔑される楊ぜんが不意に重なった。昔から気にかからないことも無かった。美しいおもてで屈辱に耐える楊ぜんを漠然とあやつはわしの国と似ておるなと薄笑いしたこともあった。急に、いとおしくなった。
壊れかけた頭で、太公望は楊ぜんのみを助け、他のすべてを殺した。
だが、太公望は正気を失ったわけではなかった。彼が正気を失うのは戦の炎の中でだけ。
故に、崑崙に帰った太公望は自らが流した血に愕然とする。いっそすべて狂ってしまえたら、どんなにか楽だったことだろう。
もともと血を流すことを好まない彼にとって、自分の手が数え切れないほどの人の血で染まっているという事実。それは耐え切れるものではなかった。心の均衡を保つため、彼が選んだのが彼の中で崑崙の象徴にも金鰲の象徴にもなりえる楊ぜんだった。
憎んでいたし愛していた。まさしく狂おしいほど――
彼にとって楊ぜんは崑崙を追い詰めた金鰲であり、太公望が殺した人々であり、そして太公望自身でもあった。自分自身と思えばこそ、徹底的にいたぶってやりたかった。戦で血を流すたびに太公望は楊ぜんを攻め立てた。
やるせない思いをすべて楊ぜんにぶつけるように。
だが、それも。
すべて終わる。
崑崙は金鰲をほぼすべて征服し、他国も押さえ込んだのだから。
だから、すべて終わったのだ。
そして――
そして、気がつけば楊ぜんは人形のように反応を帰さなくなっていた。あれほど憎んだ自分自身が。あれほど愛した自分自身が。
「楊ぜん……?」
まるで、初めてのように太公望は彼を見た。夢から覚めたように。音に反応するように楊ぜんはゆっくりと太公望のほうを振り返る。穴があいているような、まさしく何も写さない瞳が形式的に彼を見る。
心が冷たくなった。身体の底から冷え切っていくのを彼は感じた。
官能的に大きく開いた襟から、太公望の暴挙のせいで蚯蚓腫れに腫れた胸が覗けた。
「楊ぜん、これは……。わしが……わしがしたのだな」
うわごとのように彼は呟いた。
楊ぜんは――眉一つ動かさなかった。
何をしても無駄だった。楊ぜんは正気に返らなかった。
そんな壊れた奴隷妾など捨ててしまえば言いと誰かが言った。思わぬ赤い炎が甦って、気がついたときには言った者を斬り捨てていた。生ぬるい血液が彼の頬にかかった。周りにいたものは一様に息を呑み、そして誰も何も言わなくなった。
太公望はずっと楊ぜんの部屋にいた。
部屋にいて話し掛け頭をなで抱きしめた。時には何故元に戻らぬのだと子供みたいに泣き喚いた。
皇子は人形に取り付かれている。そんな噂も耳に入ったがもうどうでも良かった。楊ぜんを人形にしたのは太公望なのだ。だから、楊ぜんを正気に戻すのもまた自分だと考えていた。
政治も外交もどうでも良くなった。楊ぜんさえいればそれでいい。
崑崙はもうおしまいだよ。
誰かが言った。
皇子は誰も娶らない。人形遊びに夢中になってお世継ぎを残す気も失せてしまった――
「何故、笑ってはくれぬのだ!」
太公望は急に癇癪を起こし楊ぜんを寝台の上に押し倒した。一瞬青い髪が弧を描き、彼の視界一杯に広がる。
「わしのことが嫌いならそういえばよかろう。怒るなり泣くなりすればよかろう!」
楊ぜんはぼんやりと太公望を見上げる。
「好きなことを言ってくれて良いのだ。おぬしがわしのことを許せぬというなら今この場で殺せばよい!」
不意に太公望は楊ぜんの胸に顔を押し付ける。泣き声になる。
「違う。違うのだ。楊ぜん。わしはおぬしに謝らねばならぬ。わしはきっとおぬしに責めて欲しいのだ。罵って欲しいのだ。そうされるだけのことをわしはおぬしにしてきたのだからな、だから……だから」
太公望の声は段々弱くなる。ここのところ楊ぜんの部屋に入り浸って何も食べていない。身体が弱っている。
「もう……つかれたよ……」
……嫌なのだ。血を見るのは……
そう呟いて太公望はおとなしくなる。
わずかに弱い寝息が聞こえ、楊ぜんの胸にすがりつくようにして眠ってしまったのであろうことが窺えた。頬はげっそりとこけ、涙の跡が窺える。
まるで本物の人形のように動かなかった楊ぜんは、ゆっくりと太公望を窺うように首を傾げ、わずかに口元を吊り上げた。
ゆっくりと瞬きした瞳にはわずかに知性の色が窺える。それは哀れむようでもあり、勝ち誇ったようでもあり、愛しむようでもあり様々な光を映し出す。
ゆっくりと右手を動かし母親が幼子にするように太公望の髪を撫でる。ゆっくりと、慎重に。決して彼に気取られぬように。
ぐったりと寝入っている太公望は気がつかない。身じろぎもしない。
窓の外にはちらほらと白い雪が降り積もる。
――雪が降ったら、外に連れて行ってやろうか
誰も見ていない部屋の中で、楊ぜんは艶やかに微笑んだ。
end.
novel.
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