逢瀬



……07



 頬にかかる潮風が気持ちいい。
 楊ぜんはずっと海を見ていた。
 やがて伏羲の方を振り返ってにこりと笑う。
「僕、海って初めて見ました」
「ほぉ」
「どこまでも、つながっているみたい」
「どこまでも、つながっておる」
「本当?」
「ホント」
 楊ぜんはまた海に視線を戻した。軽く髪を抑える。潮風は乱暴に楊ぜんの髪を弄っていく。伏羲はその様子を眩しそうに眺めていた。
「全部、あなたの計画通りになりましたね」
 海を眺めたまま楊ぜんは言った。
「そう……だのぉ」
 くるんと楊ぜんは振り返った。
「怖い人」
「だあほ、おぬしも同罪だ」
「そういえば、死体、出てきたんですってね」
「うぬ」
 死体というのは殺された女御や更衣たちの屍である。楊ぜんの演技に妲己が狐憑きであると信じかけていた紂王にとって、楊ぜんが指摘したまさにその場所から遺体が掘り起こされたのは決定打となった。紂王は完全に楊ぜんの力を信じきってしまったのだ。
 妲己がいくら、紂王を説得しようとしたところで、紂王は「おまえは憑かれて行動していたときの記憶が無いのだから」と慰めるだけだったという。
 さすがの妲己も困ったことだろう。楊ぜんが遺体の場所を指摘できたのはひとえに伏羲が教えたせいであろうが、それを証明するということはすべてが自分の犯行だと認めることにつながってしまう。
 今、妲己には、皇后を守るためという名目で――もっとも紂王は本当にそのつもりなのだろうが――かなりの数の護衛がついてしまっている。いくら妲己といえど、自由に身動きの取れる状態ではあるまい。
「籠の鳥になったのは、妲己でしたか」
 楊ぜんはぽつりと呟いた。
「もう、人殺しはできなかろう」
 少なくとも当分の間は、という台詞を伏羲は喉の奥に飲み込んだ。わざわざ楊ぜんを心配させることも無いだろう。それにいずれ、自分達には関係の無い話になることだ。都のものに妲己に関して注意を促してやったのだ、あとは自分達でどうとでもできるだろう。もう、伏羲の出る幕は無い。
「本当に誰も死ななかった」
「人殺しは性にあわぬ。……しかし、おぬしと出会わなかったら、やっていたやもしれぬな」
 伏羲は嗤った。
 くすっと楊ぜんは笑う。
「あなたでも、そんなこと言うことがあるんですね」
「だあほ、惚れておるといたであろう。そう何度も聞きたがるでない」
「べ、別に、聞きたがってなんかっ」
 顔を赤くして楊ぜんは少し膨れて見せた。
 伏羲は薄く笑う。
「のぉ、楊ぜん」
「え?」
「隣に人がおるというのは……心地よいものだのぉ」
 潮風が二人の服をはためかす。
 海鳴りが聞こえる。
 青い海は凪いでいる。
 楊ぜんは半歩だけ伏羲の側に寄り添った。
 しばらくの沈黙。心地のいい沈黙。
 伏羲は笑って、楊ぜんを引き寄せる。
「だあほ、来るならもっと側に来ぬか」
「だって」
 伏羲は笑う。
「わしの側に来てくれぬか」
「え、あの」
 楊ぜんはしどろもどろになってから、はいと小さく頷いた。
「のぉ、楊ぜん。おぬし玉鼎のことは良かったのか」
 しばらくの沈黙の後、伏羲は言う。なんでもなさそうな世間話でもするみたいな口調だった。
 楊ぜんはほんの少し俯く。
「ええ。僕はやっぱり、師匠には悪いことをしたんです。僕は師匠のことが好きだったけれど、それはきっと口に出しちゃいけないことで。師匠もたぶん僕の気持ちはわかってたんです。それでも」
 ただ、二人は楊ぜんがそれを口にしないことで危うい関係を保っていられた。
「僕が、自分で壊したんです。師匠は僕のことを心配してくれるけど、たぶん、これから僕を見るたびに悩むでしょう。もう、いいかげん。師匠を悩みから開放してあげようかと思って」
 思えば楊ぜんが紂王に見初められたときから、養父である玉鼎真人はずっと楊ぜんのことで悩みつづけていたようだ。そして、ひょっとして、もしかすると、玉鼎真人もまた楊ぜんのことを――。
 否、楊ぜんは軽く首を振った。それはもう、考えたくない。
 楊ぜんは顔を上げる。伏羲のほうを向き、にっこりと笑った。
「それに、僕だってもう幸せになってもいいかなって思うんです」
「わしと来たって幸せになるかどうかはわからぬ。否、むしろ不幸になる確立のほうが高かろう」
「でも、あなた。隣に人がいるのは心地いいって言ったじゃないですか。それに、伏羲。あなたの計画にこうなることも全部入っていたはずですよ」
「まぁ、わしは計算高いからのぉ。気に入った者は離さぬよ」
 そういって伏羲は明後日のほうを見る。
「しかし楊ぜん、おぬし言うことはそれだけか?」
「は?」
「こういう話の展開では、もっと他に言うことがあるであろう。わしが計算高いとか、そういうことではなくて」
「え?あ。あの」
 楊ぜんは少し考えてそれからくすっと笑った。
「もしかして、愛していますとか側にいさせてくださいとかその手の台詞をお望みでしたか」
 楊ぜんはくすくす笑う。初めて、少しだけ自分が上手に立ったような気がして。
 伏羲は横目で楊ぜんを見てから、だあほと一言呟いた。
「わかってるなら、さっさと言わぬか」
「え……」
 楊ぜんはとたんに赤くなって慌てた。
「あ、あの。言うんですか、僕が」
「まぁ、別に真意でないのなら言わずとも良いがのぉ」
「ずるい」
 楊ぜんは呟く。これで言わないわけにはいかなくなってしまった。
「え、ええっと、あの」
 ちらりちらりと楊ぜんは伏羲の方を窺う。やがて決心したように口を開いた。
「ずっと、あなたの、側にいても……いいですか」
 ぎゅうっと伏羲は楊ぜんを抱き寄せる。上目づかいに楊ぜんを見つめ、
「決まっておろう」
 そういって笑い出した。
「おぬしはからかいがいがあって可愛いのぉ」
「な……からかいがいってなんですか!」
 ほっとした楊ぜんは反動で伏羲を睨みつける。
「これ、そのような顔をするでない。美人が台無しだ」
「だって」
 言いかけた楊ぜんの台詞は伏羲のそれによってさえぎられた。
「楊ぜん、そろそろ行こう。船が出る」
「あ、はい」
 楊ぜんは伏羲をおって歩き出す。
「あの、あなたはよろしかったんですか。武吉君のこととか」
 背中を追ってくる楊ぜんに振り返らずに伏羲は言った。
「あやつは、わしがいなくとも大丈夫だ。それに、わしはもう、この国には未練が無い。おぬしは後悔しておらぬな。引き返すなら今のうちだ」
「ひどい。側にいますって言ったでしょう」
 やがて伏羲に追いついた楊ぜんは並んで歩き始める。
 目の前に広がるのは広大な海原。そして、帆を張った船。
「船って大きいと思ってたけど、海に出るには随分と小さいですね」
「怖いか」
「いいえ」
 楊ぜんは首を振る。そして茶化すように笑った。
「妲己殿下のお命を救うための船ですから、大丈夫でしょう」
 二人は名目上、妲己から狐を落とすために楊ぜんの師を迎えに行くことになっている。勿論そんなのはでたらめで、これは二人が大陸に渡るための口実だった。宮中では二度と帰ってこない二人を待ちながら、妲己を監視しつづけることになるだろう。
 これが二人の出した最善の結論だった。
 誰も傷つけない計画の末。
「未練が無いといったら嘘になりますけれど、きっとあなたと一緒なら大丈夫だと思うんです」
 やがて、船は出港する。
 楊ぜんは二度と帰らない国に手を振った。もう二度とあえない、姫発や天化や、そして玉鼎真人。泣くまいと思っていたのに涙がこぼれた。
 伏羲はそっと楊ぜんを抱きしめる。
「違う、違うんです」
 しゃくりあげながら楊ぜんは言う。
「後悔なんかじゃない、そうじゃなくて」
「大丈夫だ、楊ぜん。別れとはつらいものだ」
 楊ぜんはこくんと頷いて、伏羲の服のすそにしがみついた。
「ねぇ、伏羲お願いがあるんです。まだ先だけれど、大陸についたら……。船から下りるときにずっと手を握っていてください。そうしたら、あなたとは離れ離れにならなくて済むような気がするから」
 軽く笑って伏羲は楊ぜんの頭を撫でた。
「莫迦だのぉ楊ぜん。わしがおぬしをひとりぼっちにするわけなかろう」
 しかしおぬしが望むというのなら、手でも何でも握っていてやろう。



 海風とともに、船はゆっくりと滑り出した。

end.

novel.