砂に埋もれた硝子の欠片
――07.
チリンと、鈴が鳴った。
楊ぜんは腰掛けていた椅子から立ち上がって、いらっしゃい、と声をかけた。
「あれ、マスターは?」
「なんだ。韋護君か。マスターは買い物だよ」
楊ぜんは再び、椅子に腰をおろす。
「ちょっと待てよ。そりゃないだろうが、楊ぜん。俺は客だぞ」
苦笑して韋護は、楊ぜんの向かいの席に腰を下ろした。ぼさぼさの髪に薄汚れたティーシャツ。洗濯してくれるような彼女はいないらしい。
「何?なんか頼むの?」
楊ぜんは手にしていた雑誌を置いて、韋護を見た。
「コーヒーくらい入れてよ」
「僕が入れたのでいいの?」
楊ぜんは立ち上がって、カウンターに入る。
「だって、マスターいないんだろ」
「うん。買い物。もうすぐ帰ってくるよ」
「そりゃ残念」
「何で?」
楊ぜんはコーヒー豆を挽いていた手を止めてきょとんとした。
「せっかく二人っきりだからさ」
「何?いやらしいこと考えてるんなら出てってよ」
「客にそういうこと言うかよ、普通。俺、そんなに信用ねーの?」
「うん」
至極真面目な顔で、楊ぜんは頷いた。
韋護は大げさに肩をすくめる。
「勉強は、はかどってる?」
めげずに韋護は楊ぜんに声をかけた。
「そこそこね。韋護君レポートは」
「うわ。やなこと聞くなー。出したよ。出しましたって」
「Cもらえるといいね」
カップに注いだコーヒーを手に楊ぜんはカウンタを抜ける。そのまま韋護の前に腰掛けた。
「何だよ、おまえ。Cってぎりぎりじゃん」
「だって、どうせ天化君の写したんだろ」
けほけほと韋護がむせこんだので楊ぜんは笑い出した。
「図星なんだ」
「おまえなー」
韋護は笑ってコーヒーに口をつけた。
「あれ、美味いじゃん」
驚いたように言う韋護に楊ぜんはにっこり笑って見せた。
「まあね」
「件の男に飲ませるために練習したとか言うんじゃないだろうな」
「そうだよ」
「やめとけよ。もう、何年も音沙汰なしなんだろ」
韋護は眉をしかめる。
「二年半。それにそういう約束なんだ」
楊ぜんは頬杖をつく。
「そいつのために大検受けて、大学行くのかよ」
「そう。僕も力になりたいからね」
それが、楊ぜんの伏羲に近づくための全力疾走だった。
「目の前にこんなにいい男がいるのに?」
まじまじと楊ぜんは韋護を見た。
「そんなの、どこにいるんだよ」
「ここ、目の前」
そう言って韋護は自分の鼻先を抑える。
「やめてよ。僕そういう冗談嫌いなんだから」
血も涙もなく、楊ぜんは言った。韋護は半ば予想していたことらしく、ため息をつく。
「まあいいや。大学生として先輩が相談に乗ってやるよ。どこの大学受けるか決めたのか?」
「うーん。情報処理やりたいって言うのはあるんだけど。大学までは。もうすぐ模試の結果が出るから、それで絞ろうかと思うんだけど」
「なんなら今度、俺の大学見学に来るか?」
「だって、韋護君経済学部じゃない」
「莫迦。マンモスだから理系もあるんだよ」
「ふーん。じゃ、行ってもいい?」
「おう。いつにする」
そのとき、またチリンと鈴が鳴って太乙真人が入ってきた。
「あ、お帰りなさい」
「どうも、マスター」
二人は話を中断して声をかける。太乙真人は買い物袋をカウンターの上に置くと、ポストからとって来たらしい夕刊やら手紙やらをちらりと見た。
「いらっしゃい。韋護君。楊ぜん、模試の結果届いてる」
楊ぜんは急いでカウンターに向かい、封筒を持つと一つ深呼吸した。あけて、結果を見る。
「ああっ!」
悲鳴にも似た楊ぜんの声に韋護は立ち上がった。太乙真人も振り返る。
「何、楊ぜん。悪かったの?」
「大丈夫だ、楊ぜん。おれE判定でも大学入ってるから!」
楊ぜんは二人を交互に見て、それからすねたように言った。
「……4位だった」
「は?」
「4位だった。3位までならテレフォンカードもらえたのにっ!」
「そんなにテレフォンカードが欲しかったのかよ」
状況が飲み込めず韋護は頓珍漢なことを尋ねた。
「違うよ。そうじゃないけど、こういうのは気持ちの問題。ああっ。悔しいっ!」
そう言って楊ぜんが韋護に見せたリストには確かに4番目に楊ぜんの名前が載っていた。リストの上を見る。全国順位。……。
韋護は固まった。
「楊ぜん、頭良かったんだ」
「上に3人もいるだよ!」
憎らしそうに楊ぜんは言った。
はぁ、とため息をついて太乙真人はぽんと楊ぜんの頭に手を置いた。
「何するんですか」
「君は時々頭いいのか莫迦なのかわからないんだよ」
結局4位という結果に楊ぜんはすねたらしく、結果を放り出して立ち上がった。何気なく夕刊を見る。
「あ」
「何?」
崑崙財閥金鰲に吸収合併。
前からワイドショーなどで騒がれていたけれど、本当になったらしい。
「ここ」
楊ぜんは新聞の崑崙の字の上を叩く。
「ここで僕、メイドしてたんです。15のときから」
「うそ」
妙ににやけた顔して韋護は楊ぜんを見た。
「ホント」
楊ぜんは小さく言う。
「心配かい?伏羲のこと」
太乙真人が言った。
楊ぜんは首を振る。
「あの人は大丈夫」
顔を上げて。
「信じてますから」
にっこり微笑んだ。左手の中指。硝子の指輪を右手で撫ぜながら。
チリンと、鈴が鳴った。
「いらっしゃい」
太乙真人が声をかける。楊ぜんは放り出した模試の結果を床から拾い上げる。振り向いて。
「いら――」
目を見開く。手を握り締めたせいで、模試の結果はぐちゃぐちゃになった。
「ちと、早かったかのぉ」
華奢な背丈に、硬い黒髪。大きな瞳。
「わしのほうが、待ちきれなかったよ」
くしゃっと笑った、その笑顔。
「おぬし背が伸びたのぉ。それに美人になった」
照れもせずに彼は言う。
「迎えに来たよ、楊ぜん」
楊ぜんは何もいえなくて、いつのまにか涙がこぼれた。
ふと真面目な顔になって伏羲は言う。
「おぬしは、待っておってくれたか。わしが間に合わなかったのなら、今この場で言ってくれ」
楊ぜんは首を振る。
「……ご主人様」
何とかそれだけ言って、伏羲のもとへ走り寄った。
ぎゅうっと、伏羲は楊ぜんを抱きしめてくれた。
いつかの暖かい抱擁。ご主人様の匂い。
子供みたいに泣きじゃくって、楊ぜんは伏羲にしがみついた。
蚊帳の外では韋護が太乙真人を突っついていた。
「マスター。誰だよあれ」
ちらりと太乙真人は韋護を見る。
「白馬の王子様」
「はあ?」
「ここに残っても惨めなら、かえっていいよ」
「嫌だね。どんな奴か見極めてやる」
「じゃ、教えてあげるけど、もと崑崙のご子息で、海外にまで名を馳せる天才プログラマだよ」
☆
漸く落ち着いた楊ぜんと伏羲は、喫茶店の小さなテーブルに向かい合って座っていた。
「そうか、楊ぜんは大学に行くのか」
おかれたコーヒーに砂糖とミルクを大量に入れて伏羲は笑った。
「はい。大検とったし、バイトしてお金ためて。どうしても足りない分はマスターが貸してくれるって、ことになって。僕、生まれはどうしようもないですけど、自分に価値をつけることはできると思ったから」
「おぬしはそのままでも、十分価値があるよ。わしはずっとそう思っておった」
楊ぜんはくすっと笑う。
「そういう、目に見えないものじゃ、納得してくれない人は多いんです」
「そうだのぉ」
伏羲はコーヒーを飲む。
「美味しいでしょう」
「うん。だが、わしはおぬしのいれたコーヒーが好きだよ」
くすぐったそうに楊ぜんは笑った。
「あの、蝉玉君はどうなりました」
「ああ、あやつ今度結婚するそうだ」
「え」
楊ぜんはきょとんとした。
「モグラみたいな顔をした男でのぉ。わしより百倍もいい男だといいおった」
不機嫌そうに話す伏羲に楊ぜんは思わず吹き出した。
「それが蝉玉君の趣味なんですよ。でも良かった、彼女幸せなんですね」
「のぉ、楊ぜん。最後の電話で言ったわしの言葉を覚えておるか?」
ふいに、伏羲は真面目な顔をする。楊ぜんはどぎまぎして赤くなった。
「忘れるわけ、ないじゃないですか」
声がかすれる。
「わしは今でもそのつもりだ」
楊ぜんは左手の硝子の指輪をじっと見つめた。
「のぉ、楊ぜん。おぬし、大学は、アメリカでも良いか?」
きょとんとして楊ぜんは伏羲を見つめる。
「崑崙と関係なく会社を興した。だが、日本ではやはり厳しいのだ。それに技術も遅れておる。向こうにはわしの腕を信用してくれるものもおる。この際アメリカに渡ろうと思うのだ」
伏羲は楊ぜんを見つめる。
「今すぐに返事をくれとは言わぬ。無理強いもせぬ。これで最後だ。さすがにわしといえど、これ以上おぬしが待っていてくれるとも思わぬし、おぬしを縛りつけようとも思わぬ」
伏羲は立ち上がって楊ぜんの肩に手を置き、軽く楊ぜんの額に口付けた。
「明日の朝、また来る。返事をくれ」
楊ぜんは戸惑ったように伏羲を見、それから太乙真人のほうを見た。
太乙真人は楊ぜんと目が会うと一つ頷く。
「君がいいようにしなさい。君がアメリカに行くことになっても、私は君を忘れない。日本に帰ったら好きなときによってくれればいい。一人でもやっていけるような店だからね」
「でも」
「看板娘がいなくなるのは痛いよ。でも満月に迷い込んだ君だから、いつか帰ってしまうのも仕方がない」
「かぐや姫か」
伏羲は笑う。
「貰っていってもいいのだな」
「その娘が、頷けばね。すぐにではないんだろ」
「来年までには」
「それまでには次のバイトくらい見つかるよ」
太乙真人はにやりと笑って韋護を見た。
「あんた。それで楊ぜん幸せにできるのかよ」
「できる」
「楊ぜん。そいつに愛想がついたら俺のところに戻って来い」
面白くなさそうに韋護は言う。
「それはないのぉ」
「あんたじゃなくて、楊ぜんに言ってんだよ」
くすっと楊ぜんは笑った。
「ご主人様。明日まで待たなくていいです」
「楊ぜん?」
楊ぜんは立っている伏羲にそっと抱きついた。
「一緒に行きます。もう、離れるの嫌なんです」
「離さぬよ。これから三年分、抱きしめてキスしてやろう」
こほんと太乙真人が一つ咳払いする。
「そういうのは外でやってね。楊ぜん、今日は暇上げるから」
たちまち二人は真っ赤になり、慌てて喫茶店を飛び出した。
それから二人は、三年分、抱きしめてキスして愛してるといって時間を埋めた。
蜂蜜色の夕日がやわらかく二人の影を隠していった。
もう二度と、離れなかった。
end.
novel.
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