アトリエ



後篇



 東京について真っ先に自分の部屋に入った。衣服の脱ぎ捨てられた散らかった部屋。綺麗に片つけておくことが好きだったのに、忙しすぎてそれも出来ない。ああ、そういえば明日も、仕事入ってたっけ……
 浴室で熱いシャワーを浴びて、バスタオルに包まってベッドに臥せって、そこで楊ぜんは漸く泣く気になった。
 来るななんて、酷いじゃないか。
 疲れてるのに、どうして冷たくするの。
 モデルなんて、どうせ若いうちだけで、人気落ちたらあっという間で。
 最近ステージに立つのが怖い。悪いことばかり考える。
 脈略なくあれこれ考えていると、なんだか自分が世界一惨めなヒトになったような気がして、楊ぜんは枕を抱きしめてぎゅうっと顔をうずめた。
 会いたかっただけなのに。
 優しくして欲しかっただけなのに。

 あのころは、こんなじゃなかったのに。

 あのころ。二人がお互いに一番中のいい友人にも内緒でこっそり付き合い始めたとき。
 そういえば、あのころも伏羲は絵を描いていた。
 美術室。真剣な表情。近づきがたい人。
 それが最初のイメージ。物静かな人だと思っていた。それなのに。
 担任が美術の先生でその日偶々日直だったから手伝わされた美術室の後片付け。くらりとする油絵の具の匂い。思わず顔をしかめた楊ぜんに伏羲は苦手かと笑った。
 楊ぜんは強がって別にそうでもないと答える。
 それならば。伏羲は言ったのだ。
「明日も来てくれるか?展覧会に出す絵のモデルが見つからなくてのぉ」
 今からで間に合うのかいと尋ねた先生に、伏羲は間に合わせるよと大人みたいな顔で笑った。
 その場では、返事を濁したくせに、翌日楊ぜんは気になって美術室に顔を出した。それだってモデルになってやろうと思っていたわけじゃないけれど――
「ああ、来てくれたのか」
 あんまり嬉しそうに笑うから。
 気がつけば毎日美術室に通っていた。自分を見つめる伏羲の真剣な目。気がつけばドキドキした。そう、それが恋の始まり。
 そういえば、あの頃はデートなんかしたことが無かった。二人のいた美術室には、そんなこと必要ないくらい濃密な空気が充満していたように思う。言葉を交わさずとも、目を合わさずとも、二人は充分満ち足りていた。
 そうすればよかったのだろうか。
 下手に言葉なんて交わさずに、あの空気あのアトリエから伏羲を感じられればそれでよかったのだろうか。伏羲の瞳を感じながら、お互いの気配を感じながら寄り添っていられれば。
 ああ、そう。あの瞳。伏羲に見つめられるあの感覚が好きで楊ぜんは本職のモデルになったのだ。
 ――だって、伏羲が有名な画家になっちゃったら、僕をモデルになんかつかってくれなくなっちゃうでしょう?

 忘れてた。そんなのすっかり。

 だって一端成功してしまえば、あとはその成功にしがみついているのに必死で、何のために成功したかったのかなんて、少しも頭をよぎらなくなってしまったから。
 いつ、そこ振り落とされるか、そればかりが怖くて。

 ああ、そう。伏羲の言った通り。確かに楊ぜんはいなくなっていた。今の楊ぜんはモデルでいるための楊ぜんに過ぎない。まるで、仕事の奴隷みたいに。
「仕事、やめようかな」
 ぽつんと呟いてみる。しばらく暮らしていけるだけの貯金はある。それで、もう少し楽な仕事を探すなり、そう、ホントに伏羲の専属モデルになってもいい。
 そこまで考えて楊ぜんははっとした。
 ――駄目。今更何を言っているんだ。断っちゃったんじゃないか、僕は。
 それに伏羲も嫌だって。
 ――違う違う。伏羲は売るのを目的に絵を描くのは嫌だって言ったんだ。ああ、伏羲はどうしてあのころのままでいられるのだろう。
 あの頃、気高いと感じた言葉は、今の楊ぜんには子供の理屈だと感じられないでもなかったけれど、それでも楊ぜんはそんな伏羲が羨ましかった。地位も名誉も全部捨てたら。あのころ。伏羲が好きだといってくれた頃の自分に戻れるような気がした。
 たまらなく自分が醜いと感じる。地位、名誉、そんなものより大切なものは確かにあった。
 幼く気高いプライドと言うもの。
 それを取り返してからなら、伏羲の胸に飛び込める?

 ああ、だけれど。
 ――だったらもう、来なくて良い
 扉は閉ざされたのだ。

 楊ぜんは枕を抱きしめて、またひとしきり泣いた。



     ☆



 絵筆を弄びつつ、伏羲はぼんやりとカンバスに向かう。白いカンバス。何もかけないでいる。
 目を閉じると青い残像が浮かんだ。
「あやつ、泣いておるかな、今ごろ」
 まさか。今の楊ぜんは伏羲の知っている楊ぜんではない。
 伏羲の絵筆を前に、モデルなんてしたことないからと、恥ずかしそうに笑った彼が好きだった。学校一の秀才だと言われていたくせに、本人もそのつもりで颯爽としていたくせに、自分にだけ時折垣間見せる臆病なところが愛しかった。
 一体あれはどういったわけなのだろう。さりげなく尋ねた言葉に、やはり楊ぜんは恥ずかしそうに笑った。
 ――あなたじゃなきゃ、駄目なんです。あなただけ特別――
 本来自分は臆病なのだと楊ぜんは言った。
 ――今の父は養父なんです。本当の父はアル中で死んじゃった――
 酔えば暴力をふるう、自分はそんな父親と同じ血をひいている。
 ――いつかばれるんじゃないかって、それだけが怖くて。それに家のこと聞かれたら困るし――
 だから、トモダチはいらない。嫌われるのなら、最初から、いないほうがいい。
 ――でも、だけどね。あなただけは特別。僕だけを、僕個人を見てくれるから――
 その言葉は、なんと甘く響いただろう。
 あなただけ特別。
 本来、友達を作るのに父親のことがそんなにも障害になるとは伏羲には思えなかった。楊ぜんの父親はどうやらかなりの借金まで残して死んだようで、親戚にはあれこれと酷いことを言われたようだが、それが高校生である学友に影響を与えるものとも思えない。
 ただ、楊ぜんは親戚の反応から過剰に臆病になってしまっているだけだろう。
 そう、だから、「特別」な伏羲が大丈夫だと、過剰になることはないと、一言いいさえすれば、楊ぜんは、伏羲だけを特別とすることもなく、彼なりに普通の高校生活をおくれたのだろう。
 しかし、伏羲は何もとりなさなかった。
 あなただけ特別。
 その響きは甘美過ぎた。
 それから、楊ぜんは伏羲に半ば依存するようになり、小鳥を鳥かごの中で愛でるように楊ぜんを愛した。閉塞的で異常で、それでも幸せだった。
 だけれど、そんな異常な状況は長くは続かない。
 小鳥はかごの中から逃げてしまった。
 楊ぜんがモデルになったから。彼は彼自身の力で認められ、もう「特別な人」の存在が必要なくなったから。楊ぜんの会話の中には段々と、伏羲以外の人間の話題が増えるようになった。
 否、それでもまだ楊ぜんにとって伏羲は特別な存在だったのだ。
 絵があったから。
 ――皆僕のこと、天才だって言うけれど、でも僕、あなたのほうがずっと天才だと思う。
 それだけが、伏羲のただ一つの砦で、しかし伏羲は画壇では認められなかった。
 そしてその瞬間、こんどこそ伏羲は「特別」の座を失ったのだ。
 伏羲はぼんやりとアトリエを見渡す。
「違う。違うんのだ、楊ぜん」
 彼はゆっくりと立ち上がり、部屋の一番奥。倉庫のような部屋。その扉を開ける。
 油絵の匂い。楊ぜんは最後までこれが苦手だったようだ。
 並んでいる絵を彼は無造作に憎憎しげに、手に取った。
 湖畔の風景、笑っている女、遊ぶ子供。
 みんなみんな、書きたかった絵ではない。こう描けば売れるだろうと、客にうべなって描いた絵。実際そのうちの数点には確かに値がついた。
「そうでもしなければ、わしの力でこんなアトリエなどもてるものか」
 楊ぜんは知らない。彼は自分の名を使わなかったから、これらの絵を出すときはいつも太公望と名乗っている。でも。
 ――この人の絵、最近出てきたけど、少しあなたに似てるんです。
 楊ぜんだけは気がついた。
 ――でも違う。覇気がないもの。やっぱりあなたの絵のほうが断然好きです。
 彼だけがそう言った。
 でも、だからこそ逆に、伏羲は楊ぜんに実はその絵が自分のものだと言い出せなくなってしまったのだ。
 伏羲は伏羲として成功しなければならない。
 しかし、伏羲の絵は依然として売れなかった。いな、売れるかもしれないと思ったものはある。楊ぜんの絵。しかしそれだけは。
「売っていない。それだけは誓って本当だ」
 伏羲は持っていた絵をまるでそれが汚らしいものであるとでも言うように無造作に放り出した。日のあたるテラスに出る。
 あの絵さえ売れば、有名になれるだろうと思った。何度も売ってしまおうかとも思った。でもどうしても嫌だった。あれは伏羲が楊ぜんの「特別」だったころの証だから。
 だから。
「あやつに言われてカッとなってしまったのだな」
 ――もう来なくていい。
 随分とひどいことを言ったものだ。
「いや、あやつにはもう慰めてくれる友達など5万とおるだろうに」
 このアトリエももう引き払ってしまおうか。
 楊ぜんに合わせるために無理をして買ったアトリエ。分不相応と言う単語がちらちらと頭をよぎる。
「結局、身分とか地位とか、一番気にしておったのはわしなのだろうな」
 楊ぜんがも出るとして認められたとたんに、居場所がなくなったような気がして。
 依存していたのも、結局は伏羲のほうだったのかもしれない。

 そうだ、高校生の頃、楊ぜんの周りには確かに人がいた。
 それが、楊ぜんにとって友達ではなかったにせよ確かに。
 ひとりぼっちだったのは、一人で筆を握っていたのは、自分のほうではないか。

 くすくすくす。
 自嘲気味に伏羲は笑い出す。
 それでは、そろそろわしもひとり立ちせねばならぬのぉ。

 いい機会だ。楊ぜんにも知らせず、知らない土地に行こう。

 伏羲は荷物をまとめ、歩き出す。



      ☆



 駅に着く頃には、西日が傾いていた。
「あーら。伏羲センセ」
 折悪しく、伏羲は買い物帰りの主婦の群れにつかまってしまう。
「ね、伏羲先生、モデルなんて使ってらっしゃるの?アタシてっきり伏羲先生のモデルさんだと」
「止めなさいよ」
「あらだって、ちゃんとしとかなきゃ、かわいそうじゃないの。伏羲先生もそんな噂たてられちゃやーよね」
「何の話であろう」
 伏羲は迷惑そうな顔を隠しもせず怪訝そうに聞く。が、主婦の軍団はそれくらいではめげなかった。
「青い髪のね、綺麗な女の子が駅で泣いてたって言うのよ。で、伏羲先生がモデルよんで、そのモデルになんかしたんじゃないかって、緑山さん家の奥さんが」
「あら、やめてよ。アタシそんなこと言ってないじゃない」
「髪の青い……楊ぜんか」
 伏羲が呟いたとたん主婦達は一瞬話を止めた。そこからまたひそひそと話し出す。
「ああ、違う。あやつはその、知人だ」
 妙な噂を立てられてはたまらないと伏羲は慌ててとりなす。
 何故楊ぜんは泣いていたのか。人前で泣くくらいなら、舌を噛み切って死んでしまったほうがマシだと言うくらいプライドの高い彼が何故?
 伏羲がもう来るなといったから?
 そういえば、何故楊ぜんはわざわざ長野まできたのだろう。いくら新幹線があるからとはいえ長野は遠い。そう、モデルの仕事を休んでまできたのだといった。
 ああ、まだ何も聞いてやっていない。
 訪ねてくるのはいつだって楊ぜんのほうだった。取り留めの無いことをしゃべって、べったり甘えて、そしてサッパリした顔で帰っていく。取り立てて、何かあるわけじゃないから、ただの気晴らしなのだと思っていた。今日だっていつもと変わるところなんか無かったのに。
 不意に、楊ぜんのことが心配になった。
 慰めてくれる友達など5万もいるかもしれない。でも、それでも楊ぜんが伏羲を選んだのだとしたら?
 伏羲はまだ特別なのか。
 否、もうそんなことどうでもいい。
 今はとにかく伏羲が楊ぜんを慰めてやりたいのだ。

 切符を握り締め改札を抜ける。
 ちょうど列車がプラットホームに滑り込んだところだった。



     ☆



 夜中にインターフォンが聞こえた気がして楊ぜんはもそりと起き上がった。
 枕もとの傾向時計を確かめるAM0:00。まともな時間じゃない。泣き続けて眠ったせいで目ははれぼったいし最悪だ。
 とんとん。
 軽いノック。
 間違いなく誰かいるらしい。仕方なく楊ぜんは立ち上がりドアの覗き穴を確認する。小さく息を呑む。
 次の瞬間楊ぜんは大急ぎでドアをあけた。
「師叔」
 伏羲が立っていた。
「夜分遅くに、済まなかったのぉ」
 照れたように伏羲は笑う。
「すぅ……」
 それ以上何もいえなくて、楊ぜんは泣き出した。
「きら……嫌われちゃったかと、くすん。嫌われちゃったと、思った……」
「わしのほうが、嫌われただろうと思っておった。酷いこと言ってごめん。楊ぜん」
 伏羲は振り払われるのを恐れるように楊ぜんの方に手を伸ばす。
「ぼ、僕がっ……ひっく。僕が、わ、わかってなかったから。か、かわって……」
「変わってないよ、楊ぜん。悪かったのはわしだ。判ってなかったのも、わしだ」
「だ、だけど、僕」
「もうしゃべらなくて良いから」
 ぎゅうっと楊ぜんは伏羲に抱きついた。
「仕事やめる。ずっと伏羲の側にいる」
「だあほ、そんなこと言ってはならぬ。今度はわしがおぬしのそばにいてやるから」
「……?」
「否、違うな。わしはずっとおぬしに、トップモデルであるおぬしに似つかわしいだけの男でおらねばならぬとずっと思っておったのだ」
 楊ぜんは勢い良く首を振る。
「……そんなの関係ない。それに逆ですよ。僕がずっとあなたとあなたの絵のfanだって、師叔知ってるじゃないですか」
「それが、判らなくなっておったのだな。おぬしがどんどん有名になるから」
「?」
「名誉とか地位とか、そんなもので自分を図って追ったのはわしのほうだよ」
「そんな……」
「軽蔑するか?だがそうなのだ。おぬしがどんどん有名になるに連れてわしの心の中には劣等感がどんどん沈殿していった」
「じゃ、やっぱり僕、仕事やめ」
 口を開いた楊ぜんの唇を、人差し指でそっと伏羲が押さえた。
「そんなに短絡的になるでないよ。それに、そんな劣等感ももうない。おぬしがわしの絵を好きだと言ってくれるのならばそれでよい。売るための絵も描く」
「だめです」
「否、おぬしに嘘をついてもしょうがないのぉ。もう描いておった」
 あっと、楊ぜんは口を押さえた。
「……太公望」
「そう、随分タッチも変えたつもりだったが、おぬしだけ、気付いたな」
 こくんと楊ぜんは頷く。
「好きなものは……どんなに形を変えていても、判るんです」
「そうか。……ああ、話がずれてしまった。昔おぬしがわしに言ったことがあったのぉ。わしだけが特別だと」
 楊ぜんはほんの少し頬を染める。
「今だって、そうですよ」
「今度は、わしが言っても良いだろうか」
「え?」
「わしにとっても、おぬしだけ特別だ。ほかのやつでは、駄目なのだ」
 楊ぜんは赤くなる。
「だから、側にいても、良いかのぉ」
 くすっ。楊ぜんは笑って。
「そんなの、当たり前じゃないですか」
 それから、楊ぜんは伏羲を部屋に通した。

 ああ、師叔が僕の部屋に来るなんて初めてですね。
 おなかがすいているなら、ご飯でも作ってあげますよ。
 ねぇ、師叔。こっちがリビング。ベランダにはベンジャミン。それから、こっちが……

 くすくすくす。くすくすくす。

 それより、のぉ、楊ぜん。
 もう一回、おぬしにモデルをやってもらっても、良いだろうか。

end.

novel.