光の庭
06.
ごろりと寝台に横になってはみたものの。楊ぜんはなかなか寝付けなかった。
窓の外で風はずっと吹き続けている。幾分弱くはなったものの、未だ冷たい風は花を散らし続けているのだろう。
伏羲は何を考えているのだろうか。
ぼんやりと楊ぜんは思う。時が流れ出したのだとしたら、ずっと、時の流れに逆らい続けてきた伏羲の肉体もまた、花々と同じように朽ちていくのだろうか。
そこまで考えて、楊ぜんは心臓を鷲づかみにされるような恐れを感じた。
では、では。伏羲は死んでしまうのか。そう遠くない未来に。
闇の中目を見開き楊ぜんは呼吸を押し殺す。明日朝起きて老衰した伏羲を見つけてしまったとしたら。
怖い。死んでしまいたいくらいに。
だけれど、だとしたら伏羲は、もっと恐ろしいに違いないのだ。
――無理矢理咲かされた花など美しいものか。
それでも、花は散るのを恐れるものではないのか。
楊ぜんはそっと寝台から身を起こした。夜の空気はひんやりと冷たい。それとも、もう冬が迫っているのだろうか。一つ身震いして楊ぜんは冷たい床に足を下ろす。
楊ぜんにあてがわれた部屋からそう遠くない距離に伏羲の部屋はあった。それでも寝巻きの上に薄いガウンしか羽織っていない身体にはたちまち鳥肌が立つ。
軽いノック。
「楊ぜんか」
「はい」
「どうしたのだ」
ドアは開かれる。伏羲がさっき分かれたときと少しも様子が変わらないことに気がついて、楊ぜんは眩暈がするほどの安堵を覚えた。
「あなたが、眠れないのではないかと思って」
「わしが、か。おぬしがではないのか」
「ええ、それもあるんですけれど」
強がっても仕方が無いから、楊ぜんは素直に認める。
「まあよい。中に入れ。そこは、冷えるであろう」
楊ぜんはこくりと頷く。
「大丈夫。何もせぬよ」
伏羲の言葉にきょとんとし、それから漸くその言葉の意味に気がついて楊ぜんは戸惑った。昼間伏羲に告げられたときにもやはり戸惑ったが、それよりも混乱は大きかった。つまり、そういうことも含めた意味で伏羲は楊ぜんを愛しているといったのだろうか。
伏羲が、どうしたのだというような顔で楊ぜんを見ている。
楊ぜんは戸惑いながらも伏羲の部屋に入った。
調度は美しく豪奢だったがやはり、薄暗く湿った感じのする部屋だった。燭台の明りにぼんやりと琥珀色の液体を満たした硝子の瓶が浮かび上がる。伏羲はそれを少しだけグラスに注ぐと楊ぜんに差し出した。
「寒かろう。身体が温まるよ」
「お酒……?」
「ああ、そうだ」
楊ぜんはグラスをかざして液体を眺めるとそれから一気に飲み干した。体の中に火が灯った気がした。ああ、なんだか頭がぐらぐらする。
「だあほ! 全部飲み干す奴があるか」
慌てて立ち上がった伏羲が滑稽で楊ぜんは小さく微笑んだ。頭がぼんやりして身体がふらふらした。
「そんなに高いお酒ですか。ごめんなさい」
「そんなことを言っておるのではないよ」
「僕お酒は初めてなのです」
「ああ、そうであろうな」
少し心配そうに伏羲は楊ぜんを睨みつける。そんな伏羲がおかしくて楊ぜんはまた笑った。
「子供は飲んではいけないものなのです」
しゃべり方がおかしくなっておまけににへらにへらしまりのない顔で笑っている楊ぜんに伏羲はため息をつく。
「ああ、そうであったな。忘れておったよ」
何がおかしいのか楊ぜんはにこにこした。
「伏羲も子供ですか」
伏羲は小さく肩をすくめる。
「大人だよ。……そのぉ、中身はのぉ」
くすくすと楊ぜんは笑った。
「嘘」
歌うように続ける。
「伏羲は子供です。身体も中身も」
「どうして?」
「だって、ここでは時間が止まっているもの」
「のぉ、楊ぜん。時間が動き出したら、どうなるのだ」
「だからぁ、大人になるんですよぉ」
楊ぜんはまたくすくす笑う。
「そんなことも判らないなんて、伏羲はお莫迦さんですねぇ」
伏羲は指先で楊ぜんのおでこを突っついた。
「もうよい。おぬしなど寝てしまえ」
不意に据わった目で楊ぜんは伏羲を睨んだ。
「寝てる間に僕に何かするの?」
「しないよ」
「いくじなし」
言うだけ言った楊ぜんはすでにうとうととまどろみ始めているようだった。
翌日は耐えがたい頭痛から始まった。楊ぜんはずきずきするこめかみを抑え、恨めしそうに伏羲を睨んだ。
「変なもの、飲ませないで下さいよ」
「おぬしが自分で飲んだのであろうが」
「酔わせて酷いことするつもりだったんだ」
機嫌の悪い楊ぜんは勝手にそう決め付けると、酷い野蛮人と呟いてめそめそした。まだアルコールが残っているらしい。
付き合ってられないと思ったのか伏羲はさっさと身支度を整える。
「何か喰うか?」
「やめて。考えただけで気持ち悪い……」
「そういえば……どうしておぬし、昨日わしの部屋にやってきたのだ?」
「あなたが泣いてたら、慰めて一緒に寝てあげようと思ったんですよ」
伏羲は天を仰いだ。
「……。泣いとけば良かったかのぉ」
「それなのに。伏羲は何でお酒なんか飲んでたんですか」
「全部忘れてしまいたいときはな。それが一番いいと思ったのだ」
「全然。良くありません」
「全然、良くなかったのぉ……」
伏羲は苦笑する。
「のぉ、楊ぜん。二日酔いは治りそうか」
「判りません」
「治ったら、また2人で洗濯物を干そう」
楊ぜんはちょっとだけ微笑んで見せた。
庭に吹く風はいっそう冷たい。
楊ぜんと伏羲は小さく身を震わせながらも、洗濯物を干す。空は青く空気は冷たく乾いている。
「小春日和って言うんですね、こういうの。夏と秋をとばして冬になるみたい」
「そういえば、外は冬なのか」
「ええ。僕が迷い込んだときは冬でした」
あれからもう随分たったような気がする。
「こんなに寒くては洗濯物が凍ってしまうのではないか」
伏羲が笑う。
「ええ、日が落ちる前に取り込まないと」
楊ぜんも微笑む。
「それから、そろそろ薪が必要ですね。伏羲様はお酒があるからいいでしょうけれど、僕はちょっと苦手です。あれ」
「ああいうものはな、一気に飲むのではなくて、味わって飲むのだ」
「オジサンみたい……」
ぽつんと呟いた楊ぜんの台詞に伏羲はすねて黙り込んでしまった。
「寒いなぁ」
仕方なく楊ぜんは一人わざとらしく呟いてみる。
「その手には乗らぬよ」
伏羲はそっけなく言う。
「え、何です?」
楊ぜんはきょとんとした。
「おぬしが寒いというから、わしがそれならわしがおぬしを暖めてやろうと言う、そうするとおぬしはまたオジサンみたいと言うのだ」
「それ、凄い被害者妄想ですよ。言いませんよ。そんな」
「どうだかのぉ」
疑い深い伏羲にたまらずくすくすと楊ぜんは笑い出した。
「あーあ。悔しいな。こういうの」
「何がだ?」
「先に笑った方が、負けって感じしません?」
「そういうものか?」
「そういうものです」
楊ぜんはしばらく微笑んでいたが、ふと真顔に返って伏羲をじっと見つめた。
「僕、あなたはもっと怖い人だと思っていた」
真顔で見つめられた伏羲は照れて少しだけ笑ってみせる。
「そうかのぉ」
「ええ、第一印象は最悪だし。凄く意地悪な人だと思った」
「実際、凄く意地悪で嫌な奴だよ。わしは」
伏羲は目をそらす。
「嘘をつくとき、人は目をそらしますよね」
「おぬしは心理学者か。わしはただあまり褒められたことでないから目をそらしただけだ。それに、おぬしにそうやって見つめられると、年甲斐もなく照れてしまうわ」
「そうでしょうか。あなたは怖いんじゃないですか。人間が」
「何を言うか」
ばかばかしいと伏羲は呟く。
「僕はあの日。ここに迷い込んだ日。人間が酷く怖かった。ここは砦なんだ。自分を守るための」
「……楊ぜん?」
「あなた、ずっと人間不信だったんですね。そう。はじめからあなたはそう言ってたんだ。人間は堕落すればとことん堕落するって。あなたは確かに幻滅してた。でも。最初に扉を閉ざしたのはあなただ」
楊ぜんは一つ大きく息をつく。
「ここは不老不死の城なんかじゃないんだ。あなたの閉ざされた心の城なんだ。あの日。僕が人が怖くて森に逃げ込んだ日。僕はあなたの心に知らずに同調していたのかもしれない。だから、僕はここに入れたんだ。違いますか」
伏羲は軽く口の端を吊り上げるようにして笑った。
それを見て楊ぜんは小さく笑う。
「あなた、気がついていたんですね」
伏羲はそっと楊ぜんに近づくと可能な限り背伸びをして楊ぜんの頭を撫でた。ぱたぱたと洗濯物のシーツがはためく。
「おぬしは意外と頭が良いのぉ」
くすっと楊ぜんは笑う。
「あなたはとても、頭がいいんですね」
伏羲はにやりと笑って彼の庭を眺めた。
「いつ気がついた」
「昨日、あなたに僕が時を動かしたといわれたときから僕はずっと考えていたんです。その時、すでにあなたは気がついていたんですね。否、もしかしたら、僕がくるよりはるか昔から、あなたは気がついていたのかもしれない。……あなたはそれだけ、頭のいい人だから」
「そう、わしはうすうす感づいておった」
最初にこの森に連れてこられたのは果たしていつのことだったであろうか。最初に足を踏み込んだとき森は暖かく伏羲を迎え入れた。すくなくとも伏羲はそう感じたのだった。
人間というものに幻滅していた伏羲にとって森は清清しく理想的な場所だった。街中で大勢の人間に関わっていた自分が莫迦らしく思えた。森はただ暖かく伏羲を迎え入れてくれた。そこに打算や策謀はなにも無かった。
やがて伏羲は人間というものの興味をすぐに失いだした。伏羲が興味を失うと使用人たちは影になった。伏羲は気にもとめなかった。伏羲にとって使用人というものはすでにその程度の存在だったのだ。
やがて季節は巡るのをやめた。
そこはもう、伏羲にとって都合のいい空間でしかなかった。否、庭はもう伏羲の一部だった。
そんなある日、外からの侵入者があった。
彼は自殺志願者だった。森で死に場所を探して、庭に迷い込んだのだ。
彼の絶望は伏羲のそれとよく似ていた。彼と話すのはまるで麻薬のようだった。人間への絶望がじわじわと自分の身体を侵食し、その感覚に彼らは陶酔した。
しかし、彼のそれは所詮自己憐憫でしかなかった。すぐに死という幻想を持ち出す彼に伏羲はどうしても相容れないものを感じはじめる。その瞬間、庭は彼を追い出した。突き放すように。
そして、伏羲は庭が彼の心と同調していることに気付き始めた。
「僕も、死のうと思ってここに来たんだ」
ぽつんと楊ぜんは呟いた。
「しかし、おぬしは一度も死のことを口にしなかったではないか」
「あなたは笑うかもしれないけれど……この森に入ったら急に怖くなっちゃったんです」
「莫迦になどせぬよ。賢明な判断だ」
楊ぜんは不思議そうに伏羲を見つめた。
「僕はあの時もう、死のうと思ってたんじゃない。帰ろうと思ってたんです。それなのに扉は開いた」
「わしが呼んだのだろうな。おそらく」
楊ぜんはきょとんとして伏羲を見る。
「わしはきっと、新しい風が吹くのを望んでいたのだ」
伏羲は優しい目で楊ぜんを見つめた。
「おぬしのような。莫迦で純粋で勇敢な風」
「莫迦は余計です」
2人は微笑む。
「風が吹き込んだ」
その言葉は自然に二人の口からあふれ出た。
「そして扉は開かれた」
瞬間、突風が吹き込んだ。
身を切り裂くような冷たい暴力的な風に楊ぜんはついうっかりぎゅっと伏羲に抱きつく。
「帰りましょう。伏羲」
「外へか」
「ええ、外へ。出たところでどうなるかは判らない。でも、今はっきりと判ったのは、一番外に出たいと望んでいるのはあなたなんだ!」
二人は手を握り締め、しっかりした足取りで歩き始めた。
扉は当然のように開け放たれ、そこから雪まじりの冷たい風が吹き込んでいる。
そして2人は、扉を抜けた。
その城は今はもうない。
後の調査によると何百もの白骨化した遺体が荒城から発掘された。多くは使用人のものと思われている。
じつはこの地方にはちょっとした御伽噺が伝わっている。
昔、この城は一人の王子を幽閉するためにつくられたもので、魔術師が城に呪いをかけたという。王子が二度と戻ってくることの無いように、まやかしの安寧と居心地のよさを与え続けるように。その呪いで王子はすっかり堕落し、人格というものすらなくなってしまうように。
しかし、王子はそれに見事に耐え、一人の少女とともに帰還したという。
もっともこの話には様々なパターンがあり、王子が一貴族に過ぎなかったり、あるいは少女が少年になっていたりと実に様々なバリエーションが存在するのだが、御伽噺などというものは大概にしてそんなものなのだ。
ただ一ついえることは、この地方にはもう一つ受け継がれている御伽噺があり、それがどうやら帰還した王子と少女との冒険譚であるという、ただそれだけの事実である。
end.
novel.
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