風邪をひいた日には
おっそいのぉ。楊ぜんは。
その朝、考え事をしながら墨のついた筆をくるくると指先で回すと言う迷惑極まりない行動をとりながら太公望はそんなことを考えていた。
早朝会議。もう、大多数の人々はそろっていると言うのに、楊ぜんは現れない。几帳面な彼は遅刻だけはしたことが無かったのに。
太公望はぐるりと周りの顔を見渡す。皆眠そうな顔であくびをかみ殺している。その中に一人だけ険しい顔をした人物がいる。よりによって太公望の隣に陣取っている周公旦。
あやつ、周公旦に目をつけられたら大変な目に会うぞ。
周公旦が太公望が無意識に回している筆を迷惑がって顔をしかめているのだとは考えもせず、太公望は一人焦っていた。
周公旦は容赦ないからのぉ……。しっかたない。起こしに行ってやろうとするか。
太公望は立ち上がり、
「ちょっくら、楊ぜんの様子を見てくる」
慌てて駆け出した。
「よぉぜーん」
楊ぜんの部屋の前で、友達の家に遊びに行った小学生のように彼は声を張り上げる。昔楊ぜんの部屋をノック無しにうっかり空けたことがあって、その時楊ぜんがたまたま着替え中で酷く怒られたことを実は根に持っているのだ。
「起きておるかー?」
返事は返らない。彼はそおっとドアを押し開く。
「入るぞー」
なぜかそれだけ小声で言うと、太公望はこれまたなぜか抜き足差し足で楊ぜんの寝台を目指した。
白い寝台の中で楊ぜんは眠っていた。
「寝坊か〜?天才道士様も情けないのぉ」
楊ぜんの寝顔を盗み見てしまった罪悪感から、太公望はわざととぼけたような声を出す。それから、楊ぜんを起こすためにそっと彼の肩に手をかけた。
熱い。
こやつ、体温低いとかいってなかったか?
太公望はまじまじと楊ぜんを観察する。寝乱れた髪が寝台にのたくっている。軽く汗ばんだ額と上気した頬。
色っぽいのぉ〜。
いや、そうじゃなくって。
熱があるのではないか?
そういえば、軽く寄せた眉根が苦しそうだ。
色っぽいのぉ〜。
いや、そうじゃなくって。
太公望は楊ぜんの額に手を当ててみる。それから、自分のおでこにも手を当ててみた。
あれ、わしのほうが、熱いような気も……。
太公望は思い切ってこつんとおでこをあわせてみる。その時楊ぜんが何か呟いた。
「お……とお……さま……」
え?
ぎゅうっと以外にも強い力で楊ぜんに手を握られて太公望ははっとする。その手は確かに熱かった。
お父様。父親の夢を見ているらしい楊ぜん。苦しそうな息遣いが今度ははっきり聞こえた。
太公望は慌てる。楊ぜんは病気なのだろうか。
暖かくして、寝ていなければ。
そうだ会議が始まってしまう。
医者に見せたほうがいいのだろうか。
瞬時に太公望はそれだけのことを考える。
「のぉ、楊ぜん。とりあえず、医者を……」
「いや」
ぎゅうっ。思いがけず強い力だった。
起きていたのか。それとも朦朧としているのか。楊ぜんはそれだけが命綱だとでも言うかのようにぎゅうっと太公望の手を握り締める。そして。
「いかないで」
頼り切った、子供のような目に、太公望は動けなくなった。
手を握ってやっていた。乱れた布団を直してやった。額の汗を拭いて、時折背中を撫ぜてやった。
天才道士と歌われる楊ぜんの甘えた姿。見てはいけないものを見てしまったような気がして太公望は妙にどぎまぎする。
本当に父親のように楊ぜんの世話を焼く自分を自分が意識しているのを感じた。
喉が痛いと訴える楊ぜんに水を飲ませてやる。楊ぜんは手を離さない。離したら太公望が――いや、それとも父親が?――消えてしまうとでも思ってるように。
刻々と時間は過ぎていった。
誰かが部屋のドアを叩いた。
「師叔、楊ぜんさんは――?」
黄天化がドアから顔をのぞかせていた。太公望は一瞬それを不思議なものを見たように捕らえる。自分が楊ぜんの父親になりきって、楊ぜんの世話をしているように感じたのだ。
「ああ、天化か……」
だから、一拍遅れて太公望はそう言った。
「病気かい?だいぶ悪いさ?」
太公望は黙って楊ぜんを見つめる。苦しそうな楊ぜん。しかし実際の病状がどうなのかは太公望には良くわからなかった。
「俺っち雲中子様呼んでこようか?なあ、だけど師叔だけでも会議に……」
「だめだよ」
考える前に自分の口が天化の台詞をさえぎっていた。
「楊ぜんがいかないでというのだ」
天化はきょとんとする。それが楊ぜんの口から出た言葉だとはどうしても納得できなくて。楊ぜんならむしろ、強がって一人で大丈夫だくらい言いそうな気がするのに。
「でも、周公旦様が」
「ここにいる子供のほうが大事だと、周公旦にはそう伝えてくれ」
天化はますますきょとんとする。
「と、とにかく。楊ぜんさんが病気だって伝えとくさね」
それだけ言って天化は走り去った。奇妙な毒気に当てられたような気持ちになりながら。
とにかく熱を下げねばならぬのぉ。
片手で楊ぜんの手を握り、空いた手で汗で濡れた前髪を直してやりながら太公望はそれだけ考える。会議のことなど頭から抜けてしまっていた。
しばらく手を握って髪を撫ぜてやると、楊ぜんは安心したのか眠ったようだった。
幸いにも楊ぜんは仙界からあれこれと薬草を持ってきていたようで、薬丹を作ることは出来そうだ。熱さましは一般的な薬だから、太公望は作り方だけは知っていた。作り方だけは。
太公望はすり鉢を見つけると分量も測らずに適当に薬草をすりつぶし始める。
すりすり。
適当に別の薬草を放り込んでみる。
すりすり。
間違えたような気がしてきた。
すりすり。
大丈夫だ、楊ぜんほどの道士だ死ぬことはないだろう、たぶん。
すりすり。
不味そうだのぉ。砂糖でも入れるか。
すりすり。
べちょべちょだのぉ。では、片栗粉を。
すりすり。
ついでに、味の素も入れてみるかのぉ。
すりすり。
たとえ何が起ころうとも。太公望が必死で頑張ったことだけは認めてもらえるだろう。
――たぶん。
すりすり。
☆
「すぅ……す?」
目を覚まして太公望を見とめて、楊ぜんは呟いた。
それで、薬丹作りに無謀な挑戦を繰り返していた大公望ははっと我に帰る。
「気がついたか楊ぜん」
しばらくぼぉっとしていた楊ぜんは急にばさっと起き上がると頭を下げた。
「すみません、僕……」
「ああっ。良いから寝ておれ」
太公望は慌てて楊ぜんを寝台に押さえ込む。楊ぜんはびっくりして赤くなった。
「大丈夫です」
「ちっとも、大丈夫などに見えなかったぞ。ったく。いつから具合が悪かったのか?」
「三日前……くらい」
「だあほ」
太公望はいい捨てる。
「今は忙しいのだから、誰もおぬしが具合が悪いなど気付いてやれぬこともあるのだぞ。倒れる前に無理しないで休め!」
「……すみません」
「判ればよいよ」
太公望は笑ってさっきまでしていたように楊ぜんの髪を撫ぜる。楊ぜんは恥ずかしがってくるりと背を向けてしまった。
背を向けたまま、楊ぜんはぼそぼそと呟く。
「さっき、父の夢を見ていました……師匠じゃない、本当の父の夢です」
ああ、そのようだのぉと太公望は心のなかで相槌を打った。
「父は忙しくて、滅多に僕のことをかまってくれなかったけど。風邪をひいたときだけは、ずっと側にいてくれて。僕はそれが凄く嬉しかった。いつまでも病気が長引けばいいって思ってました。父はいつも僕の髪を撫ぜてくれて、それから苦い薬を飲ませてくれた」
くすっ。
「あの薬だけは、苦手だったけど。僕は風邪を引いた日は嬉しくてしょうがなかったんです。だからかな……。さっき、目をあけて師叔がいてくれたとき、凄く嬉しかった」
楊ぜんはそれだけ言うと急に恥ずかしくなったのか、もそもそとお布団の中に隠れてしまった。
あんなふうにすがられたら、きっとそれでも無視して仕事にいけるような人間などいないだろう。
「おぬしの父は、やさしかったか?」
こくんと、布団の中で楊ぜんが頷く気配がした。
「しっかしのぉ――」
太公望は続ける。
「おぬしに優しくしてやりたいのは山々なのだが、おぬしが風邪を引いたままでは少々困るのだ。わしは、おぬしが風邪を引いていなくともおぬしには優しいであろう?」
くすくすくす。
「それでだ。わし自ら特性の薬丹をつくってやったので、心して飲むのだぞ」
くすっ。
楊ぜんはお布団から顔を出す。
「師叔が作った、薬丹って。怖いなぁ」
しかし、楊ぜんが笑っていられたのはここまでだった。
「師叔。それ……」
太公望が持ってきたものに楊ぜんは顔を引きつらせる。
それは、青緑の黴のような色をしており丸くなりきれなくてぐんにゃりとスライムのように横たわっていた。
「ま、まさか。僕にそれを飲めとか……言わないですよね?」
懇願するように楊ぜんはそう言った。
「何を言う。良薬口に苦しと言う言葉をおぬしは知らぬのか」
太公望は本気である。
「い……いや……」
ホラー映画の絶体絶命のヒロインのように楊ぜんはいやいやと首を振る。
「大丈夫。苦くないようにわしが味を調整してやったから」
それがますます怖い。
「師叔。僕雲中子様に見ていただきますから」
もはや涙ながらに楊ぜんは訴えた。
「可愛いおぬしを変人などに見せられるか。ほれ、苦くないから口をあけてご覧楊ぜん」
太公望は猫なで声で言う。苦いほうが1000倍はマシである。
恐る恐る楊ぜんは薬丹を手に取り舌の先でつついてみる。
凄まじい味である。
「師叔、駄目。無理です。ぼくお気持ちだけで……」
「しっかたないのぉ……」
太公望は困ったようにそういう。あきらめたのかと楊ぜんが安心しかけたとき、あろうことか太公望は薬丹もどきを自分の口に放り込んだ。瞬間、太公望の顔は真っ青になる。大丈夫だと言うように笑って見せるのだが、その笑顔は確実に引きつっていた。
もはや何が目的なのかわからない。
楊ぜんはぞっとしながら、頭おかしくなっちゃったんだろうかと太公望を見ていたのだが、太公望が自分の肩に手を書けたとたん、その真意を悟って慌てて逃げようともがいた。
口移しで飲ませる気だ。
「やっ!……いやあ!」
悪漢に教われる乙女のように太公望の下で楊ぜんは懸命にもがく。太公望は馬乗りになって楊ぜんを押さえ込むと無理矢理楊ぜんの口をこじ開けた。シーンだけ見るなら、かなりやばい情景である。否、実際に楊ぜんにとってはやばい状況ではあった。
無理矢理に押さえ込んで無理矢理にキスをして無理矢理に焼く丹を口の中に移す。
始めは抵抗していた楊ぜんだが、はっきり言ってあの凄まじい味を味わう気には到底なれず、観念してごくりと薬丹を飲み込んだ。
喉ごしは最悪。
「み、水っ!」
どこにそんな力が残っていたのか、楊ぜんは上に乗って、こちらも薬丹のダメージに瀕死の太公望を押しのけると枕もとの水差しからお行儀悪く直接水を煽った。漸く人心地つく。
「よ、楊ぜん。……わしも……」
頭から水をぶっかけてやりたい衝動に駆られながらも、楊ぜんは水差しを太公望に渡してやった。
「の、のぉ……楊ぜん。しかし、わしの薬丹、効いたであろう?」
「もう、二度と作らないで下さいね」
「うう」
小さくなってすねてしまった太公望にため息をつきながらも、楊ぜんはふと思い出していた。
――だけど、お父様も薬丹を作るのは凄く下手だったんだ。
end.
novel.
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