風の吹く丘
涼やかな風が頬を撫でる中、楊ぜんはただ一人空を見上げている。雲すら浮かばない青い空を、ただひたすら。まるで、何かを待っているかのように。
「きみ、いつもそうしているね」
ふと声をかけられて、彼は夢から覚めた人のようにゆっくりと振り返る。声をかけた人物を認め、かすかに眉をひそめる。すこし、困ったような表情。
「勝手に神界を抜け出してはいけないって言ったじゃないですか」
「だって、神界は楊ぜんの管轄じゃないでしょう?」
悪びれもせず普賢真人は笑う。
「元始天尊さまは?」
「お昼寝中。ご老体をこき使っちゃ駄目だよ。楊ぜん」
「まったく……」
それ以上責めることもできず、楊ぜんは軽くため息をついた。昔から、この可愛らしい綿菓子みたいな仙人は苦手だった。
「ねえ、なにを見ていたの」
「空しか見えませんよ、ここは」
「空を通して、何を見ていたの」
普賢真人は微笑む。
「あなたは、僕に何を言わせたいのですか?」
「ん?何か言ってくれるの」
普賢真人はにこりと笑い、楊ぜんは言葉をなくして会話を放棄した。
「もう帰ります」
くるりと言葉どおりに踵を返す。
「どこに?」
「どこにって、執務室ですよ。僕はこれでも教主ですからね。忙しいんです」
「つまんなーい」
歌うように抑揚をつけて、普賢真人はわざとらしく首をかしげて楊ぜんを見た。
「あなたは一体何をしにいらしたのですか」
楊ぜんは呆れたように振り向く。
「ん?」
普賢真人はくすっと笑って。
「君の側にいたら、古い友人に会えるような気がしたんだ」
くるん。今度こそ楊ぜんは踵を返す。
「お生憎様。あの人はもういません」
振り向かないでそれだけ捨て置くように言った楊ぜんの後姿を、普賢真人は珍しく真剣な表情でずっと見つめていた。
楊ぜんが完全に見えなくなってから、普賢真人は静かに目を閉じる、自分の内側に話し掛けるように。
――行っちゃったよ。
――望ちゃん。ねぇ、いるんでしょう。まだ。
返事は返らない。それでも辛抱強く彼は繰り返しす。
――望ちゃん。
――……いないの?
――おるよ。
頭の中に、直接声が響いてきた。
――やっぱり。
――しつこいのぉ。
くすっ。普賢真人は笑う。
――せっかくのわしと楊ぜんの逢瀬を邪魔しおって。
からかうように頭の中に響いてきた声は、普賢真人の良く知るものだった。
――きわめて一方的な、ね。望ちゃんは楊ぜんに話し掛けたことある?こうやって。
――否。
決して顔をあわせることも声をかわすこともなく、それでいながらお互いの存在を感じる関係。それが、今の伏羲と楊ぜんの関係だ。そう、普賢真人は思う。
――いや、気付いているのかな、楊ぜんは。
――気付かぬ振りをしているのやもしれぬ。
――楊ぜんは望ちゃんに話し掛ける?
――あやつは、太公望に話し掛けておる。
ああ、では。まだ楊ぜんは伏羲のことを受け入れられないのか。
――望ちゃんは……
――わしの一部は太公望であるが、わしは太公望ではないからのぉ。
別に嘆くでもなく、淡々と伏羲は言った。それから少し笑って付け足す。
――それでも、あやつはいつもこの場所に来るよ。
それが、どうしようもない惚気のような気がして、普賢真人はくすくすと笑い出した。
――ねぇ、望ちゃんは今、幸せ?
――わしは満ち足りておるよ。いつもあやつの側におる。空気のように。
そういう幸せを彼らは選んだのだろうか。
――もう帰るよ、楊ぜんが怒るから。
さよなら、望ちゃん――
end.
novel.
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