マイ・フェア・レイディ
後篇
「乾杯」
カチンとグラスがなって、一同は上等のシャンパンを味わった。
楊ぜん、20歳の誕生日。バースディケーキに火を灯して。
アームチェアに腰をおろした楊ぜんは人形のように微笑んでいる。
「ね、太公望も、乾杯」
くすっと楊ぜんは太公望にグラスを渡す。
「しかしわしは仕事中……」
「硬いこというなってひつじさん!」
ばしんと背中を叩かれて太公望は顔をしかめた。莫迦力め。
「ひつじじゃなくて、執事だよ韋護君」
楊ぜんはくすくすと笑う。
これが、例の格好いい男の子だろうかと太公望は考える。背が高くがっしりした体つき。楊ぜんはこんなのが好みなのかと考えるとなんとも面白くない。
「ねぇ、韋護君。心理学の池田先生がね……」
太公望の判らない大学での話題。ホストに徹することにして、太公望は料理を運びにキッチンへと戻った。楊ぜんがこちらを気にしている。ねぇ、どうして行っちゃうの?
「姫、今日はやけに韋護君と仲がいいね」
「ばーか、俺たちはいつも仲がいいんだ」
「うん。韋護君って面白い」
「姫、やめとけ、そんなこと言ったら明日からオヤジギャグの地獄だぞ」
「オヤジギャグって何?」
くすくすくす、笑い声。
「姫はホントにお嬢様なんだから……」
遠くの世界の会話が聞こえた。
キッチンに下がった太公望を楊ぜんは追いかける。
「お嬢様、パーティーの主賓が席を空けては……」
「いいんだよ。僕のパーティーなんだから」
楊ぜんは無理矢理太公望の手にシャンパンのグラスを持たせるとカチンと自分のグラスをそれにぶつけた。
「はい。乾杯」
「お嬢様は、酔っておられる」
「いいじゃない。二十歳だよ。オトナだもん。お、と、な」
ぐいっと楊ぜんは太公望の瞳を覗き込もうとした。
「ねぇ、太公望。……」
何か言いかけて逡巡。ごまかすように楊ぜんは笑った。甘えるような口調。
「僕のこと、好き?」
「それはもう」
「韋護君が僕のこと好きって言ってくれるよりも、僕のこと好き?」
太公望は思わず韋護のほうを見ようとする。
「駄目だよ。よそ見したら」
じっと、楊ぜんは太公望を見つめた。
「でも、キスしてくれたら許してあげる」
「お嬢様?」
時間が凍りつく。
くすくすくす、不意に楊ぜんは笑い出す。
「冗談だよ。太公望もそんな顔するんだね」
笑いながら楊ぜんはリビングへと戻っていく。
「ねぇ、どうしたのよ。楊ぜん」
「なんでもない。ちょっと疲れちゃっただけ」
楊ぜんは、再び宴の中心へと戻っていく。
☆
「僕はシャワー浴びて寝るから。太公望はもう下がっていいよ」
楊ぜんにそういわれて、太公望は自分にあてがわれた部屋で、ベッドに転がりながら天井を眺めていた。
――キスしてくれたら、許してあげる。
気まぐれな楊ぜんの気まぐれな一言。
いつかの楊ぜんの唇の感触が甦った。
楊ぜんはきっと、あの日のことを覚えている。
忘れようとしてきた瞬間。決して楊ぜんに個人的な感情は抱くまいと思ってきた。実際そのつもりだった。
――じゃあ、何故あの時楊ぜんにキスした?
哀れだったからか。それは一般的な使用人が主人格の人物に対して抱く感情として正しいものか?
何故、楊ぜんは――
ばかばかしい、楊ぜんは真面目な使用人をからかうのが好きなだけだ。14の少女のときから少しも変わっていない。
太公望は目を閉じる。目を閉じて――
☆
いつのまにか眠っていた太公望は何かの気配に、わずかに眠りから覚醒する。この部屋に誰かがいる。誰か――楊ぜん?
いくら太公望が使用人とはいえ、ノックもせず明りもつけず、一体何をしているのか。
太公望に気付かれては拙いことか?
ならば、何も知らない振りをしようと、太公望は目を閉じたまま考えた。ふと懐かしさを覚えた。子供地味たいたずらをするために太公望の部屋に入ってくる14歳の楊ぜん。
気配は、太公望に近づいてくる。近づいてきて、そして。
頬にさらさらと何かがこぼれ、唇にそっと何かが触れた。なにか、やわらかいもの。
「起きてるんでしょう。太公望」
太公望は動けない。楊ぜんは太公望の心臓のあたりにそっと頭を乗せた。
心臓の音が早くなる。聞こえているのだろうか、楊ぜん。これもたちの悪いいたずらか?何のために、こんな――
「覚えてる? 僕の14歳の誕生日。お父様のお葬式の日」
静かな声で、楊ぜんは言う。
「あの時、太公望は泣いてたね」
泣いていたのは――自分?
「お父様は太公望のことがお気に入りだったからね。娘の僕が妬けてしまうくらい、太公望のこと可愛がってた。お父様、本当は娘じゃなくて息子が欲しかったんだ」
知ってる? 楊ぜんは言った。
「お父様は僕が20になったら――僕の20歳の誕生日に太公望と僕を結婚させるおつもりだったんだ」
楊ぜんが身じろぎをする。暖かいぬくもりが体の上でゆっくりと動く。
「お父様の約束のために、太公望は僕にキスをしたの? お父様がそう望んでいたから、お父様の前で誓いをするために? ずっと考えてたんだ。ねぇ、もしそうだったら――」
「お嬢様」
小さく太公望は呟く。
楊ぜんははっと息を呑む。それから、戸惑うような沈黙。
「もし、そうだったら。もう、この家に仕えるのは、止めたほうがいい。僕は、そんなことで君を縛りたくないんだ」
何か続けようとして、楊ぜんはそれを阻むように唇をかむ。小さな沈黙。不意に楊ぜんが愛しくなる。ああ、あの時雨の中で感じたのは、この感情だったか。
太公望はそっと楊ぜんを抱きしめる。まるで楊ぜんが壊れやすい薄物のガラスで出来ているかのように。少しでも力をこめたらたちまちに割れてしまうと信じているかのように。
「お嬢様は、だから、コイビトもつくらなかったのかのぉ」
「……わからない。でも、誰も好きになったことなんかない」
「おぬしは、縛られておったのか」
「判らない。でも、確かに僕にとって、太公望は特別な人だったよ……」
「……わしは、知らなかったよ。なにも」
再び、わずかばかりの沈黙。
「そう、よかった」
楊ぜんはゆっくりと身を起こす。
「変なこといっちゃった。ごめんね。忘れて」
離れていく体温。離れていく身体。抱きしめたい衝動。
「のぉ」
引き止めるように太公望は声をかける。
「あの時わしがお嬢様にキスしたのは、わしの意思だ」
くすっと笑って楊ぜんが振り向く気配。
「さっき僕が太公望にキスしたのも、僕の意志だよ」
逡巡。
「そう、さっき言おうとして言わなかった。君の意思を確かめたかったから。だって、これを言ったら太公望は僕に気を使ってしまうかもしれないだろう? 君がお父様への誓いに僕にキスしたのだとしても僕は、君のことが好きだよ」
小さく扉が開く。わずかに明りが漏れる。
「酔ってるんだ。僕」
部屋は再び暗闇に閉ざされた。
☆
「お嬢様。お嬢様」
遠くで声が聞こえる。太公望の声。
大声出さないでよ。気分が悪いんだ。頭痛いし。もう最悪。
「お嬢様」
それ以上大声出したら、叔父様に言いつけて解雇してやる。
「止めてうるさい」
「しかし、今日は授業が」
「休む」
ばたんと毛布をかぶって、楊ぜんは抵抗した。
「飲みすぎです」
飲みすぎ? ああ、昨日お酒飲んで。誕生日で。なんだっけ? みんな忘れちゃった。
「ねぇ、太公望。僕のこと愛してるんなら今日休ませてよ」
「……しっかたないのぉ……」
ぶつぶつと呟く声。楊ぜんは安心して眠りに着こうとし、ついでがばっと身を起こした。
「なんでっ!」
叫んでから頭を押さえる。あまりの痛みにくらくらする。
「ああ、お嬢様、今、水を……」
おたおたと太公望が駆け寄ってくる。
「……太公望、あの……愛してるの? 僕のこと」
「それはもう。韋護とか言う男のいう数倍は」
「それは、僕がお父様の娘だから……?」
「否、昨夜も言ったとおりわしは……」
「昨夜? 一体昨日の夜僕は何を言ったの!」
太公望は困ったように笑う。
「お嬢様はわしの部屋に入って、眠っているわしに……」
とたん楊ぜんは悲鳴をあげた。
「まって! 言わないで思い出したから!」
「お嬢様。あまり大声を出されては……」
ほとんど蒼白に誓い楊ぜんの顔色に太公望は慌てて楊ぜんを抱きしめる。
「信じられない、あんなことするなんて……僕のこと軽蔑した?」
「いいえ。ただ、わしがその事を知っていたならば」
「ならば?」
「お嬢様の心に韋護などという男の入り込む余地は無かったかと思うと」
くすっと楊ぜんは笑った。
「自信家だね。太公望。でも外れてるよ、それ。最初から、ぼくの心には君しかいなかった。ああ、こんなこと言うなんて。まだ酔ってるんだね、僕」
「たまには、良いかと」
太公望はそっと楊ぜんの髪を撫ぜる。
ぽつんと楊ぜんは呟いた。
「でも信じて。嘘じゃない」
☆
小高い丘には気持ちのいい風が吹いている。手入れされた芝生。雨は降っていない。
白い墓石は、ずっと二人を待っていた。
手に白い花束を抱え、楊ぜんは黒い車をおりゆっくりと歩き出す。
「一緒に歩けば良いのに」
不満そうに言って楊ぜんは後ろに立つ男を振り返る。
「もう、使用人じゃないでしょう」
「慣れてないのだから、仕方あるまい」
「しっかりしてください」
「判っておるよ」
太公望はそう言って、楊ぜんの手をとった。
「行こう。楊ぜん」
お父様、全てあなたの思い通りに――
でも僕達は、決してあなたから押し付けられた未来を選んだのではない。
――ああそうだ、蝉玉君に謝らなくては。
end.
novel.
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