睦言



 いつもの太公望の部屋。
 寝台の上で枕抱えて、楊ぜんはじっと書き物机に向かう太公望を見ている。昼間やってるだけじゃ埒があかないからといって部屋に持ち帰った仕事。太公望はいつもいつも仕事をサボろうとするくせに、偶に自分から仕事を持ち帰る。
 変な人。
 天邪鬼なんだと楊ぜんは考える。
 枕に頬を押し付ける。楊ぜんをかまってくれない師叔。楊ぜんがいるのを全く気にしていない太公望。なんだかちょっと悔しくて、楊ぜんは枕の端っこを噛んだ。
 おいしくない。
 楊ぜんはまた太公望を見つめる。
 声をかけたいのだけれど、太公望は仕事をしているのだからそれも悪いような気がして、楊ぜんは太公望に声をかけられない。
 気がついてよ。
 師叔の莫迦。
 心の中で悪態つきながら、楊ぜんはじっとじっと大公望を見詰める。視線に力があるのなら、太公望が気がついてくれればいいのに。
 見つめる太公望の背中は本当に本当に小さい。向かい合って話していたり愛していたりすると、偶にとっても大きく見えることがあるくせに、今日はなんだかやけに小さい。
 小さな小さな楊ぜんの太公望。
 不意に、楊ぜんは太公望を抱きしめたくなった。ぎゅって抱きしめたい。劣情ともちょっと違う。だけれど愛しくて愛しくてたまらない感じ。
 楊ぜんは昔から小さなものが好きだった。
 玉鼎真人に黙って仔猫を飼おうとした事もある。太乙真人にねだっておしゃべりする手のひらに乗るようなロボットを作ってもらったこともある。哮天犬がまだ小さかった頃はホントに可愛くてしょうがなくて、師匠に禁止されていたにも関わらず、一緒に寝台で寝ていたこともある。
 小さなものはそれだけで可愛い。楊ぜんはそう思っている。だから、楊ぜんは小さい物を見るとぎゅって抱きしめたくなる。
 太公望が小さいと感じた瞬間、だからそれと同じように楊ぜんは愛しくて可愛くてぎゅっと抱きしめたくなってしまったのだ。
 楊ぜんは静かに枕を横に置いた。そっと立ち上がる。
 太公望は、楊ぜんに可愛いといわれると酷く不機嫌な顔をする。そのくせ、女官などに可愛いといわれると妙ににやけていたりする。一体、楊ぜんと女官と何が違うのだというのだろう。昔、そんなことを聞いたら太公望は憮然として一言「おぬしは特別」と言った。莫迦にしてると思ったけど、楊ぜんは黙っていた。
 だって、太公望はよく楊ぜんのことを可愛いと言うのだ。だけれど、太公望に可愛いと言われて楊ぜんは嬉しいから、楊ぜんは太公望を怒らない。それなのに楊ぜんが太公望を可愛いと言っちゃいけないのは、ましてそれが特別だと言うのはなんだか不当な差別のような気がする。
 だけれど楊ぜんは人の嫌がることはしたくない性質だったから、とりあえず出来るだけ太公望を可愛いと言わないようにしてきた。
 でも。
 思ってしまうのだからしょうがない。
 やっぱり小さな太公望は可愛いと思う。
 太公望に気付かれないように楊ぜんはそっと太公望に近づく。
 抱きしめたい。ぎゅって。
 だってとっても可愛いから。
 太公望の後ろに立つ。
 抱きしめる。
 ぎゅって。
「楊ぜん、終わったぞ」
 その時、太公望がくるんと振り返った。
「何やっとるのだ、おぬし」
 楊ぜんは驚いてびっくりして太公望を抱きしめようと手を中途半端に広げたまま固まってしまっている。
「え、あの」
 いたずらを見つかった子供みたいに楊ぜんはわたわたする。
「手でもつったか」
「違いますよ」
 つんっと楊ぜんはふくれる。
「ほぉ。さてはかまって欲しかったのだな。可愛いのぉ〜楊ぜんは」
 からかうように太公望は笑う。
 ほら、嬉しいのに。可愛いって言われると。
「なんで……」
 頭で思ったことがうっかり口から漏れてしまった。
「ん?」
 怪訝そうに太公望は聞きかえす。
「可愛いって言われると、嬉しいのに」
「楊ぜんは、可愛い可愛い可愛い」
 呪文みたいに太公望はそう言った。
「そうじゃなくて」
「何を言うか、楊ぜんは可愛いぞ」
「だからそうじゃなくて、なんで師叔は可愛いって言われても嬉しくないんですか」
「おぬしのほうが、可愛いから」
 即答されてしまって、困って楊ぜんは自分の髪に指を絡めた。
「師叔だって……」
 可愛いですよと言おうとして、楊ぜんは口ごもる。
 居心地悪そうな楊ぜんの髪を軽く引っ張って、太公望は楊ぜんの額に小さく接吻する。一回目を閉じる。開く。大きな瞳。
「なんだか、力が抜けてしまう気がするのだ」
 ぽつんと、太公望は言った。
「わしは今、背伸びしていたいのに。可愛いと言われて頭でも撫でられると自分が小さくて何もかも許されたような気分になってしまう。おぬしだと特に、のぉ。おぬしはわしの特別だから」
 楊ぜんはなぜか痛いような気持ちになる。
「何から、許して欲しくないんですか」
「なんだろう、な」
 太公望は笑う。楊ぜんに心配かけたくないから、この人は笑うのだ。なんだか凄く淋しいと楊ぜんは思う。
「運命とか、そういう?」
「そんな大げさなものではないよ、わしにもよく判らぬのだ」
「許しちゃ、駄目なんですか」
「本当に、許されるわけではないのだ。ただ許されたような気になるだけ。それが一番、嫌であろう」
 まやかしの安寧にでもしがみついていたいと楊ぜんは思う。
「強いですね。あなたは」
「そう、そういう言葉が欲しい」
 それも淋しいような気がして、楊ぜんは微笑んだ。淋しさを打ち消すために。
 ひとりで、抱え込まなくたっていいのに。
「ねぇ、師叔。せめて抱きしめてもいいですか?」
「ん?」
「頭撫でたり、しませんから」
 太公望はちょっと笑う。笑ってそして頷いた。
 ぎゅって、あなたを抱きしめたい。
 ぎゅっ。
 楊ぜんの腕の中で、太公望がくすくす笑った。
「くすぐったいのぉ」
 取り立ててくすぐった記憶もないから、楊ぜんはきょとんとする。
「くすぐったい。そんな気がする」
「嫌ですか?」
「嫌じゃないが、なんかのぉ」
 言葉を濁して、するりと太公望は楊ぜんの腕を抜けた。
「やっぱり、わしは抱きしめる方が良いよ」
 そう言って、ぎゅっ。
「こうするとのぉ、ちょっとだけ強くなった気分にひたれる」
 楊ぜんはされるがままにじっとしている。抱きしめられるのは好きだ。くすぐったくはないけど、あったかいから。太公望はあの暖かさがくすぐったいと言う。
 とたん。思い至って楊ぜんはちょっとだけ嬉しくなった。
「ああ、あなたは慣れてないから。恥ずかしいんですね」
 太公望はきょとんと楊ぜんを見上げ、それかららしくなく赤くなってくすくす笑う。
「ばれてしまったか」
 太公望はきっと、自分が誰かに甘えることを許さない。
「ねぇ、師叔。でも、たまには僕に甘えてくださいね。僕のために」
「おぬしのために?」
「僕は、あなたを許した気分にちょっとだけひたって、ちょっとだけ強くなりたいんです」
「これ以上強くなって、どうするつもりだ?」
「あなたを許したい」
 あなたがあなた自身を許せるように。
 太公望は痛いくらいぎゅっと楊ぜんを抱きしめる。
 そして一言。
「だあほ」
 照れたように笑った。

end.

novel.