あなたにさよなら



 海鳴りが聞こえる。
 冬の海がざわめいている。荒れているのだ。
 部屋の中はしんとして冷たい。鼓動が早くなる。
 不意に怖いと思った。
 ひとりぼっちの部屋は小さな楊ぜんには広すぎて、嫌でも自分が無力な子供であることを意識させられる。
 お父様――
 おまじないのように呟いてみたものの、勿論父がその場に現れるはずもなかった。忙しいのだ。今日もまだ仕事をしているのかもしれない。
 そっと楊ぜんは起き上がる。ひやりと床は素足に冷たい。両手で身体を抱きしめながら楊ぜんは部屋を抜け出し歩き出す。
 誰もいない暗い廊下。いつもなら、見回りの道士や妖怪たちが夜中にだっているはずなのに。
 楊ぜんは怖くなって駆け出す。目に付いたドアを片っ端からあける。あけるドアもあけるドアも誰もいない。誰もいない金鰲島に楊ぜんの足音だけが響き渡る。それが反響してまるで誰かが楊ぜんを追いかけてくるような錯覚にとらわれる。
 何から逃げているのかも判らずに楊ぜんは必死になって走った。
 お父様、お父様、おとうさま――
 それだけを、お守りのように心の中で念じながら。
 おとうさま

「楊ぜん。楊ぜん」
 お父様じゃない誰かの声に、楊ぜんはうっすらと目をあける。
 夢だったのか。
 急に現実が戻ってくる。目の前に太公望がいた。
 ああ、子供の頃の夢を見るなんて一体、何年ぶりだろう。まして、金鰲にいた頃の夢なんて。
「楊ぜん、大丈夫か?」
 太公望の声に楊ぜんはきょとんとし、なんとなく目をこすってから漸く、自分が泣いていたらしいことに気がついた。
「父がいなくなった夢を見ました」
 自分の涙にあっけに取られ、ぽつりと楊ぜんは呟く。
「玉鼎か?」
「え、いえ」
 楊ぜんは慌てて否定し、それからさっきの言葉は絶対に聞かれてはいけないことだったと思い出して、ちょっと大げさすぎるくらいに首を振った。
「なんでもないです」
 太公望はしばらく楊ぜんを見つめ、それから子供にするみたいに頭を撫でてくれた。
「そうか、どちらにせよ仙界に入った時点で親子の縁は切れてしまう物だしのぉ」
 太公望は遠くを見るように呟く。
「どうせ皆、たとえ生き延びていたにせよ、わしらより先に死んでしまっているのだしのぉ。そう考えると、淋しいのぉ楊ぜん」
 楊ぜんは太公望を見つめ、ぎこちなく微笑んだ。
 きっと太公望は、楊ぜんが自分より先に死んでしまった父親のことを思い出して泣いていたのだと考えたのだろう。
 違いますよ、師叔。ぼくの父は人間じゃない。あなたが手をかけようとしている。僕が手をかけようとしている、その人です。
 やはり、予感、だろうか。今ごろになって、金鰲の、あの人の夢を見るということは。
 ひっそりと楊ぜんはそんなことを考える。
「金鰲、落とせるでしょうか」
 吹っ切るように楊ぜんは言う。太公望は苦笑した。
「楊ぜん、わしは何度も言うが無理に金鰲を落とすことは考えておらぬよ。わしが倒したいのは妲己だし、話し合いで済むのならそれはそれで……」
「無理ですよ」
 楊ぜんは短く太公望のことばをさえぎった。これには太公望も少しむっとした顔をする。
「そんなのやって見なければ……」
「話し合いで解決するような問題でしたら、とうに仙界は統一されているはずです」
 そんなの、楊ぜんだって何度も考えたのだ。今更太公望が何を言ったところで、変わるとも思えなかった。崑崙と金鰲は人質を交換するような関係なのである。
 この人は、その人質の一人が楊ぜんだと知ったらどんな顔をするのだろうか。
 そこまで考えて、楊ぜんはぞっとする。急に怖くなる。
 駄目。それは絶対に知られちゃいけない。
 確かに太公望は妖怪だからといって不当に楊ぜんを差別したりすることはないだろう。だけれど、妖怪と恋愛できるかといったらそれは、全く別の話で。
 できるわけないんだ。そんな冒涜的なこと。
 楊ぜんは睨みつけるように自分のひざの上で組んだ指先を見つめる。
 妖怪と人間の恋なんか叶うはずなくて。なのに楊ぜんはそれを隠したまま、太公望と一緒にいる。
 きっと騙してることになるんだろうな。
 たぶん、自分は、太公望を裏切っているのだ。
 楊ぜんの言葉に憮然とした太公望の横顔を見つめながら楊ぜんは静かにそう思った。
 不意に、泣きたくなった。勿論、泣き出しはしなかったのだけれど。
「楊ぜん、おぬしどうしたのだ?」
 太公望の不信そうな声に楊ぜんははっとする。駄目。いけない。
 話題を変えようとしたのに口から出てきた言葉はこんな言葉だった。
「ねえ、師叔。ビーナスが僕よりもっと綺麗だったら、師叔は彼女を好きになりました?」
「は?」
 いきなりそんなことを言われて太公望はきょとんとする。
「妖怪でも、好きになりました?」
 楊ぜんはじっと太公望を見つめる。
「わしにはおぬしがいるのにビーナスを好きになるわけなかろう」
 太公望は苦笑する。
「なんだ。おぬし嫉妬してくれたのか」
 違う。違う。そうじゃなくて。
 だけれど楊ぜんは、なんといって言いかよく判らない。これ以上聞いたら、きっと太公望は不信におもうだろう。
 それに。
 ぎゅいっ。シーツを握り締めて。
 やっぱり妖怪なんか、好きになれるはずない。
 楊ぜんは一つため息をついた。
「なんでもないです」
 仕事、始まっちゃう。
 いかなきゃ。

 太公望はいつも優しい。偶に仕事をサボったり桃を盗んだりして頭に来ることもあるけれど、人見知りで見栄っ張りの楊ぜんにとって太公望は安らげる場所だった。この人の前では素直でいても良いような気がした。たった一つのことを覗けば。
 たった一つのこと――楊ぜんが妖怪だということ。
 太公望に誠意を尽くすなら、それは当然打ち明けるべきことなのだろう。だけれど、それをしてしまったせいで太公望を失うのが楊ぜんは怖い。それは凄く怖い。
 それに、たとえ太公望が妖怪の楊ぜんを受け入れてくれたとしたら、太公望はきっと悩むだろう。とてもとても悩むだろう。太公望がこれから立ち向かうであろう相手の中に、いや、この際もっとはっきりいってしまおう。太公望が殺すであろう相手のなかには確実に楊ぜんの父親も入っているのだ。
 これ以上太公望に辛い思いをさせたくない。
 太公望は本来優しすぎるくらい、優しい人なのだ。その人がよりによって軍師。大勢の人間を動かし人を殺す頭脳になるなんて。
 それだけでも太公望には辛いことだろう。
 太公望は決して辛そうなそぶりは見せないけれど、それはたぶん辛さを助長するだけだ。泣き出したいときに笑わなければならない苦しさなら楊ぜんは知っている。崑崙も人間も決して妖怪には優しくないから。妖怪はすべて残酷な物だという迷信がまかり通っているから。楊ぜんは崑崙の道士でいるために笑いながら自分自身を貶し続けなければならなかった。
 師匠に心配されるのが嫌で、悲しませるのが嫌で、ずっとそれを一人で抱え込んでいた自分。世界にたった一人立ち向かっているかのような果てのない孤独感。
 思い出しただけで楊ぜんは怖くなる。たったひとりぼっちで、何故あの頃の自分は生きていることが出来たのだろう。隣に人のぬくもりを感じる暖かさを知ったときから、楊ぜんはあの日に帰る事など到底想像できない。その頃、生きていた自分が判らない。
 また、あの日に帰る事になったら。太公望を失ったら。
 考えるだけでも楊ぜんは震えが止まらない。どうしてこんなに弱くなってしまったのだろう。
 どんなに自分勝手でも、今太公望から離れたくない。

 いつのまにか楊ぜんは食い入るように太公望を見つめていた。
「どうしたのだ、楊ぜん?」
 太公望はにっこり笑う。
「根を詰めすぎるとよくないよ」
 嗚呼、また心配させてしまった。楊ぜんは笑顔を作る。微笑む。
「何でもありませんよ師叔」
 嘘をつくのは得意だ。今まで誰にもばれたことがない。
 太公望はじっと楊ぜんを見つめていた。その言葉の真意を確かめるように。強い視線。
 やがて太公望は目をそらす。
「そうか」
 楊ぜんは、はいと返事をし、こくんと頷いた。
 大好きな人に嘘をつかなければならない痛みがずきずきと楊ぜんを苛んだ。

 夕刻。部屋に戻った楊ぜんに太公望は真剣な表情で口を開く。
「のぉ、楊ぜん。悩みがあるならわしに言ってくれ」
 楊ぜんは目を見開く。
「おぬしが辛そうだと、わしも辛いよ」
 辛い?楊ぜんが?
 そんなこと、今まで誰一人気づいてくれた人はいなかった。
 だって、楊ぜんの演技はいつだって完璧で――
 妬まれることはあっても哀れまれることなどなかった。師ですら楊ぜんは強い子だと褒めた。
 楊ぜんは混乱する。混乱して。
 嗚呼、駄目。涙が――
 視界がぼやける。
 どうして?何故涙が出るの?楊ぜんは決して哀れんでなどほしくなどない。
 そのはずなのに。
「辛くなんかないですよ。僕にそんなことありえません」
 楊ぜんはそれでも精一杯虚勢を張る。完璧に微笑んでみせる。この涙は――そう、目の中にゴミが入っただけで。ホントに、師叔は心配性なんだから。
「楊ぜん……悲しいよ……」
 そう言って太公望は楊ぜんを抱きしめた。
 何故。太公望を悲しませたくなくて楊ぜんは嘘をついたのに、どうして太公望が悲しむの?
「師叔」
 楊ぜんはそれだけ言って、そして黙った。
 服を通して伝わる暖かい体温。楊ぜんはその熱に溶けていく。
 違った。これは哀れみなんかじゃないのだ。これは――慈愛だ。
 そんなことすら判らなくなっていた。
 楊ぜんはそっと太公望の背に手を伸ばす。
「のぉ、楊ぜん。おぬしが悩んでいるのは……金鰲のことか……?」
 その言葉は楊ぜんを打ち砕く。なんてこと。この人は気がついてしまったのだろうか。金鰲と楊ぜんの関係に。
 想いとは裏腹に楊ぜんは笑みを作る。にっこり微笑む。
「いいえ。僕はビーナスに嫉妬していたんです。だって、僕はあんなふうに自分の気持ちになかなか素直になれないから」
 太公望は笑う。
「だあほ。わしが愛しているのはおぬしだけだよ」
「嬉しいです。師叔」
 楊ぜんはぎゅっと太公望を抱きしめる。

 今度は上手く嘘をつけた。
 太公望はきっと気付かない。

 夜中に楊ぜんはむくりと起き上がる。軽く首を振る。太公望をみる。
 駄目だ。嘘をつくのが随分と下手になってしまった。
 たぶん、近いうちに太公望は真相に気がつく。
「ねぇ師叔」
 太公望の髪をそっと撫ぜながら楊ぜんは低く呟く、決して聞き取られることのないように。
「あなたは頭が良いけれど。でも、師叔。世の中には気がついちゃいけないことってきっとあるんですよ。
 昔話を知っていますか。鶴が機を織る話。機織を見られた鶴はどうしました?
 あなたは覗いてはいけないものを見てしまったんですね」
 出来うる限り優しく楊ぜんは太公望の髪を梳く。
 いつのまにか楊ぜんは泣いている。
 怖かった。太公望が真相に気がついた時が、楊ぜんの破滅のときだ。
 今まで騙していたと罵られるのはかまわない。だけれどあなたに嫌われるのだけは辛い。
 流れ落ちてシーツに染み込んだ楊ぜんの涙。
 太公望が寝ているから、いっそ泣けるだけ泣いてしまおうと思った。
 思ったらさらに悲しくなった。この人の前だけでは嘘をつかずにいられると思ったのに、楊ぜんはずっと嘘ばかりついていた。楊ぜんは太公望の前では泣けないのだ。それが悲しかった。
「ごめんなさい師叔。あなたは僕を好きだといってくれたのに」
 太公望が全てに気がつく前に、ここを去ってしまおう。
 ひとりぼっちは怖いけれど、ひとりぼっちを宣告されるほうがもっと怖い。
 それに。
 楊ぜんにはもう一つ懸念があった。
 一度は縁を切ったつもりだったけれど、それでも。楊ぜんは顔色一つ変えずに父を殺すことが出来るだろうか。子供の頃、あれほど慕った父のむくろを前に喝采をあげることができるだろうか。「やりましたね、師叔」と、その時きっと楊ぜんは言うのだろう。その声が震えずにいられるだろうか。
「師叔、おかしいですね。僕は自信がないんですよ。おかしいでしょう。僕が自信がないなんて」
 楊ぜんは考えている。ここを出たら、金鰲に行こうと。金鰲に行って、一人で父を打とうと。それが太公望へのせめてもの置き土産。
 ある年齢まで金鰲で育った楊ぜんは金鰲の内部を知っている。会議室から抜け道があることも。地下から父の部屋に抜けられることも。さすがの楊ぜんも一人で金鰲が落とせるとは思っていない。だけれど通天教主一人ならなんとかなる。あれから200年経ったとはいえ、基本的なつくりは変わりようがないだろう。あの人が僕を見て動揺したその隙に――
「僕がいなくなっても、悲しまないで下さいね」
 楊ぜんはそっと太公望の額に接吻を落とす。
 行動するなら、早いほうがいい。怖気づいてしまう前に。
 最後に楊ぜんは太公望の寝顔を見つめる。目に焼き付けておくかのように。
 不意に、楊ぜんは口を開く。何かに駆られたように。
 胸が詰まる。息が苦しい。声がかすれる。
「師叔。僕は醜い妖怪で。この手も顔も、言葉さえも嘘ばかりだったけれど。あなたを好きだといったのだけは本当です。それだけ、忘れないで」
 たぶん楊ぜんは帰ってこない。刺し違えてでも父を打つ。否。刺し違えてこそ本望だ。

 おとうさま。
 あなたが僕をこんなにしてしまったのですから。僕と一緒に死にましょう。
 僕はあなたに決着をつける。

 すくりと楊ぜんは立ち上がる。身支度をする。いつもより丁寧に髪を梳いた。
 戸に手をかける。この部屋を出たら絶対に振り返らないで真っ直ぐ行こう。
「さよなら、師叔」

 たった一度だけ、楊ぜんは振り返って部屋を見た。
 そして凍りついた。
 太公望がいた。寝台の上に座って。
「すぅ……」
「済まぬ。楊ぜん……その。聞こえてしまった」
 楊ぜんは首を振る。否定するように。
 嫌。あなたから拒絶の言葉は聞きたくない。
「見逃してください。師叔」
 かすれる声で楊ぜんは言う。
「のぉ、楊ぜんおぬしは……」
「見逃してください!」
 太公望の言葉をさえぎるように、引き攣れた声で楊ぜんは叫んだ。夜の闇にいんいんと声が響く。楊ぜんは自分の声に驚き首をすくめる。
 太公望は俯く。辛そうな表情。嗚呼、この顔を見たくなかったのに。
「僕は妖怪です。ずっとあなたを騙していたんです。僕は……怖かった」
「それが……おぬしを苦しめていた物の正体なのか」
「あなたに嘘をついていることが辛かった。でもあなたに嫌われるのはもっと辛かった」
 太公望は黙り込む。楊ぜんはその沈黙に耐えられない。
「吐き気がするでしょう師叔。あなたはずっと妖怪を、妖怪を……」
 声は途中で泣き声に変わった。なんて醜いのだろうと楊ぜんはおもう。自分を殺してしまいたい。今、この場で死ねればいいのに。
「のぉ、楊ぜん。聞いてくれるか?」
「嫌」
 楊ぜんは子供のように首を振った。
「楊ぜん」
 太公望はなだめるように言葉を紡ぐ。
「わしが何も悩まずにおぬしを受け入れたとしたら、おぬしは信用せぬだろう。でもわしは……」
「見逃して……」
 子供のように泣きながら楊ぜんはそれだけ言った。恐怖で頭が考えることを拒絶する。太公望の言葉はほとんど楊ぜんには届かない。
「それでもわしはおぬしを嫌いになどなれぬよ」
「嘘!」
 拒絶の言葉は鋭く闇を切り裂く。傷ついた獣は牙をむいてじっと太公望を睨んでいる。
 音が止まる。空気が止まる。世界が止まる。
 誰も動けない。目をそらせない。
「嫌だ」
 太公望は言った。
「え?」
 楊ぜんが問い返す。魔法が解けたように世界は元に戻った。
「おぬし、わしを捨てて行く気か」
「僕は……妖怪だから……」
「確かに、おぬしが妖怪だというのには驚いた。おぬしが金鰲と関係があるらしいことはなんとなく知っておったが、あちらにも人間の道士はいるしのぉ。だから、驚いたといえば驚いたが、それが判ったから今すぐおぬしを嫌いになれるものでもないし……ああっ。なんと言ってよいか判らぬのぉ」
 太公望はいまいましげに腕を組む。
「つまり、だな。つまりわしは、おぬしが今いなくなるのは嫌だ」
「僕はあなたに嫌われたくないんです」
「だから、嫌っておらぬ」
「でも、よぉく考えたら嫌いになるかもしれないでしょう。なるに決まってるんです。師叔判ってますか。僕妖怪なんですよ。人間じゃないんですよ。残酷で、浅はかで、醜くて……」
 言っているうちに楊ぜんはまた泣き出したくなってくる。
 太公望はそっと楊ぜんの頬に手を伸ばす。
「自分の言葉に、自分で傷ついてどうする……かわいそうに。おぬしはずっとそうやって傷ついて生きてきたのだな」
 触れられた手の暖かさに、楊ぜんはまた涙がこぼれる。
「しかし、崑崙はもともと妖怪の弟子は取らぬ。おぬしが金鰲から崑崙にあずけられ、それが、わしにすら隠されていたということは……」
 楊ぜんは目を見開く。なんてことだろう。悪魔のように賢いこの人はついに真相に。
「師叔、駄目です。その先は考えちゃいけない!」
「おぬし、金鰲の要人の」
 はっとしたように太公望は楊ぜんを見上げる。
「おぬしまさか、通天教主の!」
 嗚呼。あきらめとともに、楊ぜんは小さく息をついた。
「そうか、それでおぬし最近辛そうにしておったのだな」
「あの人は、父じゃありません。もう、父じゃ、ないんです。僕は父親を殺すのが嫌で逃げ出そうとしたんじゃない。あなたが僕のことで傷つくのが嫌だから逃げたかったんです」
「しかし」
 ほら、やっぱり太公望は辛そうな顔をする。
「あのね、師叔。世の中には憎しみあい、いがみ合う家族もいるんです」
 楊ぜんは太公望の気持ちを軽くしようとそう言ったのに、太公望は何故かますます辛そうな顔をする。
「のぉ、楊ぜん。やはりわしは話し合いで決着をつけるよ。楊ぜんの家出はそれからだ」
「家出?」
 聞き返す楊ぜんに太公望は怒ったように言った。
「ここが楊ぜんの家であろう。わしから逃れようなど1000年はやいわ」
「1000年、ですか」
 楊ぜんは泣き笑いの表情になって言った。
「あなたは僕を見逃しては下さらないのですね」
「おぬしを嫌いになどなれぬよ。莫迦だのぉ、一人で悩みおって。そんなにわしが信用できんかったか」
 太公望は笑う。
「おぬしが、莫迦なことをしようとするから。ほれ、朝になってしまったではないか」
 そういえば部屋は薄ぼんやりと明るい。空が白んでいる。
 こうなったら朝焼けを見るぞと太公望は言った。
 東の空が紫に染まる。
 ならんで空を見ながらも、まだ楊ぜんは不安でいる。
「ねぇ師叔。でも、妖怪と人間の恋なんて背徳的だと思いませんか」
「莫迦だのぉ楊ぜん」
 またもや太公望は莫迦といった。さっきから楊ぜんは莫迦といわれ続けている。
「おぬし、何故自分が十二仙に預けられたか判るか」
「秘密が露呈すると、困るからでしょう」
「だあほ」
「阿呆とは何です。さっきからあなたは莫迦とか阿呆とか」
 楊ぜんはふくれる。太公望は笑う。
「本当におぬしが金鰲の人質で秘密が露呈するのを恐れるなら、十二仙になど預けぬよ。所詮は他人だからのぉ。いいか楊ぜん。あのジジイはわしにすらおぬしのことを話さなかったのだぞ」
「ええ、知っているのは師匠と元始天尊様だけのはずです」
「本当におぬしを隠したければ、わしなら座敷牢にでも閉じ込めておくよ。絶対に玉虚宮の外には出さぬ。今のおぬしのように有名になられては困るし、おぬしが金鰲を裏切ることなど十分に考えられるからな」
「そんな……」
 楊ぜんは俯く。
「だあほ。これは仮定の話だ」
 太公望は笑ってがしがしと楊ぜんの頭を撫ぜた。
「元始天尊様はそうはしなかった。おぬしを信頼の置ける十二仙に預け、おぬしが妖怪であることを隠した。否、違うな。元始天尊様はおぬしを人間の弟子と同じように扱った。そうであろう楊ぜん?」
「え?ええ」
「それはのぉ。元始天尊様がおぬしを人質ではなく弟子として向かえたということだよ」
 弟子……
「そういえば、子供の頃元始天尊様が妖怪を差別するのはおかしいといっておった。妖怪だから劣っているというのは偏見だと説教されたよ。おぬしのことを気にしておったのかものぉ、あのジジイ」
 楊ぜんは頭の長い白髪の崑崙の教主の顔を思い浮かべる。初めて顔を見たときは恐ろしくて泣き出しそうになった。そう、おとうさまと二度とあえなくなった日。
「わしらはな、仙界に入ってしまえば人間でも妖怪でもない。道士だよ。わしもおぬしも同じだ」
 太公望は笑う。笑ってそう言った瞬間。
 一日の一番最初の光が東の空に降り注いだ。

end.

novel.