身代わりシンデレラ




04.



 日々は順調に過ぎていった。
 暮らしは安定しているし、太公望も女中達も優しい。
 それでも、楊ぜんには素直に飲み下せない何か引っかかるものを感じている。不安? それともいらだち? 決して感じるはずのないものだから、楊ぜんも自分ではそれとすぐには意識できなかった。ただ、漠然と間違っている何か。それは日に日に募っていってついには彼を蝕んでゆく。
「青華、最近元気ないのぉ」
 太公望は心配して声をかける。楊ぜんはただ首を振って答える。なんでもないと。
「淋しいのか」
「いいえ、お兄様がいらっしゃるし」
「そうだ。友達に会いたくなったのではないか? すまなかったのぉ、ちっとも気がついてやれなくて」
 友達と言われて、とっさに楊ぜんは韋護のことを思い出した。急に会いたくなった。
「行っても、よろしいのですか」
「必ず、帰ってくるな」
 太公望はとんと楊ぜんの肩に手を置いてそう言った。
「はい」
 置かれた手に、なぜかどぎまぎしながら、楊ぜんは答えた。
 車を回してもらって、戻ってきた裏通りは酷く寂れていて、惨めたらしい。
 花売りの過去が思い出されて、楊ぜんはほんの少し嫌な気持ちになる。
「青華様、2時間後にお迎えに上がります」
 車を返して、楊ぜんは細い通りに入っていく。湿った道に植えた野良猫たち。ここにはいい思い出など一つも無いはずなのに妙に懐かしかった。そういえば、韋護君はいつも野良猫に餌をやっていた。仔猫は可愛いと思うのだけれど、大きくなると飽きてしまう。良くそんな面倒なこといちいちできるねぇとからかうと、韋護はにやりと笑って言った。
 なんかさぁ、おまえみたいでほっとけないんだよ。
 でも、もう楊ぜんは飢えた野良猫じゃない。
 そのとき。
 ぼんやりと猫を眺めていた楊ぜんの耳に声が飛び込んできた。
「楊ぜん。楊ぜんじゃないか!」
 楊ぜんは唖然として、振り返る。
 ひさびさに呼ばれた自分の名前。
 泣き出しそうな自分に気がついて、楊ぜんは困惑する。
「どうしたんだよ。もう、捨てられたのか」
「違うよ。莫迦」
 それだけ言って、楊ぜんは泣き笑いの顔で韋護を見た。
「じゃ、どうしたんだよ」
 韋護が心配そうに問う。そう、韋護は昔から楊ぜんの保護者気取りでそんなことを言う。それが楊ぜんにはいつも鬱陶しかったものだ。でも、今日は鬱陶しくはない。むしろ、何か暖かいもののように感じた。
「君がね。僕がいなくて淋しくて泣いてるかなって思って見に来たんだ」
「誰が泣くかよ」
 韋護は笑う。昔と同じだ。
「ホントに? 全然淋しくなかった? でも、この辺の野良猫全部取り上げられたら君は泣くだろ」
「何の話だよ、楊ぜん」
「だって、韋護君ってそういう人じゃないか」
 そう言って楊ぜんは笑う。
「僕に会えて嬉しくないの?」
「そりゃあ……まあ、なんつーか、懐かしいって言うかさぁ……」
「僕は嬉しいよ」
 ストレートな楊ぜんの台詞に韋護はどきりとして楊ぜんを見た。
「なんだよ、もう。嫌になっちまったのか」
「違うよ。太公望様はやさしいもの。でも。僕は僕として僕を見てほしかったんだ、今気がついた。韋護君がぼくの名前呼んでくれたから。ねぇ、どうしよう。気がついた。僕惚れてるんだよあの人に」
「はあ」
 しゃべりまくる楊ぜんに着いていけなくなって韋護はとりあえずそれだけ言った。
 楊ぜんは言うだけ言うと、急にしゅんとうなだれた。
「名前、呼んで欲しかったんだ」
「楊ぜん?」
「違うよ。君じゃなくて、太公望様!」
「あのなあ、楊ぜんは男の子だろう」
「なんだよ。今まで散々女扱いしてきたくせに」
「したかよ」
「してたよ!」
 楊ぜんは叫んでそれから女の子みたいにふくれた。
「まあ、それはこの際どうでもいいか。問題はさ、つまり太公望にその気はあるのかってことだ」
「そんなの……ないに決まってるじゃん。向こうは僕のこと妹だと思ってるんだよ」
 楊ぜんはため息をつく。
「それが不思議なんだよなぁ。おまえ、ホントに太公望の妹に似てるわけ?」
「だって皆そういうよ。それに僕がお兄様っていうと太公望様凄く喜ぶんだ」
「それだけ聞くと、アブナイ趣味のお兄さんみたいだな」
「怒るよ」
 韋護はにやりと笑う。
「そんで、兄弟仲良く一緒に寝ちゃったりとかしてるわけですか」
「君の低級な頭脳にはホントに参るよね。僕たちはいたってピュアだよ。ただの兄弟愛。まぁ、韋護君にはどうせわかんないだろうけどさ」
 台詞に棘を含ませて楊ぜんは言った。
「まぁ、実際、わかんねーな。太公望が何のつもりなのか」
「僕は兄弟でいいんだ」
 ぽつんと楊ぜんは言う。
「夢みたいだよ。綺麗な服着て、おいしいもの食べられて、働く必要も無くて、専属の女中さんまでいるんだよ」
「でも、誰も名前を呼んでくれない。おまえをおまえとしては扱ってくれない。そういうことだろ」
 楊ぜんは何も言えず黙り込んだ。
「帰ってこいよ、楊ぜん。おまえは結局、ちっとも幸せじゃないじゃないか」
「幸せだよ」
「その幸せは、おまえのために用意されたものじゃないだろ」
 楊ぜんはきっと韋護を睨んだ。
「韋護君ってさ、ときどき、凄く性格悪いよね」
「俺は、元から性格悪いんだよ」
「僕に嫉妬してるの? 一人だけこの裏通りから出られたから」
 挑発のためだけの台詞。しかし韋護は取り合わない。
「哀れんでるんだよ。莫迦」
 その言葉は楊ぜんを酷く惨めにした。花売りのあの頃よりもさらに惨めに。
「もう知らない!」
 楊ぜんは立ち上がる。立ち上がって、振り返らずに呟いた。ないてるような、笑ってるような声で。
「ねぇ、何で僕達いつもこうなんだろうね。久しぶりに会ったのに。ここで別れたら二度と会えないかもしれないのに」
 怒っていたのだ。この展開に。最後まで言い争うことしか出来なかった自分自身に。
「ああ、何でだろうな」
「韋護君……名前呼んでくれる?」
「楊ぜん?」
 楊ぜんは俯いて、それから扉に手をかけた。
「さよなら、韋護君。ひとつだけ、言ってもいいかな」
「なんだよ。今更」
「うん。ホントに、今更なんだけどね」
 ぐいっ。扉を開いて。俯いたまま一言。
「僕、結構君のこと好きだったよ」
 そのまま、楊ぜんは歩き去った。
 くすっと、韋護は笑う。
 ホント、今更だよな。でも――
「俺も結構、アンタのこと、好きだったよ」
 もう閉まったってしまった扉に向かい、彼は一人呟いた。

 大通りに出ても、当然のことながら、車はまだ来ない。
 楊ぜんは仕方なく、歩き出す。空は晴れている。風も無い。舗装された通りに高い靴の音。
 さよなら。
 ぽつんと楊ぜんは呟く。
 韋護君も、寂れた裏通りも、花売りの過去も、みすぼらしい薔薇の花も、自分の名前も。もうきっと、二度と戻らないだろう。
 呂家の玄関で、ばったりあった太公望に楊ぜんはにこやかに微笑んだ。
「お兄様、青華です。只今、帰りました」
 愛しい人。決して自分を認めてもらえない存在にむけて。

     ☆

 最近元気が無いようだった。
 外に出したら、満面の笑顔で戻ってきた。
 誰にあってきた? 何をしてきた?
 妹ではない妹にわしは微笑みかける。
 寂しさを紛らわせるための、ちょっとした遊戯。
 青華はもういない。では、こやつは何ものだ? 何故自分の前で微笑むのだろう。
 裏道で見つけた、みすぼらしい花売り。何を見ている? 何を思ってわしについてきた?
 その微笑みの奥にある物はなんだ。
 哀れみか、同情か、それとも――

     ☆

「おお、随分と早かったのぉ。楽しかったか」
「ええ、また喧嘩をしてしまいました」
「それはいけないのぉ」
「だからもう……会いません」
 楊ぜんはそう言って、少し淋しげに微笑んだ。
「それは……わしのためにか?」
「いいえ、自分のためにです」
 楊ぜんは微笑む。
「歩いてきたから、喉が渇いてしまいました。お兄様もよろしければ、お茶にしましょう」
 そうして、当たり前の日常がまた、始まるかに見えた。
 その日の夜。
 楊ぜんはいつもの如く、ピアノを弾いていた。つっかえつっかえの旋律。ぎこちなくしか動かない左手。瑠璃は随分上達が早いと褒めてくれたけれど――
 朝の早い瑠璃を気遣って、楊ぜんは瑠璃を先に返してピアノを弾く。防音設備のある部屋だから、誰にもばれないはず。あと、もう少しで上手く弾ける気がする。だからもうちょっとだけ。
 だから、夜はいつも寝るのが遅くなってしまう。
 それに、楊ぜんが一人になれるのは自分の部屋とこの時間帯しかない。部屋だって、いつ女中が入ってくるかもわからない。リラックスできるこの時間帯は大切なものだ。誰も演じない楊ぜんのままでいられる時間。
 そう。だから楊ぜんは油断しきっていたのだ。誰も入ってくるはずがないと。閉め方の浅かったドアの隙間から、わずかにピアノの音が流れ出ているのにも気付かずに。
 わずかに感じた気配にピアノから手を放すのと、後ろから抱きしめられたのとがほとんど同時だった。楊ぜんは棒を飲み込んだように動けなくなる。
 なに?
「ありがとう。わしのために弾いてくれるのか」
 耳元で囁かれて小さく楊ぜんは震えた。
 驚いていた。動揺していた。だから楊ぜんはひとつ間違いを犯してしまう。
 ぽつんと彼は呟く。
「太公望様?」
 思わず名前を呼ぶ。青華のちょっと甘えたようなお兄様と言う響きではなく。
 それは、不思議な感覚だった。太公望にとっても、楊ぜんにとっても。
 戸惑い。沈黙。逡巡。
 ぎゅっと、抱きしめる腕が強くなった。
「もっと」
「え?」
「名前を呼んでくれぬか?」
 楊ぜんは、動揺したまま小さく呟くように言った。それだけで密着した身体に、心臓がドキドキして今にも気を失いそうになりながら。
「太公望様」
「おぬしはずっと……わしの妹になろうとしてくれたのだったな」
 この人は今、青華じゃない。自分に話し掛けている。
 では、では?
 この回された腕は、楊ぜんのもの?
 そう思うと急に顔がほてってくる。
「わしは正直嬉しかったよ。でも……もうよい」
 どきりとした。
「もう、僕は、要らないんですか?」
 心が空っぽになる自分を感じながら、楊ぜんは強いて冷静を装う。置いていかないでと子供のようにすがるのだけは嫌だ。嫌われたら、潔く出て行こう。そんなことを考えながら。
「否、わしはきっとおぬしが――」
 そこまで言って太公望は言葉を切る。
「そういえば。わしはおぬしの名前も知らないのだったな。おぬし、名はなんと申す?」
「……楊ぜん」
「楊ぜんに、側にいて欲しかった」
 初めて呼ばれた自分の名前。
「嘘」
 信じられない自分がいる。
 じゃあ、青華の話は全部作り話だとでも言うのですか。
「寂れた裏路地で花を売り歩くおぬしが、それでも充分綺麗だったから」
 違うでしょう。あなたがただの花売りなんかに目を置くはずは無い。
「からかってたんですか、僕のこと。酷いなぁ」
 僕はあなたに惚れてるのに。傷つきたくないから楊ぜんは笑い飛ばそうとする。
「否、青華の話は本当だ。おぬしに面影が似ておるのも本当だよ。でものぉ、おぬしはわしのためにずっと芝居をしていてくれたであろう」
「ええ、だって。あなたはそれを望んだんでしょう」
「そう。おぬしに青華を演じさせ、わしはおぬしの兄を演じて、今は無い日常を取り戻そうとした。今はもうないものだとわかっていながら」
 そう。あなたは最初からわかってた。僕が青華ではないことを。
 判っていたはずの事実に楊ぜんはどきりとする。
「おぬしには悪いことをした」
 楊ぜんは目を見開く。あれは悪いこと。楊ぜんにとってどうしようもなく失礼なこと。しかし、太公望がそれに気がつくことなどありえないと思っていた。太公望にとって楊ぜんなど心をもった人間ではないだろう。貴族と花売りの関係なんてそれほど遠いものだ。そんなことは最初から判っていたのだ。これが結局のところ道楽でしかないことなんて。
 それでもいいと思っていた。太公望に笑って欲しかった。だから続けた。微笑んで欲しかった。否、違う。たとえ青華としてでも誰かに必要とされていたかった。
「わしの芝居につきあってくれたおぬしが、青華ではない楊ぜんが、今、どうしようもなく愛しいのだ」
 楊ぜんは回された腕にそっと手を重ねる。太公望は対等な位置で楊ぜんを見ている。普通に考えるならばありえない位置で。
「それって告白?」
 それなのに茶化すように楊ぜんは笑う。素直になることには慣れていない。楊ぜんは青華ではないのだから。
「そうかもしれぬ。芝居ではなくわしのそばにいてくれるか」
「それは……。どうせもう僕に行くところなんてありませんし」
 韋護相手に話しているのと同じ口調で、太公望と話している自分が不思議だった。
「それでは駄目だ。おぬしが望まなくては」
「我侭な人ですね」
「どうなのだ、楊ぜん」
 楊ぜんはくすっと微笑んだ。
「好きじゃなきゃ、こんなお芝居やってられませんよ。鈍い人ですね。あなたも」
「そ、そうかのぉ」
 太公望は赤くなる。
「とにかく、これでおぬしとはもう兄弟ではない。よいな」
「じゃあ、居候ですか、僕」
「そういう話をしておるのではなかろう」
「そういう話に聞こえましたけど」
 はあっと太公望はため息をつき、首を振った。
「鈍いのぉ、おぬしも」
「それって、さっきの仕返しですか」
 大人げの無い人ですねと楊ぜんは文句を言う。
「そうではなくて、だからつまり、そのぉ……いまなら、誰にもはばかり無くだな……」
 くいっと、頤に手をかけられて楊ぜんは目を見開く。
「ん?」
 くちびるにやわらかいかんしょく。
「キスできるであろう?」
 けろりと太公望は言った。
「普通やってから言いますか」
 唇に手を当て、不満そうに楊ぜんは呟く。
「なんつーか、おぬしとは最初にやっとかないと永遠に出来ない気がしたのだ」
 くすっと楊ぜんは笑う。
「ああ、それ。あたってるかも」
「で、あろう?」
 2人は同時にけらけらと笑い出した。

 それから、2人の日常はちょっとだけ変化した。

end.

novel.