ひかり、あふれる






後篇


 父がいた。母がいた。小さい頃の、子供の頃の原風景。
 三人で出かけたドライブ。お気に入りのウサギのぬいぐるみを抱え、青い海、ビーチパラソル、上機嫌だった楊ぜん。だけれど景色はそこからおかしくなる。
 ――あなた、あなた、あぶない。楊ぜん。ようぜーんっ
 母の悲鳴。交通事故。白いウサギに染み込んだ両親の血。動かない手。
 お葬式。知らない人が頭を撫でる。
 ――可哀想にかわいそうに。まだこんなに小さいのに
 ――大丈夫。大丈夫。楊ぜんは淋しくないの。だってお父様とお母様はお空にいるもの。楊ぜんもそこに連れてって。飛行機に乗ったら、いけるかなぁ
 一緒に暮らすことになった親戚の叔父様。滅多にしゃべらない。怖い人?
 ――叔父様叔父様。叔父様はお医者様。とても腕のいい。とても評判の。叔父様がいたらお父様もお母様も助かったのに。楊ぜんもお医者様になる。お医者様になってみんなを助ける。だから叔父様は楊ぜんのお師匠様。師匠って呼んでも、怒らない?
 だけど師匠はとても忙しい。休みの日も病院から呼び出される。遊園地、一緒にメリーゴーランド乗ってくれるって言ったのに……。
 真面目な顔の師匠。
 ――独立しようと思うんだ。
 病院を建てるの? 病院だったらレンガ造りがいい。シャープな建物じゃ、患者さんが怯えてしまうでしょう。だけれど、太乙先生とは会えなくなるの? やさしいお兄さん。大好きだったのに。
 ――師匠、ごめんなさい。楊ぜんは看護婦になる。看護婦になれば、師匠とずっと一緒にいられるでしょう?
 患者さんの笑顔。
 ――良くなりましたね。また来るって? 駄目ですよ。せっかく良くなったんだから。
 見上げた空はなんて青く、なんて美しく、なんて輝いて――


「それがおぬしの世界か」
「ええ」
「幸せな世界だな」
 乾いた声で太公望は言う。
「あなたも病気を治して幸せになるんです」
 楊ぜんの言葉に太公望はやんわりと首を振っただけだった。



「心が真っ黒って、想像つきますか」
「何? 彼が云ったの?」
 サニーレタスをつっついていた太乙真人は不意に顔をあげた。病院の近くのイタリアンレストラン。ここの魚介類のリゾットが楊ぜんのお気に入りなのだ。夜になるとテーブルごとにランプを灯し、揺らめく明かりの中では、まるで海のそこにいるような気分になるといったら太乙真人はムードがあるのかないのかわからないねと云って笑った。
「ええ」
「そうだなぁ、偶に君を見ているとそういう気持ちになるよ」
 にやりと太乙真人は頬杖をついて笑う。
「え?」
「世話になった先輩の娘をどうやって毒牙にさらしてやろうかと……」
「冗談ばっかり」
「なんでさ?」
「子供だと思って莫迦にしてるんでしょう」
 そういいつつ楊ぜんは子供みたいにふくれて見せた。
「いやいや、ちょうど食べごろになってきたなぁと思ってるよ。下心がなかったら夕食なんて奢らないさ」
「嘘」
 慌てて身をひいた楊ぜんに太乙真人は笑う。
「そう、嘘だよ。君は可愛いから泣かせたくはない」
「もう。真面目な話なのに」
 楊ぜんはふくれてスープをごくりと飲んだ。
「そうだね。私には考えられないな」
 不意に、ぽつりと太乙真人は言った。
「え」
 楊ぜんは顔をあげる。
「例えばさ、大きな失敗をしたとき、酷く悲しいことがあったとき、心が真っ白になることはあるだろう。世界から色が抜けてしまうんだ。そういうのならわかる」
「ええ」
 モノクロームの世界は、深い意識のそこを流れている。色があるとすれば、白と黒と、あとはどぎつい赤。ぞくりとして楊ぜんはフォークを置いた。
「やだ。嫌なこと思い出した」
「そう、そんなにも嫌な思い出でも、真っ黒にはならない。絶望はむしろ白いんだ。心が真っ黒になるとしたらそれは――憎しみだよ」
 憎しみ。
 その言葉は重く楊ぜんにのしかかる。心が真っ黒に染まるほどの憎しみ。
 彼が憎んでいるとしたらそれは――
 世界だ。
 彼にとっての世界。単に外界という意味ではない。
 それは、生きていることそのもの。
「だとしたら、僕には出来ない」
「そうかな、楊ぜん。彼は今、君にあって生きることを考えている。君風に言うならさ、君の中にある幸せな世界の存在に興味を持っている」



 三日目。
 楊ぜんが尋ねたとき、太公望はぼんやりと窓の外を眺めていた。
「何を見てらっしゃるんですか」
「外だよ」
 太公望は答える。
「おぬしの言う美しい世界を一度じっくり見てやろうと思ってな」
 楊ぜんは太公望の後ろにそっと付き添う。
「綺麗でしょう」
「ああ、だがな。心には――響かぬ」
 楊ぜんは小さく唇をかむ。
「あなたの頭の中には何が入っているのですか」
「さあ、大方歯車でも入っておるのであろう」
「太乙先生が、心が真っ黒になるとしたら、それは憎しみだろうって仰ってました」
「あやつめ、判ったようなことを」
「僕のことも、憎んでいますか」
「なんとも思っておらぬ」
「好きなことは?」
「ないよ」
 楊ぜんは黙ってずっとずっと太公望の側に立っていた。
 太公望は一度も楊ぜんを見なかった。
「もう、おぬしはこなくて良い」
 唐突に太公望は言った。
「どうしてですか」
「どうしても何もない。こなくて良い」
 淡々と太公望は繰り返す。
「理由がなければ納得できません。それにあなたはいつまでも立って歩けるわけじゃないんですよ」
「看護婦なら大学病院から呼んでもらえばよかろう。おぬしはたまたま、太乙が知りあいだから呼んだだけだし、なんならわしが誰か別のものを雇ってもよい」
 楊ぜんはじっと太公望の横顔を見つめるけれど、やはり太公望は目をあわせようとはしなかった。
「僕に不満が会ったら云ってください」
「不満? 不満などない。ただわしは――」
 太公望はそこで一回言葉を切り、それからまた続けた。
「わしが欲しいのはただの看護婦だ。医者の言うことを聞き病人の世話をするだけのロボットみたいな看護婦だ。おぬしは、やかましすぎる」
 楊ぜんはじっと太公望を見つめる。太公望が目をきちんとあわせるまで、そらす気はなかった。
「僕がやかましく云うのは、あなたに生きていて欲しいからだ」
 小さく、独り言のように楊ぜんは呟く。
「太乙様が僕を呼んだのも、あなたに生きていて欲しいからだ」
 太公望は楊ぜんを見ない。
「あなたは生きて、世界はもっと優しいことに気がつくべきなんだ。僕は時々思うんです。子供の頃、僕は両親を無くして不幸だった。世の中に自分みたいな不幸な子供はいないって思っていた。だけれど、今、僕は師匠と太乙様と、大好きな人たちに囲まれて幸せに暮らしているんです。プラスマイナスゼロ。あるいは、少しプラス。生きてるってそういうことだと思う。背負った不幸が大きければ大きいほど後に来る幸せも大きいんです」
 口の端を引き上げるようにして太公望は笑った。
「幸せな奴だのぉ」
 皮肉に満ちた言葉。
 だけれど、楊ぜんは頷いた。
「ええ、僕は幸せです。だって僕は常に幸せを見つめているもの。あなたみたいにもう起こってしまった不幸をいつまでも女々しく覗き込んだりしてない」
 はっとして太公望は顔をあげる。
 楊ぜんは目をそらさない。
「不幸は見つめ続けるとどんどん不幸になる。どんどん大きくなってやがてあなたを食い尽くす。あなたは死にたいという。あなたは負けたんです」
 楊ぜんは言い切る。。
 太公望は楊ぜんを睨みつける。
「随分と莫迦にしてくれるのぉ」
「僕を辞めさせたら、あなたは僕にすら負けたことになりますよ」
「勝手にせい」



「言っちゃった」
 楊ぜんは頭を抱えた。
「あんなこというつもりじゃなかったんです。だけどしゃべりだしたら歯止めが利かなくなっちゃって。最初から、あんなこと考えていたわけじゃないし。ああ、もう。最低。患者さん追い込んでどうしようって言うんだ僕」
「彼は追い込まれるようなタマじゃないよ」
 のほほんと太乙真人は苺のパフェを崩す。
「ほら、楊ぜん。あーん」
「そんな気分じゃありません」
 ぴしゃりと楊ぜんは太乙真人を睨みつけた。
 その時、なんとも可愛らしいオルゴールのメロディが流れ出した。
「うわ。最悪」
 太乙真人は呟くと、携帯電話を取り出す。
「もしもし――、うん、私。――なんだって? 様態は? そう。わかったすぐに行く」
 電話を切った太乙真人はすばやく楊ぜんを振り返る。
「ごめん。急患だ。デートは終わり」
 すばやく上着を羽織ながら太乙真人はふと楊ぜんを見つめ、それから早口で言った。
「太公望だ。血を吐いて倒れた」
「僕も行きます」



 ひととおり治療も終わり寝台に横になっている太公望はなおさら小さく見えた。寝台の側に椅子を寄せ、楊ぜんは太公望の冷たい手を握り締めた。
「まいったな。思ったより進行が早いようだ。うかうかしてると本当に手遅れになる」
 硬い表情で太乙真人は言う。
 楊ぜんは小さく俯いた。
「僕、全然あなたの力になれませんでしたね」
「まだ終わってないよ。過去形は使うんじゃない」
 楊ぜんは顔をあげる。
「君から彼に手を差し伸べたのに、君があきらめたら彼も終わりだ」
「酷い人。僕にばかり責任を押し付けて」
「じゃあ、君は手を引くのかい?」
 ゆっくり太乙真人を見つめた楊ぜんは静かに顔を横に振った。
「いいえ。僕はこの人に生きていて欲しいから、逃げたりしません」



 翌日。さすがに太公望は横になっていた。
 楊ぜんを見止めにやりと笑う。
「さすがにこの身体にもガタがきた。思ったより早かったのぉ」
 楊ぜんは黙って点滴を取り替える。
「昨日はおぬしも着たのだな」
「誰かに聞いたのですか?」
「いや。……声は聞こえておったから」
「そうですか」
「太乙と一緒にきたということはその前もあやつと一緒におったのか」
「ええ」
「そうか」
 点滴をセットし終えて楊ぜんは太公望を見つめる。
「生きる気にはなりましたか」
「判らぬ。おぬしは常に幸せを見つめているといった。わしにはその幸せが判らぬ」
 一度言葉を切ってから、思い出したように太公望は付け加えた。
「ただな。昨日おぬしはずっと手を握っていてくれたであろう。あの手は暖かかったよ。ああいうのは、不思議なものだ」
 それを聴いて、楊ぜんはふわり微笑む。何故か泣き出しそうになりながら。
「ああ、そうか。判りました。とっても簡単なことなんですね」
 寝台の端に小さく腰を下ろし、楊ぜんは言った。
「いいですか、絶対に動かないで下さいよ。点滴の針を外さないように」
 意を決して楊ぜんは太公望を見る。
「目を閉じて、身体の力を抜いて」
 怪訝そうな顔をしながらも太公望はいわれたとおりにした。
 そして楊ぜんは、ぎゅうっと太公望を抱きしめた。
「何をするのだおぬし」
「動かないで」
「わしはそういうのでは、買収されぬぞ」
「そんなんじゃないですったら。いいですか、あなたがあまりにもわからずやだから、僕は実力行使に出たんですよ。変な気を起こしたら、太い注射を打ちますからね」
「へ、変な気って……だって。しかし」
「いいから黙る」
 沈黙。
「あなたにはきっと、こうやって抱きしめてくれる人が、いなかったんですね。だからあなたは人の体温があたたかいことも知らないんだ」
 長い沈黙。
 太公望は結局。そのあと楊ぜんが帰るまでずっと何もしゃべらなかった。



「わぉ。やるぅ〜」
 変な声をあげてけたけたと笑い出した太乙真人を楊ぜんは思いっきりにらみつけた。
「なになに、それで? キスの一つでもしてやったの」
「してない」
 低い声で楊ぜんは呟く。
「怒ってるのかい」
「怒ってますよ。人が生きるか死ぬかって時に茶化さないで下さい」
「ごめん」
 あっさり謝った太乙真人に楊ぜんは拍子抜けしたような顔をする。
「さすがは私の楊ぜんだと思ったら嬉しくなっちゃったんだよ」
「私の? 僕はあなたのものになった覚えなんかありませんけどね」
「ああ、そうだったかな。それは残念」
「本気で言ってるんですか?」
「ああ、本気だとも」
「お生憎様、僕はあなたの言うことは信じないことにしてるんです」
 くすっと笑って太乙真人は言った。
「それは残念」



 5日目、ぽつんと太公望は言った。
「……受けてやるよ」
「え?」
「治療。受けてやる」
「本当ですか?」
 ぱっと、顔を輝かせて寄ってくる楊ぜんに太公望は笑った。
「不思議な奴だのぉ。どうしておぬしはそんな風に笑えるのだ」
「だって、嬉しいからですよ。それは」
「わしが生きようが死のうがおぬしには関係あるまい」
「そんなの。それこそ関係ないですよ。感情なんて理屈で動くものじゃないですから」
 太公望はふと考える表情になる。
「そういうものか……」
 小さな沈黙。
「わしはな。おかしいのぉ。おぬしを、喜ばせたくなったらしい。生きるのを承知したわけではないのに、それくらい妥協してやっても良いと思ったのだ」
「頑固ですね。素直に生きるって言えばもっと喜ぶのに」
「のぉ、楊ぜん」
「はい」
「おぬし、治療が続く間は、ここに来るのであろう」
「さあ、それは太乙先生が決めることですから」
「看護婦がおぬしでなければ、治療は受けぬ」
「またそういう我侭を……」
 楊ぜんは呟いてくすくす笑い出した。
 窓の外には、間近な春の日差しが輝いている。



「ブラヴォ! 楊ぜん」
 太乙真人は持っていたグラスを楊ぜんのグラスにぶつけて小さく音を立てた。
「さすがだよ。私が見込んだだけのことはある。それにしても、太公望め。私の楊ぜんに熱烈な愛の告白とはね。私のほうが顔が熱くなるよ」
「なんですか、それ。そんなのはされてませんよ」
 楊ぜんは慌てる。
「されてるじゃないか。太公望は楊ぜんのために治療を受けるって言ったんだよ。あんなに嫌がってたくせに。生きてるのを恨んでるとまで言ったくせに。これが愛じゃなくて、何だって云うの楊ぜん」
 ぱっと楊ぜんは真っ赤になった。にやにやと太乙真人は笑う。
「まあ、最後の手段だとは思ったんだ。頭から恋に落ちればさすがの石頭もまずは過去になんかこだわっていられないだろうってね」
 それを聴いて、楊ぜんは太乙真人を睨みつけた。
「太乙様、それで僕を呼んだんですか」
「まあね。だって彼、意外に面食……」
 皆まで言わせず、ぱあんといっそ気持ちよいくらいのおとが反響した。
「最っ低!」
 ひらりと身を翻し、走り去っていく楊ぜんの後姿に太乙真人はぽつりと呟く。

「仕方ないじゃないか、私が惚れるくらいの君じゃなきゃ、彼だって惚れなかっただろう? 私もそうとう天邪鬼だけどさ、これはちょっと酷いよ楊ぜん……ったく、痛いなぁ……」



 ――のぉ、楊ぜん。 それでもわしは、おぬしが側にいてくれるならば、わしにも美しい世界とやらが見えるかも知れぬと、そう思ってしまうのだ。おかしいかのぉ。わしがこんなことを言うのは……

 大丈夫。大丈夫。いつだって空は青く、微笑みは優しく、世界は光に満ちているのだから。

end.

novel.