影法師






 それは二回目の満月の夜だった。
 前回の満月の晩に、なんとなく親しくなった楊ぜんを太公望は外に誘い出した。
「寒いですよ師叔。空気が凍りつきそうです」
 口を尖らせて、不満を言う楊ぜんはそれでも太公望の後をついて歩く。
「良いではないか、せっかくの満月だ。より月のそばで見たほうが綺麗であろう」
「変わらないですよ、どんなに近づいたってたかが知れてます。たとえ仙界に行った所で、月の側になんか行けやしないんです」
「淋しいことをいうでないよ」
 楊ぜんが何かを批判して、太公望がそれをたしなめる。それがこの2人の会話のパターンだ。楊ぜんは一通り文句をいうが、それは決して本心からではないらしい。文句を言いながらも太公望についてくるのがいい証拠だ。
 だからこれは言葉遊びに過ぎない。不器用な言葉遊び。
「おや」
 ふと太公望は自分の足元に目をやった。
「楊ぜん、影が出来ておる」
「影?」
 楊ぜんは立ち止まって足元を見た。
「ああ、月明かりってこんなに明るいんだ」
 感嘆の声を漏らす。
「ほれ、外に出てよかったであろう」
「そうですか?」
 楊ぜんはやはり不満そうに呟いた。



「なぁ、太公望。おまえ最近楊ぜんと仲いいよな」
 姫発に声をかけられ、太公望はふと顔をあげた。
「だあほ、今は会議中であろう」
 前の机では周公旦が経済について切々と語り続けている。
「あいつの話は長い上にあんまり意味が無いんだ」
 姫発はひどいことを言ってにやりと笑った。
「第一、経済ナントカなんてあんたにはわかりきったことだろ」
「さあ、どうかのぉ」
 太公望ははぐらかして姫発を見る。
「楊ぜんがどうかしたのか」
「別に、ただ最近とっつきやすくなったじゃん。あんたのおかげってヤツ?」
 姫発はにやにやといった。
「わしはその手の話題は好かぬよ」
「俺、その手の話題、大好き」
 太公望はため息をついて姫発を睨む。
「別に楊ぜんとは何ともない。ただあやつはいつもわしに付き合って残ってくれるし、部下とは常にいい関係を保っておいた方が良いであろう? それに、あやつは同じ崑崙の出身だ。話しやすい。それだけだよ」
 妙に言い訳がましく太公望は口を開く。
「可愛い部下ってやつ?」
「仲間だよ」
「でも、あいつは上司だと思ってるぜ」
 太公望はちらりと楊ぜんを見た。涼しい顔で何かをつづっている楊ぜんは、太公望と姫発の会話になど気付きもしない。
「それは、そうであろう。実際。そうなのだから」
 なにか胸につっか得るものを感じながら太公望はそう云った。
「ふーん」
 意味ありげに姫発は笑う。
「おぬしわしに何を言わせたいのだ?」
「怒るなよ。俺が言いたいのはひとつだけだ」
 にやりと姫発は笑った。
「うかうかしてると盗られちまうぜ。なんたって最近の楊ぜんは凄くとっつきやすいんだから」
「何を云うかと思えば……」
「高貴な仙人様は違うかも知れねぇけどさ。人間界には、特に貴族様にはな、女より男の方がいいってやつはたくさんいるんだ」
「そこ! 会議中に私語とはなにごとですか!」
 突如響いた周公旦の怒声でその話はそこで打ち切られた。



 姫発にあんなことを云われたからだろうか、誰かが楊ぜんと話をしているのを見ると妙に気になる。
 くすくすと笑いながら誰かの話に興じるなど、そういえば昔の楊ぜんでは考えられなかった。ぴんと張り詰めていた糸が緩んでいる。あの糸は楊ぜんを縛る糸ではあったけれど、同時に確かに楊ぜんを守る糸でもあったのだ。
 守る。そこまで考えて太公望は酷く滑稽な自分に気付く。これではまるで自分は楊ぜんの保護者気取りだ。
 別に楊ぜんが誰かと話をしたり、ましてや親しくなったり、それが恋愛につながたったり、そしてその相手が例えば男だったとしても、太公望がそれに口をはさむのは間違っている。太公望はただの楊ぜんの――
 そこまで考えて、太公望は困ってしまう。
 ――わしは楊ぜんのなんなのであろうな。
 特別自分を気にかけてくれる親切な上司。
 納得できないものを感じながらも、おそらくそうなのだろうと太公望は思う。
 だけれどそれに気がついてしまえば、酷く淋しい。
 上司というのは常に部下の上にあるものだ。決して並んだりしない。
 そういえば満月の晩も、やはり楊ぜんは太公望の後ろを歩いていた。上下関係に自由意志は無い。上司の命令なら部下は聞くだろう。例え、寒い中外に出て酔狂な月見をすることでも。
 決して命令したわけではない。だけれど、上司と部下という関係上どうしてもそうなってしまうのだ。
「嫌なら嫌だといえばよいのだ」
 太公望は小さく呟いた。



 その夜。
 楊ぜんはやはり太公望に付き合って残って仕事をしていた。
 太公望は酷く息苦しい気持ちになる。
 部下だからと言って無理矢理残ってくれなくてもいいのだ。誰かを縛り付けて無理矢理一緒にいてもらうのは嫌だといったであろう。
 そんなことなら、はじめから、残って仕事などしてくれなくていい。酷く我侭に太公望はそんなことを考える。
「のぉ、楊ぜん。おぬしもう帰ってよいぞ」
 太公望はぶっきらぼうに口を開いた。
 え? と楊ぜんは顔を上げ、酷く淋しそうな顔になる。
「どうしてそんなこと仰るのです。孤独は嫌なのでしょう?」
 楊ぜんを傷つけてしまったと感じた太公望は酷く居たたまれない気持ちになった。が、一度出てしまった言葉は止まらない。
「だからと云って無理に残ってくれなくても良いのだ」
 と、楊ぜんはほのかに頬を上気させ太公望をにらみつけた。
「一緒にいてくださるって、仰ったじゃないですか」
 怒ったような責めるような口調。
 太公望はたじろぐ。楊ぜんはばたんと立ち上がる。手を握り締めて。
「あなたが一緒にいてくださるって云ったのに。帰れなんて、普通云いますか」
 憤慨している、怒っている楊ぜん。拗ねたように、子供のように。
「あ。ああ……わしはただ」
 不意に太公望はおかしくなった。そうだ。そうだった。うかつにもすっかり忘れていた。そんなことを云えば、さらに楊ぜんを怒らせてしまうだろうけれど。
 そして同時に奇妙な想いが心の中に形成される。楊ぜんが怒ってくれたことが太公望は嬉しかった。それは決して上下関係では起こりえない構図だったから。
「何笑ってるんですか、師叔」
 怪訝そうに楊ぜんは尋ねる。未だふくれたままの楊ぜんは妙に可愛らしかった。
「否、すまぬ。わしもちと不安になったのだ」
「不安? あなたがですか」
 楊ぜんは怪訝そうな顔をする。失礼な奴だ。
「仕方なかろう。中途半端なままだと不安になるのだ」
 太公望は笑う。笑って――そして気がついた。
 否、このとき、初めて太公望は意識できたのだ。
 こんなに楊ぜんのことが気にかかって、判りきっているはずのことにまでいちいち不安になるのはきっと――
 なんておかしなことだろう。自分には一生無縁のものだと思っていた。人狩りにあったときに、命は助かったけれども、自分の人間としての大事な部分は炎と一緒に燃えてしまったのだとばかり思っていたのに。
 ――それはずっとずっと、しぶとかった。
 まだ、人間なのだ、自分は。
 急に愛しくなる。まだ、そんなことを考えられる自分が。自分にそれを与えてくれた楊ぜんが。
 そうだ、云ってしまえばいい。やっと気がついたのだから。それに。
 中途半端なままだから不安になるのだ。
「のぉ、楊ぜん。わしはこれからちとおかしなことを云うが、笑うでないぞ」
「なんですか」
「訊き返してはならぬし、二度といわぬ。良いな」
「かまいませんけど」
「では云うからな」
 太公望は小さく声をひそめる。
「わしはなおぬしが好きだ」
 ほんの少しの期待と恐れと後悔を持って太公望は楊ぜんを見上げる。
 楊ぜんは凍り付いていた。
「楊ぜん、そういう反応はいささか傷つくのだが」
 仕方なく太公望はぐいぐいと楊ぜんの服の袖をひっぱる。
「なんですって?」
 漸く楊ぜんは反応した。
「だから、そういう反応は――」
「違います。その前」
「云わぬ。訊き返してはならぬといったであろう」
 太公望は拗ねた。
「師叔。僕は男ですよ。おとこ」
 なんだ、ちゃんと聴いておるではないか。
「人間界の貴族様には女より男の方がいいと言うのは常識らしいぞ」
 太公望はいささか間違った知識を披露した。
「あなたはいつから人間界の貴族様になったんですか」
 太公望は一瞬言葉に詰まる。
「そんなことはどうでも良い。おぬしはどうなのだ。わしのことが嫌いか」
 一瞬の沈黙の後楊ぜんは云った。「嫌いじゃないですけど、あなたとキスできるかといわれればそれは全くの別問題です」
「何でキスがでてくるのだ」
「だって恋人同士はキスするものでしょう」
 太公望はちょっと考える。楊ぜんの論旨はずれている。
「ちょっと待て、キスは保留だ。おぬしがしてもいいというまでしない。これでどうだ」
「そんな、僕の方からキスしてくださいなんて云えるわけないでしょう」
 ぎゅうっと手を握り締めて楊ぜんはぶんぶんと首を振った。
「おぬしはわしにキスして欲しいのか欲しくないのか」
「だから云えませんってば」
「云えないということはして欲しいのだろう」
 太公望はにやりと笑う。
「なんですか、このセクハラ軍師」
「せ、セクハラは無かろう」
「今のは絶対セクハラですよ」
「もうよい。つまりおぬしはわしのことをそんな風に思っていたのだな」
 云われて楊ぜんはシュンとする。
「そんな……こと。ないです。けど」
「大体告白すると云うのは結構しんどいのだぞ」
 太公望はふくれて見せる。
「……ごめんなさい」
 思いがけず俯いてしまった楊ぜんに、太公望はなんだか居たたまれなくなってきた。
「返事はあとでよいし、嫌なら嫌でかまわぬ。わしは二度とこの話を蒸し返す気はないし、すべて忘れる。今まで通りだ」
 太公望は立ち上がる。楊ぜんにはかわいそうなことをした。けれど、云ってしまったことに杭はない。楊ぜんの返事がどうであれ、いっそサッパリして清清しいと思った。
「莫迦な話をしてすまなかったな。今日はこれくらいにしよう。おやすみ、楊ぜん」
「待ってください」
 楊ぜんはじっと太公望を見つめる。潤んだような瞳に、どきりとした。
「真面目に聴いていなかったわけじゃないんです。嬉しくて、でも、ぼくは自分の気持ちに正直じゃないから、なんていったらいいか判らなくて……」
 俯いて握った手のひらを楊ぜんはじっと見つめた。
「嬉しかったんです。戸惑ったけど。嬉しかった」
 耳まで真っ赤になって、ぼそぼそと聞き取りにくい声で楊ぜんは云った。
「ごめんなさい。師叔。こんな僕を好きになってくださって、ありがとうございます」
 太公望は楊ぜんの隣に座る。ふと、抱きしめたい衝動が襲った。こらえるのに随分苦心した。
「ごめんなさいなのか、楊ぜん。わしの側にいてはくれぬのか、部下としてではなくて」
「だって、師叔」
「キスは保留で」
 くすっと楊ぜんは笑う。
「変な人。僕なんかじゃなくたって、あなたにはたくさんの人が笑いかけてくれるのに」
「仕方なかろう、わしはおぬしがよいのだから」
 楊ぜんはふわりと微笑んだ。

「ねぇ、師叔。目を閉じてください」

 すっと、月明かりの中で二つの影法師は一つになった。
 ――キスは保留ではなかったのか。大胆な奴め。
 これでは先が思いやられると、太公望はひっそりとため息をついた。
 勿論、その中に後悔はない。

end.

novel.