小春日物語



――それはまだ予感にも満たない――



 一通り荷物を片つけ終えたところで、楊ぜんはぺたんと寝台に腰掛けた。いい加減暗くなってきた部屋に灯りを燈す。西岐城は、きわめて質素なつくりだった。城とはいえ所詮人間界などこんなものかという、拍子抜けした思いが楊ぜんの頭の中をよぎる。王都朝歌ならばもう少し垢抜けているのだろうか。それでも、あたえられた部屋は小奇麗だったので、楊ぜんはそこそこ満足した。
 今日からは太公望師叔を補佐するため一日中人間の中ですごすのだ。
 唯一気が抜けるのはこの部屋の中だけになりそうだ。ただでさえ、妖怪の奇襲におびえている人々にこの姿をさらすわけには行かない。気合を入れるように楊ぜんは胸の前でぱんっと手を打った。静かな部屋にそれはひときわ大きく響く。
 さあ、明日は早い、さっさと寝てしまおう。
 楊ぜんは櫛を手に取り、ゆっくりと髪をすく。この時間が一番落ち着く。
 ああ、そうだ。洞府から香を持ってくればよかった。玉泉山でつくる薬草を煎じた香は薫り高く気分を落ち着けてくれる。こればかりは、さすがに豊邑にもあるまい。
 一通りの支度を終え、寝巻きに着替えようとしたところでトントントンと戸が鳴った。こんな時間に誰だろうと楊ぜんは軽く眉をしかめる。
 ついでがちゃがちゃと音が聞こえて楊ぜんはあわてた。
「ちょっと、待ってください!」
 手早く寝巻きを着て、戸を開く。
「なんだ、おぬしわざわざ鍵をかけておるのか?」
 悪びれなくそういって、不可解そうな顔をしているのは太公望だった。楊ぜんはぽかんとし、それからあわてて口を開く。
「師叔は掛けないんですか、いつ寝首をかかれるかもしれないのに」
「それは妲己の趣味ではなかろうし、普通の人間にはおくれをとることもあるまいよ」
 けろりとして太公望は答える。
「おぬし、そんなに何でもかんでも疑っておっては疲れぬか?」
 その言葉に楊ぜんはいささかむっとする。
「用心はしておくに越したことはないと思いますけれど。それにさっき僕は着替え中だったんです。返事をする前にドアを開こうとする人がいるような場所にはやっぱり鍵は必要です」
 言い切った楊ぜんに太公望はついうっかりこんなことを言ってしまう。
「女子でもあるまいし、着替えを見られたくらいでぴーぴー騒ぐでないよ」
 太公望は小声で呟いたのだが、生憎この言葉はしっかりと楊ぜんの耳に届いてしまっていた。
「悪かったですね。狭量が狭くて」
 すっかりすねている楊ぜんに、太公望は言葉に詰まる。
「いや、今のはわしが悪かったよ。だからそう、怒るでないよ」
 そうは言われても、簡単に機嫌が直るものではない。楊ぜんは膨れたまま太公望を睨み付けた。
「で、一体何しにこんなところまでいらっしゃったんです」
「荷物を片付けるのを手伝ってやろうかと思ったのだがのぉ、生憎ともう終わっておるようだのぉ」
 そう言って照れたように太公望は笑った。
 そんなことを言われてしまっては、さすがの楊ぜんも膨れているわけにもいかない。とたん、申し訳なさが頭の中に沸き起こった。
「それは、ありがとうございます。ですが、師叔の手を煩わせるようなものではありませんよ」
「そう遠慮することもあるまい。わしらはともに戦う仲間なのだから」
 邪魔したのぉと言って、太公望は帰っていった。
 残された楊ぜんは蝋燭を吹き消して寝台にごろりと横になる。
「仲間、ねぇ……」
 師でも弟子でも、上司でも部下でもない、仲間。
 いまだ、楊ぜんにその意味はわからない。

 その二週間後。
 仙人様の歓迎会だといわれては、さすがに断ることもできず、なんとか愛想笑いを崩さずに宴会から抜け出した後。
 再び、楊ぜんの部屋の戸を叩くものがあった。
 ようやく煩わしい宴会から逃げ帰ったというのに、なんだろうと楊ぜんは戸を開く。
「おお、今度は着替え中ではなかったのか」
 そういって、カカカと笑ったのはいつかと同じ太公望だった。西岐の文官武官と大いに騒ぎまくり、ふらふらになり散々酔っ払っているだろうと思われた太公望の瞳は意外にも澄んでいた。
「ちょっくらよいかのぉ」
 一応尋ねるがその身体はしっかりと楊ぜんの部屋の中に踏み込んでしまっている。仕方なしに楊ぜんは太公望を部屋に上げた。
「もう、宴は終わったんですか」
「否、たけなわであろう」
「あなたが抜けてしまっていいんですか」
「おぬしがそれを言うのか」
 太公望はさもおかしそうに笑う。
「よいよい。どうせ誰が消えたかなど判っておらぬよ」
 楊ぜんは太公望に気取られぬようため息をつく。漸く、宴から抜け出せたと思ったら今度は太公望。いつになったら休めるのだろう。
「おぬし宴は嫌いか」
 ずばりと訊かれて楊ぜんは一瞬ためらった。
「騒がしいのは苦手なんです」
 それを聞くと、太公望は思いのほかやさしく笑った。
「それはすまなかったのぉ。皆、美形の同士様に興味津々だからのぉ。疲れたであろう、悪く思わんでくれ」
「はい」
「それにしても女官どもめ。おぬしに酌をしようと競い合っておったな。化粧も随分と気合が入っておったし、今日のために新しく服をしつらえたのも一人や二人ではあるまい」
 いいながら太公望はちらりと楊ぜんを伺う。楊ぜんは決まり悪そうに俯いていた。
「こういう話も苦手、か」
「はい」
「おぬし随分と噂と違うな」
 頬杖着いて太公望はにやりと笑う。
 楊ぜんは内心ひやりとした。いつだって高飛車で傲慢な態度で人を遠ざけてきた。自分の部屋にいるという安心感からか、酒が入って疲れているせいか、気が緩んでしまっていたのだろうか。
「どんな噂をご存知なんですか、師叔は」
 にこりと笑って見せて楊ぜんは先を促す。余裕があるように見せかけて態勢を立て直す。
「プレイボーイだとか、泣かせた女は五万といるとかのぉ。実は玉鼎の隠し子だというのも聞いたぞ。これは信憑性は薄いがのぉ」
 口さがない連中とは恐ろしいものだ。
「好き勝手に言われてますね。僕のことだけならともかく、師匠の名誉にかかわることまで……ゆるせません」
「これこれ、わしが言ったわけではないよ。それに信憑性は薄いといったであろう」
「だけど……」
 言いかけた楊ぜんは、太公望の瞳にぶつかって言葉を飲み込む。綺麗な瞳だった。冬の晴れ渡った日の空のように、澄んでいて、どこかやさしく懐かしい。すべてを受け止めてくれそうで、逆に楊ぜんは怖くなる。
「それよりも、師叔は一体何をしにいらっしゃったんです。ここにはもう片付けるものなんか何もありませんよ」
 するりと目をそらし、八つ当たりのように楊ぜんは言った。
「おぬしと飲もうと思って」
 こともなげに太公望は言うと懐から桃を取り出す。
「仙桃……? そんなもの、どこから」
「なに、こちらに降りるときに元始天孫様からかっぱらってきたのだ」
 楊ぜんはきょとんとし、それから毒気を抜かれたようにくすっと笑う。
「呆れた。不良道士だとは聞いていましたが、まさか盗みを働くとは……」
 太公望が水差しを指差したので楊ぜんはうなづいた。気合とともに、桃の香が漂う。
「これは、得意なのだ」
 自慢げに言った太公望に楊ぜんはまた笑った。
「ええ、そうでしょうとも」
 おぬしと話がしたかったのだと太公望は言った。
「仕事が終わればすぐに帰ってしまいよるし、昼も一人でどこかへ消えてしまうであろう」
 それを聞いて楊ぜんは少し困る。正体を悟られないためには深くかかわらないのが一番だと思っていたが、それが返って太公望の疑惑を生んでいたらしい。
「人間が嫌いなのか」
「慣れてないだけですよ」
 正確に言うと怖いのだ。正体がばれて弾劾を受けるのは死よりも恐ろしい。
「まぁ、おぬしは仙界におる間も公式行事以外はほとんど顔を出さなかったしのぉ」
「ええ、修行しているほうが楽しいですから」
「そんなもんかのぉ」
「人それぞれですから」
 楊ぜんはにこりと微笑む。
 完璧な笑みだな。太公望は思う。美術品のように美しいが美術品のように冷たい。否、真の美術品なら温かみをもかもし出せるものだろう。だからこれは、美のみを求める不完全で冷たい芸術家が作った冷たい美術品。
 先ほどのように笑うことだってできるのに。
 はじめ、太公望は楊ぜんが性格的に人とかかわるのが好きではなくて、誰ともかかわりを持たないようにしているものだと思っていた。そして、もしそうなら、嫌われる前に一定の距離を置いた上でうまく付き合っていこうと思っていたのだ。
 しかし、ふとした瞬間に楊ぜんが見せるやわらかい微笑みやこぼれた笑いは決して太公望と話をするのを嫌ってはいない。まるで、意志の力でむりやり別の人間を演じているようだ。
「どうしたんですか、師叔」
 ふと気づくと黙り込んで自分の考えに浸っていた太公望を、気遣うように楊ぜんが見つめていた。酒には弱い性質なのか、少量の仙桃でろれつが回らなくなっているのがおかしい。否、すでに宴の席で散々飲まされたはずだから、酔いが回るのはあたりまえか。
「お注ぎしますよ」
 水差しを片手に楊ぜんは言うがその指先はおぼつかない。
「ああ、良いよ楊ぜん、自分でやるから」
 楊ぜんから水差しを引き剥がすと、力を失ったように楊ぜんの首がかくりと折れた。太公望はあわてる。
「楊ぜん、寝てしまったのか?」
 楊ぜんはむにゃむにゃと何か言っているが生憎太公望には聞き取れない。
「まだ寝るでないよ。肩を貸してやるから。寝台まで歩けるな?」
 楊ぜんはまたむにゃむにゃ言った。太公望は楊ぜんの腕を方に回して、肩を貸すようにして、なんとか楊ぜんをたたせる。それからふらふらした足取りで何とか寝台までたどり着き、楊ぜんをそこに横たえた。
「ったく、世話を焼かせおって」
 ぶつぶついいながら、太公望は楊ぜんの顔にかかった髪を払ってやる。開け放たれた窓からは月光が差し、はっとするほどに美しい。美しい人というものは性別を感じさせない。
「まるで月の精だのぉ。人間ではないようだ……」
 呟いてから太公望は柄にもないことを言ったと一人で笑った。
「のぉ、楊ぜん。おぬしが本当に笑えるようになればよいのにのぉ。何をそんなに怖がっておるのだ」
 まるで、子供を寝かしつける父親のような気分になってしまった自分に苦笑し、太公望は部屋から立ち去った。
「鍵は掛けてやれぬが、悪く思うでないよ。どうせ無礼者はわし一人であろうし」

 翌朝、楊ぜんは机の上に太公望の白い頭巾がおいてあるのを見てくすりと笑う。
「何を怖がっているかって? そんなこといえるわけないじゃないですか、あなたにだけは」
 太公望の一族が妲己に滅ぼされたというのは有名な話だ。
 くすくすくす。
 やさしい人。莫迦な人。あなたの敵である僕に情をかけるなんて。
 くすくすくす。泣き笑いのようなそれは少しだけ続く。
 だけれど、楊ぜんはまた顔を上げる。
 ゆっくりと落ち着いて、髪をすいて。
 昨日と同じ自分を演じられるように。

end or next ?

novel.