恋人ごっこ(3)



 月日は何事もなく過ぎて行くかのように思えた。
 僕は太乙様と眠り――文字通り、ただ眠り――寝る前にはキスをもらい朝起きたらキスをした。午後は一緒にお茶を飲んだし、それだけじゃない、太乙様がラボに篭っているときと私用で出かけているとき以外はずっと一緒にいた。太乙様が出かけると言えば、僕は不機嫌になったし、帰りが遅いと心配になった。
 キスするたびにどきどきしながら、小さな幸せに包まれながら、僕は太乙様と恋人になったと思い込んでいた。
 ちょうどすり事件の一ヵ月後くらいだったと思う。
 道徳様が私用で太乙様の洞府を訪れた。
 太乙様の洞府に人が訪れるのは実はきわめて珍しい。もっとも、片付けの下手な太乙様の洞府はとてもじゃないけれど、人に見せたくなるようなものではなかったし、あの人はそれを判っていてか、全然別の理由でか、自分から率先して出歩いては他愛のないおしゃべりに励んでいた。だから、太乙様の洞府は弟子がやめて僕が来るまでは留守中のほうが多かったくらいだった。
 来客の珍しさと、普段にこやかな道徳様のなんだか強張ったような顔と、太乙様と道徳様の間に流れる微妙な空気のひずみに、僕はあわてて部屋に舞い戻った。直感的に、自分はこの場所にいてはいけないのだと悟った。
 とんとんっとノックして太乙様はドア越しに声をかけた。
「楊ぜん。悪いんだけど、道徳が帰るまで、そこにいてくれる?」
「はい。わかりました……」
 僕はそう返事をしたけれど、本当のところは納得できないような思いでいっぱいだった。
 恋人の僕にすら話せないような話って何だろう。太乙様と道徳様は仲がよろしかったっけ?
 生憎僕は、外からの情報にはとことん疎く、師匠の交友関係すらきちんと把握していないくらいだったから、太乙様と道徳様のことなんかわかるはずもなかった。
 道徳様はどうやら怒っているようだった。
 何故怒っていたのだろう。たとえば太乙様が道徳様の大切にしているものを壊したとか? 逆ならありうる気もするけれど、なんだか信憑性にかける。それにだったら太乙様が 僕に聞かせたくないと思う理由としてもぴんとこない。
 部屋でうだうだと考えているうちに、僕は好奇心の虜になっていた。
 太乙様はああいったけれど、恋人のことを知りたいと思って何が悪い?
 考えたときにはもう行動していた。
 僕はいつの間にかリビングの隣の部屋で会話の内容を耳を済ませていた。
 ――妬いてるのかい? あんな子供に。
 その言葉がまず耳に飛び込んできた。
 ――その子供に、ちょっかいをかけたのは誰だよ。
 ――それは誤解だよ。玉鼎が私に預けたんだ。
 僕のことだ。これ以上聞かないほうがいいと心のどこかで警鐘が鳴ったけれど、そんなことできるはずもなかった。僕はただ黙って息を潜めて耳を澄ます。
 ――安心しなよ。あの子には何もしてない。私たちはきわめてクリーンな関係だ。
 ――いずれはするつもりだったのか。
 ――さあね。将来のことはわからないよ。あの子は綺麗だし、私が綺麗なものが好きだってこと、道徳だって良く知ってるだろう。
 ――じゃあ、おまえは綺麗な人形を可愛がるようにあの子を可愛がってるってわけか。
 胸が痛くて苦しかった。呼吸ができなくなった。綺麗な人形? この僕が?
 ――そんなことは言っていない。とにかく私はしばらくあの子と一緒に暮らすことになるだろうけど、君が想像するような莫迦げたことは起こり得ない。さらに言わせてもらえば、私はこれ以上の束縛には耐えられない。もし君が私の将来まで束縛するつもりなら……
 僕はたまらず逃げ出した。太乙様の部屋に戻るのも嫌で、はじめに与えられた物置に蹲った。
 莫迦みたいだ。甘いキスも、幸せな眠りも。全部嘘だったなんて。
 だけれど。今度は僕は泣かなかった。
 泣けなかった。悔しくて。

     ☆

「楊ぜん。そこにいたんだ」
 お茶の時間になって太乙様が僕を探しに来た。
「何でそんなところにいるの?」
「もう、恋人ごっこはおしまいです」
 太乙様はしばらく黙り込んだ。僕はかまわず続けた。
「道徳様とは、どういうご関係なんですか」
「……恋人……かな。聞いていたんだね、楊ぜん。全部」
 僕はうなずく。
「悪い子だね。言いつけを守れなかったの」
 それには答えず僕は言った。
「僕のほうが浮気相手だったんですね」
 もっとも、あなたにとっては浮気相手ですらなかったのだろうけど。
「そういう安っぽい言葉は嫌いだな」
「嫌いだろうがなんだろうが、世間ではそういうんですよ! それとも、僕のことなんか全然好きじゃなかったんですか」
「今だって君のことが好きだし、愛してるよ」
「嘘つき」
「嘘じゃない」
 そういって僕の髪をなでようとした太乙様の手を僕は思いっきり跳ね除けた。
「子供だからって莫迦にしないでください」
 太乙様は手を引っ込めて、それから、ごめん、と言った。
「判った。正直に白状するよ。いいかい? 洞府に来たころの君があんまり痛々しかったから、始めは、ちょっと慰めてやるつもりだった。本気になるわけなんかない、恋人ごっこだ。でも、その関係がいつの間にかすごく……大切なものになっていた。これは本当」
「でも、本気じゃなかったんだ」
「子供相手に本気にはならない」
 心臓にずきんっときた。
 僕は立ち上がると、絶対に太乙様の顔を見ないようにしながら彼の横を通り過ぎた。
「師匠のところに帰ります」
「それがいい」
「もう、あなたとは会いません」
 返事は返らなかった。僕はもう一回だけ口を開いた。
「でも。もうちょっと、遅かったら。僕が大人になってからだったら、本気になってくださいましたか」
 僕は言ってしまってからものすごく後悔したのだけれど、これには返事が返ってきた。
「そうだね……きっと泥沼になってたよ」

 僕は思いっきり哮天犬を飛ばして玉泉山に帰った。
 無性に師匠が懐かしかった。

     ☆

 あれから、もう随分と年月がたつ。
 僕はきっと大人になった。
 師匠はもういない。
 崑崙もない。
 僕は恋をして、そして失った。
 恋人ごっこじゃない。本物の恋だった。
 苦しくて、切なくて、大好きだったあの人。
 姿かたちを残して、面影をすら残して、別のものになってしまったあの人。
 おそらくは、もう二度と、僕の前に姿を現さないであろうあの人。
 あの人を忘れるために僕はこの道を歩いてゆく。
 初めて通る道であると同時に、いつかの僕が泣きながら通ったこの道を。
 僕はきっと間違っている。
 あの人が好きならばあの人が僕に姿を現していいと思って、僕の前に現れてくれるのをただ待つべきなのだ。
 だけれど僕は、その待つという時間があまりにも長く苦しくて、あまりにも果てしなくて、そこから逃げ出そうとしている。
 あの人が信じられないわけではない。ただ、怖いのだ。あの人が僕の目の前に現れるのが。もう、あの人が以前のあの人ではないと思い知らされるのが。そして、あの人が僕の中で完全に死んでしまうのが。
 だから僕はこの道を行く。
 あの人はきっとそれを許してくれる。
 そして、この道の向こうにいる人も、きっと僕を許してくれるだろう。
 夕日の差すテラスで、あるいはリビングで、甘い紅茶を入れながら、僕の話を何時間でも黙って聞いていてくれるだろう。僕が泣き出したら、黙ってそばにいてくれるだろう。
 それから――?
 頭をなでてくれる?
 触れ合うだけのキスをくれる?
 それとも、今度はもっと別の何かをくれる?

 ねぇ、太乙様。
 あの人を好きでいるのをやめるには、どうしたらいいですか?

end.

novel.