恋は盲目



 7月の早朝暑苦しくて寝苦しくて太公望は目を覚ます。
 まだ朝だというのに、早くも夏の日差しはぎんぎんに頑張っている。
 ごしごしと目をこすり、不快な暑さにげんなりし、外を見ようと顔を上げた太公望の目に涼しげな、青が飛び込んできた。
 空じゃない。水の色だ。それも、飛び切り深い海の色。それはホンモノの水のように涼やかに流れている。
 そういえば、昨日は楊ぜんが甘えて布団の中にもぐりこんできたのだった。で、嬉々として伸ばした太公望の腕をはねのけ、そのまますやすやと眠り込んでしまったのだ。
 可愛いやつだのぉと言う思いと、こやつ、一体何しに来たんだという不信感で太公望は胸がいっぱいになったのを良く覚えている。
 が、過ぎてしまったことはしょうがない。
 太公望はうだうだと過去にこだわるような男ではないのだ。
 そう自分に再確認して、太公望は一人悦にいった。
 とにかく目の前には楊ぜんがいて、眠っていて、とっても可愛い。その事実だけあれば十分だ。
 早起きしてよかった。夏の暑さも、こうなると急にありがたいものに思えてくるから不思議だ。
 太公望は一人にやにやした。
 抱きしめたい。ぎゅってしたい。
 ぎゅうっ。
 だけれど、するんと煩そうに楊ぜんは太公望の手の中から抜け出した。
 太公望はちょっとがっかりした気分になって、それでもなんだか名残惜しくて、さらさらの楊ぜんの髪を一房ぎゅっとつかんだ。ちょっとひんやりして滑らかで気持ちのいい髪。
 幸せな朝のひと時だ。
 そして、楊ぜんが起きだせばもっと幸せになる。
 そうだ。今日は目が覚めたとたんに楊ぜんにキスしてやろう。楊ぜんはきっとびっくりして慌てて真っ赤になって、師叔の莫迦とか呟くのだ。きっときっと凄く可愛い。
「う……ん……」
 ほら。もうすぐ楊ぜんがおきる。
 太公望はわくわくする。
「ん……」
 ぱちん。
 今だ!
 ごんっ。
 鈍い音がした。
「いたあ……」
 朝からの災難に楊ぜんが泣き声をあげた。
「何なんですか、あなたは」
 非難の声だ。
 低血圧のはずの楊ぜんがありえないほどイキナリ起き上がってしまったため、キスしようとして待ち構えていた太公望と思いっきり衝突してしまったのだ。楊ぜんのおでこは可愛そうに赤くなっている。太公望も額が痛かった。
「す、すまぬ〜」
 ありえないほどマヌケな失敗に太公望は謝るしかない。
「なんだってそんな人に覆いかぶさるように……ああっ!」
 イキナリ楊ぜんは叫んで、それから悲しいことにシーツをぎゅっとつかむと太公望から遠ざかった。
「まさかまさか、あなた」
 すぅっと目が細くなる。
「僕が寝てる間に変なことしようとしたんじゃないでしょうね!」
「そ、そんなことはない」
 太公望はおきている楊ぜんとキスしようとしたのだ。
 それなのに楊ぜんは疑い深い目でじぃっと太公望を見つめている。
「今、正直に言えば許してあげます」
 幼稚園の先生みたいに楊ぜんは言った。
「違うのだ楊ぜん!」
「どうして素直にいえないんですか」
 太公望は悲しくなった。
「わしは楊ぜんが大切だから、楊ぜんがおきてるときで、同意のあるときじゃないと変なことはせぬ!」
 太公望はため息をついた。
 幸せだった朝がちょっぴり灰色にくすんでいる。
 楊ぜんはシーツに身体を包んで膨れている。
 なんだか散々な朝だ。

 午前中だというのに太陽の頑張りすぎのせいで早くも気温は急上昇だ。風もなくそよとも空気は動きやしない。不快指数は100%を切りそうだ。
 西岐城の会議室。もっとも会議は終わった後なので、人は閑散としているが、何しろ凄い人だったものだから熱気は未だよどんでいる。
 そんな中で太公望は密かにため息をついた。
 結局、あのあと一度も楊ぜんとしゃべっていないのだ。楊ぜんはあのあとすぐに要塞の視察に行ってしまった。太公望はなんにも話せなかった。だから誤解は続行中。
「ちょっと太公望。ただでさえ暑いんだから暑苦しいため息はやめなさいよ」
 ぴんっと指を一本立てて蝉玉は注意する。
「つらいのはあんただけじゃないのよ」
 言いたいことははっきり言う主義の蝉玉は容赦ない。
 太公望はちょっと膨れる。ため息は暑さのせいだけではないのだ。
「何よその顔。あんたらしくないわね。なんかあったの」
「別に……」
「ははん。さては楊ぜんと喧嘩したのね」
 太公望はぎくりとした。蝉玉はなかなか鋭い。
「喧嘩はしておらぬ」
「莫迦ね。謝っちゃいなさいよ」
 あっさりと蝉玉は言う。
 太公望は面白くない。勝手に誤解して勝手に膨れているのは楊ぜんなのだ。それに、謝ったら自分が悪いと認めたことになる。太公望は悪いことなんてしていない。
「喧嘩などしておらぬといっておろう」
 あのあと、あんなにすぐに楊ぜんと分かれなければ、こんな嫌な思いはしなくても済んだのだ。太公望は楊ぜんの誤解を解く自信はあったし、誤解が解ければ楊ぜんだって膨れたりはしないはずだ。
 それなのに、太公望に弁解のチャンスも与えず、楊ぜんは要塞の視察に行ってしまった。距離が離れたせいで、心もいっそうはなれたみたいだ。
 はあと太公望はもう一回ため息をついた。
「あんたねぇ……」
 蝉玉も一つため息をついた。

 一方。
 要塞の視察もそこそこに、楊ぜんはずぅーんと落ち込んでいた。
 あんなこと、言うつもりじゃなかったのだ。
 太公望が楊ぜんの同意なしに「変なこと」なんかしないっていうのは実は楊ぜんが一番良く知っている。
 ただ、朝起きたら目の前に師叔の顔があって、驚いてびっくりして動転して。自分が何を言ったのかも判らないで。でも一度出てしまった言葉は消せなくて。
 そして消せない言葉はひずみをつくった。
 いたたまれなくて、楊ぜんは逃げ出すように城を後にした。
 なぜ、ごめんなさいといえなかったのだろう。
 なぜ、素直になれないのだろう。
「元気ねぇなぁ。楊ぜん殿」
 振り返れば黄飛虎がにやりと笑っていた。
「また、小難しいこと考えてるんだろう」
 楊ぜんはちょっと動揺する。
「難しいことではないんです」
「そうなのか。ならなんだって、あんた。そんな浮かない顔してるんだよ」
「ええ、でも。簡単なことが僕にとっては難しいんです」
 楊ぜんは苦笑する。
 飛虎はがははと笑った。
「駄目だなぁ、楊ぜん殿。仙人様って言うのはどうしてそう、簡単なことを難しく考えちまうんだ? それともそれは、楊ぜん殿が天才だからか」
 楊ぜんは困って苦笑する。一人になりたかった。
「簡単なことは簡単に解決するのが一番なんだよ。謝っちまえよ。楊ぜん殿。それが一番簡単で巧いやり方だ」
 邪魔したなと言って飛虎は帰っていく。
 楊ぜんははっとして、振り返った。
「どうして判ったんですか!」
「あんたが悩むことなんてそれ位しかないだろう」
 楊ぜんはぱっと赤くなった。
 いたたまれない。恥ずかしい。感情を隠すのは得意だと思っていたのに。自分はまるで子供みたいにころころと表情を変えているのだろうか。あの人の一挙一動に。
「いいじゃねぇか。お利巧さんのままじゃ、機械仕掛けの人形とかわらねぇよ。太公望殿と会って、あんた良くなったよ。凄く」
 楊ぜんは困惑して飛虎を見つめる。
 簡単で巧いやり方。
 それはたぶんきっと……楊ぜんは微笑む。多少ぎこちなくはあったものの。
「……ありがとう」
 飛虎は笑う。
「ほら、簡単だろう」
 素直じゃない楊ぜんはちょっとだけ素直になった。

 夏の空は高く、星座がきらめく。
 星座の海の中を楊ぜんはひたすら、哮天犬でびゅーんっと飛ぶ。
 熱帯夜も風の中では辛くない。ばたばたはためく髪も今の楊ぜんには気にならない。
 ちょっとのことですぐ怒ってかっとなって。なんて自分は情けないのだろう。このままじゃ、きっと太公望だって愛想を尽かしてしまうに違いない。師叔があの優しい笑みを自分に向けてくれなくなったら、きっと楊ぜんは氷河期の氷の海の中に頭から突き落とされたような気持ちになるだろう。
 だから、謝って、仲直りするのだ。
 決意を胸に楊ぜんは哮天犬を飛ばす。
 西岐の城は眠りについている。そこそこ夜目の利く楊ぜんには灯りなんかいらない。それに目指す場所は、何回も訪れた場所。
 楊ぜんはノックもなしにするりと部屋に入り込むと、そっと寝台に近づいた。
「師叔……」
 小さく呼びかけて軽く身体をゆする。
 寝ぼけた太公望は楊ぜんを抱き寄せようと手を伸ばした。楊ぜんはその手をやんわりとつかむ。お堅い楊ぜんにはこのままらぶらぶして、すべてをうやむやにしてしまおうなんて考えは到底浮かばない。謝ると決めたら、謝るのだ。
「師叔。すーす、起きてください」
「よーぜん。おいで」
「師叔!」
 ちっとも話を聞いてくれそうにない太公望に怒った楊ぜんは、太公望の頬をぎゅいっとつねる。
「痛いいたいいたい」
 太公望はやっと目を覚ました。
 楊ぜんは恐る恐る謝る。
「ごめんなさい」
「よいよい」
 ほおをさすりながら太公望は言った。
 楊ぜんはホッと安心して、そのまま太公望の布団にもぐりこむ。
 太公望は喜々として楊ぜんに手を伸ばしたのだけれど、楊ぜんはその手をするりんと抜け出ると気持ちよさそうにすやすや眠りだした。
 何しにきたのだろうと太公望は肩を落とす。
 可愛い恋人は、たまにわからない行動をとる。この場合、相手が女だったら異性の行動はわからないと素直に首をひねることもできるのだけれど、楊ぜんは同性だから太公望はなんだか納得できないまま首をひねることになるのだ。
 勿論彼は、楊ぜんが今朝の出来事に対して謝りにきただなんて想像すらしていない。頬をつねって無理やり起こされたことに謝られたのだと思っている。
 かくして、太公望の悩みはどんどん増えていくのだ。
 そして、それでも彼は幸せな眠りに着く。

 翌朝、低血圧の楊ぜんが今日の出来事を忘れて悲鳴を上げて飛び起きることも、そしてうっかり寝顔を鑑賞してしまった自分と正面衝突することも、楊ぜんに誤解されることも、楊ぜんが要塞の視察に行って、黄飛虎に心配されることも。
 未だ、太公望はわからない。

end.

novel.