薬
部屋には血のにおいが充満していた。
水と薬丹を運んできた楊ぜんはそのにおいに眩暈を起こす。血のにおいは苦手だ。自分の中の眠っている妖しの部分を呼び起こす。身体の中の何かが暴走を始めようと騒ぎ出す。ごくりと唾液を飲み込み、なんでもない風を装う。
部屋の主は寝ていた。未だなくなった左腕に巻き疲れた包帯からは血が染み出している。大量の出血と血の薫る甘いにおい。おそらく人間だったら助からなかった。
楊ぜんはそっとその顔を覗き込む。子供のような寝顔は苦しそうで、息が荒い。額に手を当てるとじんわりと熱い。おそらく傷口からたちの悪いウイルスにでも感染したのだろう。すぐに仙界へ運んでしまえばよかったのだが、本人が嫌がった。いくら綺麗な布を求めたところで戦場で集まるものなどたかが知れている。感染はいわば必至だった。
水を絞った布で顔を拭いてやると幾分表情が和らいだ。
中身は自分などよりもずっと老成しているとわかってはいても、目を閉じた姿は子供のようにあどけない。胸が痛んだ。そして、そんな自分に少しだけ驚いた。
不意に子供のころ高熱を出したことを思い出した。妖怪の自分には人間用の薬が効かず、随分と師匠を心配させたものだ。あの時の師もこんな気持ちだったのだろうか。
妖怪の自分にも人間のような心があった。何か暖かいものが心の中に灯った気がした。
「師叔。ちゃんと薬を飲んでくださいね」
右肩をゆすったが起きる気配がない。しばらくそうしていたが埒が明かない。
薬丹を水に溶かし、水溶液を作る。緑色の水は見た目にも不味そうだが、仕方がない。寝ているのだから文句も言えないだろう。
上半身に腕を回し、わずかに起き上がらせ、唇に吸飲みをあてがう。が、少し飲ませるとむせ返ってしまう。楊ぜんは困り果てた様子で太公望を見つめた。
第二案はあるのだがいささか抵抗がある。こんなことならアンプルにすればよかった。注射嫌いの太公望を思ったのが仇になったようだ。
「師叔。起きてるんじゃないでしょうね」
繰り返されるのは浅い息。
「苦い薬が嫌だから狸ね入りとか……してませんか」
それは流石にないだろうと思いつつも、楊ぜんは太公望を伺った。
しばらく様子を見てため息をつく。どうしても薬は飲んでもらわなければならない。
「意識、ありませんよね……」
白いやわらかそうな二の腕をぎゅっとつねってみる。
反応がないのを確認すると、楊ぜんは扉が閉まってることを確認した。
誰も見てない。だから、大丈夫。
緑の水溶液を口に含む。
ないとは思うけど、これがファーストキスじゃありませんように。
そうだとしても恨まないでくださいよ。まったく。
それだけ祈って口付けた。
喉仏が上下するのを確認してからそっと身を離す。
ほっとした。これで終わりだ。早く外に出なければ。
「これでよくなります」
言い置いて、身を翻そうとすると何かに阻まれた。
袖口を引っ張られるような感覚。
ぎょっとした。
太公望がいつの間にか袖口を握り締めていた。
意識があった? 気づいていた? どこから? いつから?
どくんどくんと脈打つ。薬が必要なのは自分だ。
落ち着け。落ち着け。これはきっと無意識の行動。赤子が母親の髪を握るような。
そっと手を握り手をはずそうとするが、強く握り締められていてとれない。
血のにおいに頭が朦朧とする。
力が入らない。
師叔……
翌朝。妙にすっきりした気分で太公望は目覚めた。身体を起こそうとし、左手がないことに気づく。それから右手が何かを握り締めていることも。
はっとして目をやると、鮮やかな青。
白い顔に長い睫。そして流水のような青い髪。朝日に反射しひどく綺麗だった。
混乱する。楊ぜんが何故? 否。看病をしていてくれたとでも言うのだろうか。
こやつが? わしを?
しかし。
そういえば、昨夜は奇妙な夢を見た。
「師叔! 元気になったさ?」
ばたんと勢いよく扉が開いて天化が顔を出した。
「あれ。楊ぜんさん結局ここに泊まったの? よくやるさね、この人も」
太公望はぱちぱちと瞬きをする。よく状況が飲み込めない。
「ま、起き上がれるようになったのは良かったさ。さすが、楊ぜんさんさね」
「楊ぜんが看病してくれたのか?」
「あーたが全然良くならないから、自分が治してみせるってオウサマと賭けを……じゃなかった、心配して薬丹つくるって頑張ってたさ」
「そうか」
太公望は笑った。そんなところだろうとは思っていた。
昨日のはやはり、ただの夢だったのだ。
やがて小さなうめき声とともに楊ぜんが覚醒する。
太公望を見つめ、無意識に指が口元をさまよい、やがて勝ち誇ったようににこりと微笑んだ。
「だからいっただろう。僕の薬は周の薬なんかよりずっとよく効くんだって」
end.
novel.
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