町
04.儀式
太公望は目を閉じたが眠れたものではなかった。
二、三度楊ぜんに声をかけたが返事は返らない。やはり死んだように眠っているのだろうか。息遣いもなにも感じられない。自分ひとり取り残されたようで太公望は孤独になる。
闇のなか考える。太公望が戻らなかったら、友は探してくれるだろうか、両親は泣くだろうか。恋人――もとよりそんなものはいない。
ふいに故郷にいる幼馴染が、まぶたの裏に現れた。細い華奢な身体にやわらかい髪。子供のころは女の子みたいだとさんざんからかわれたけれど、本当はその容姿とは正反対に意志が強い。彼――普賢はいつもやわらかく微笑んでいた。
「ダメだよ。望ちゃん」
普賢は言う。
「みんなが悲しむよ」
「みんなって誰だ」
「みんなだよ。おじさんやおばさんや、君の兄さんや邑姜や、韋護君や姫発や、勿論僕だって」
太公望は微笑んだ。
「みんな遠いのぉ」
すでに故郷をたってから何十年も立ってしまったような気がした。
「遠くないよ」
「わしはここに残るよ」
「僕たちを捨てても?」
太公望は少しばかり戸惑った。
「捨てるわけではない」
「でも、望ちゃんは人間を捨てて化け物になるんでしょう? 血に飢えた化け物になるんでしょう?」
淡々とした口調で普賢は言う。
ぞくりとした。いつかのわれを忘れた楊ぜんの姿がありありと浮かんだ。
あんなふうに、自分がなる。目の前に普賢が立っても、太公望は普賢を捕食対象としか認識できなくなる。まがまがしさに怖気が走る。
「戻ってきてよ。望ちゃん」
その声は酷く甘い。
が、戸惑った後、太公望はゆっくりと首をふった。
「わしのことは忘れてくれ」
「どうして?」
「おぬしはわしがいなくとも平気であろう? 父上も母上も兄と邑姜がおるのだから」
普賢は訴えかけるような目で太公望を見つめている。
「こやつはわしがいなければ……」
「その子だって、望ちゃんがいなくても生きていけるよ。妲己も趙公明もいるんだから」
珍しくきつい調子で普賢が太公望の台詞をさえぎった。趙公明という名前に思いがけず身体の奥深くで嫉妬の炎が燃え上がるのを太公望は感じた。
「楊ぜんだって、そのうちあきらめる。その子はもうなっちゃったんだから。やがてそういうものとして平和に暮らすよ。望ちゃんだってわかってるはずだよ。それが楊ぜんのためなんだ」
そう、わかっている。太公望は強く自らのこぶしを握り締めた。
「わかった。普賢。正直に言おう。わしが残りたいのだ」
「どうして?」
普賢は尋ねる。
「血に飢えた化け物のこやつを、愛している」
「狩られるかもしれないよ。いつかこの町は人間に見つかる。古くから怪物の代表格として恐れられていた吸血鬼だ。きっと人間はただでは済まさない」
「こやつ一人くらい。守り抜くよ。それも果たせなければ、二人で死ぬのも悪くない」
薄く笑って太公望は付け足した。
「こやつは死にたがっておるようだしのぉ」
「そう」
普賢は微笑んだ。
「それじゃあ、仕方がないね……」
そう。仕方がないのだ。すまぬのぉ、普賢。
目が覚めれば、すでに朝だった。
奇妙にさっぱりとした目覚めだ。頭の中で決着がついたからか。心の中で太公望は普賢に礼を言った。
扉の近くにうずくまるように楊ぜんは寝ていた。朝日の中浮かび上がった白い顔は美しかった。頭を胸に抱きかかえるように抱き起こしてもぴくりともしない。肌は冷たく、いくら抱きしめても熱は移らない。呼吸も感じられない。人形か、さもなくば死体のようだ。
楊ぜんが目覚めるまで太公望はそうしていた。
やがてぴくりとまぶたが動き、手足に軽く力が入り、ゆっくりと楊ぜんは目を開ける。花が開く瞬間を目撃するように、太公望はその一部始終を感嘆を持って見守った。
「おはよう」
耳元で囁く。楊ぜんは未だぼんやりとした瞳で太公望を見つめる。
「どうして……?」
やがてすべてを悟ったように楊ぜんは呟いた。
「簡単なことだよ。すべてを失ってでも欲しいものがある」
楊ぜんは困ったように微笑んだ。
「あなたが望むのですね」
「そうだわしが望むのだ」
「この永遠の地獄を味わいたいと」
「地獄の中でおぬしを抱きしめたいと」
それは静かな儀式だった。
朝の銀の光の中、二人は口付けを交わし、血を分け合った。
うねるような酩酊。頭の心がぼおっとし、とろけてゆく。
唇を離し、目を開ければ陶酔した楊ぜんの顔が間近にあった。そのまま、むさぼるように楊ぜんを抱きしめた。
二度目の目覚めは鈍い痛みとともに訪れた。
隣で眠る楊ぜんの肌は冷たい。痛みが空腹のためだと気がつき、太公望はあせる。自分は化け物になったのではなかったか。何故、普通に腹が減るのだろう。なぜ自分の肌は暖かいのだろう。
起き上がろうとすると、楊ぜんが気がついた。目で問う太公望に楊ぜんは答える。
「あなたは選ばれなかったのです」
「何故……?」
息を殺して太公望は尋ねる。
「さあ、何故でしょう。中途半端な僕が血を授けたのがいけなかったのかもしれない。でも、僕だって吸血鬼の血は受け継いでいる。あなたはつまり、そういう体質だったんですよ。僕が半分しか血を受け継げなかったのと同様に、あなたの身体は僕の血をまったく受け入れなかった。以前にも言ったでしょう? 稀にそういうこともあるんです」
太公望は混乱した。覚悟は決めたと言うのに、このあっけない幕切れはどうだ。
「僕にはあなたが少々憎らしい」
そういって楊ぜんは黙り込んだ。黙り込んだまま天井を見つめる。どうしてよいかわからずに、太公望は感情の赴くままに楊ぜんの輪郭をなぞった。太公望の手を煩そうに押しとどめ楊ぜんは口を開く。
「選ばれなかった以上、あなたは帰るべきです。帰り道は僕が何とかする」
その台詞にいささか太公望はカチンと来る。
「おぬしとともに地獄に落ちるといったであろう?」
「あなたは地獄には選ばれなかったんです。僕は化け物だけれど、あなたは未だ人間です」
「人間とか化け物とか、そんなのどうでもよかろう? わしはわしだし、おぬしはおぬしだ。わしがおぬしを好きなことに変わりはないし。それともおぬしそんなにわしが嫌いなのか!」
怒りに任せて太公望は叫ぶ。
「どんなに飢えてたって嫌いな人と血を交わしたりしません!」
起き上がって楊ぜんは叫んだ。怒りで頬が高潮している。美しかった。
「僕はあなたのために帰るべきだって言ってるんですよ。この分らず屋!」
「わしはここに留まると言っておるであろう。分らず屋はおぬしのほうだ!」
楊ぜんは黙ってベッドから降りた。上着を羽織る。
「逃げるのか」
太公望は挑発した。
楊ぜんは振り返って太公望をにらみつけた。瞳が紅い。
「ここに留まるってことは、あなたは僕の餌として一生僕に飼われ続けるってことだ」
いやみをたっぷりこめて楊ぜんは笑う。
「おぬしそこを勘違いしておるよ」
太公望は笑った。
「さっきおぬしも言ったではないか、嫌いな人と血を交わしたりはせぬと。つまり血を交わすという行為は、おぬしたちにとって愛情表現の一種だ。昨夜の妲己の言葉を考えれば性愛とも似たものがある。その対象が餌なわけあるまい?」
楊ぜんの瞳が揺らぐ。戸惑っている。否、これは羞恥か。
調子に乗ってにやにやと太公望は言葉を続けた。
「一生、おぬしと血を交わせるとなれば、それはさぞかし……」
皆まで言わせず、楊ぜんの白い手が太公望の頬をぶった。情け容赦なく打ったらしく、ひりひりと頬に痛みが走る。
「変態」
服をきちんと着こんで、楊ぜんは仮眠室から飛び出した。
太公望は慌ててあとを追う。あんまり慌てたものだからシャツのボタンは掛け違えるし、スニーカーの靴紐は半分取れてしまっているし、酷い有様だ。
「の、のお。待たぬか。楊ぜん」
当然、楊ぜんが待ってくれるはずもなく、彼は早足で誰もいない町をすたすたと歩いていってしまう。太公望は靴紐を足に引っ掛けないように、懸命についていく。
「のお。どこに行くのだ!」
太公望が何度目かに声をかけると漸く楊ぜんは振り返った。町の中央の噴水。二人が最初に出合った場所だ。
「家に帰るんですよ」
そういってから楊ぜんは、始めて太公望の格好に気がつき、くすくすと笑い出した。
つられて太公望も笑う。
「誰も起きていなくて良かったよ」
「恥ずかしい人ですね」
「だあほ。わしはこれでも身だしなみには結構気を使うタイプなのだ。たださっきはおぬしが急に出て行ってしまうから……」
楊ぜんはまたくすくすと笑う。
それから吹っ切れたようにまぶしそうに空を仰いだ。
「実は僕にはまだここから出る方法がわかりません。だからわかるまでは、あなたを僕の家に置いておいてあげます」
おぬしまだ言うかと太公望は言いかけたが、楊ぜんがそれを目で制した。
「いいですか。外に出る方法が見つかったらあなたは外に帰って人間として暮らすんです」
「嫌だといったら?」
今度は黙っていられずに太公望は口を挟んだ。
「最後まで聞いてくださいよ」
楊ぜんは困ったように微笑む。
「あなたは人間としての人生を楽しんで、でも3年に一度だけ、ここに戻ってきてください。戻ってきて僕に人間の世界のことを教えてくれるんです」
楊ぜんはにこりと微笑む。その表情から、彼が早くに出奔してしまった人間社会に憧れを抱いていることが伺えた。
太公望は微笑む楊ぜんの口元に口付ける。
「外の世界への道など、見つからぬよ」
「がっつかないで。昨日あげたでしょう?」
楊ぜんは笑う。
「外の世界では、血を交わすためにではなくこうするのだ」
「ええ。外の世界での愛情表現については昨日あなたから嫌ってほど教えていただきましたからもういいです」
「わしはよくない」
「はぐらかさないで」
楊ぜんはいって、小指を立てる。生真面目な、子供のようなしぐさだった。
「約束です」
ゆっくりと太公望は楊ぜんの小指に自らの小指を絡める。そしてゆっくりと口を開いた。
「もっといい方法がある。楊ぜん。逃げよう」
楊ぜんは驚いて逃げかけたが太公望は小指に力を込めた。
「外に出る方法がわかれば、わしだけではない。おぬしだって出られるではないか」
「だって、僕は吸血鬼です」
「平気だよ。おぬしは昼でも起きていられるし、血ならいくらでもわしのをやる」
「そんな!僕は年をとらないんですよ」
「定住しなければ大丈夫だ」
「あなたに迷惑がかかる」
「百の迷惑がかかってもおぬしと一緒がよい」
「でも……だけど……」
楊ぜんは太公望をにらみつけた。
「あなたは僕より先に死ぬんですよ。その先僕はどうすればいい?」
「安心しろ」
太公望は悪魔のように囁いた。
「わしが死ぬ前におぬしを殺してやる」
「嗚呼」
楊ぜんは放心したように呟いた。
「なんて酷い人だろう」
だけれど、その瞳にはやがて紅い光がともる。それは、怒りでも絶望でもなく、儚い希望だ。
太公望はその光を確認すると、もう一度楊ぜんに口付けた。
一緒に行こう、楊ぜん。
end.
novel.
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