夢魔
後編
「あなたが出てきたってことは、ようやく僕との決着をつけてくれる気になったんですね」
押し殺した声で楊ぜんはそう言った。
と、ほんのわずか、伏羲の手に力がこもる。楊ぜんを押さえつけたまま、伏羲は楊ぜんの首筋に顔を押し付けるように口付けた。
「楊ぜん」
くぐもった声。ぞくぞくする。楊ぜんは努めて動かなかった。
「わしにおぬしを殺させないでくれ」
「ふざけるな!」
とたん、楊ぜんは伏羲の腕を振り払い、相手を蹴りつけようとした。
が、伏羲の力は存外強く、楊ぜんはぴくりとも動くことができなかった。悔し紛れに楊ぜんは歯を食いしばる。口の中が切れて、鉄の味がした。
「楊ぜん……わしが、許せぬか」
「許すとか……許さないとか、そういう問題じゃない」
低い声で楊ぜんは言う。
「あなたなんか、認めない」
伏羲は黙って楊ぜんの声を聞いていた。その声が自分の身体の深い部分に浸透するまで。
「僕は、あなたなんか認めない。あなたの存在なんか認めない」
抵抗のできない身体で、必死に抵抗を試みる楊ぜん。
「僕の……あの人の……師叔の身体で僕に触れるな!」
かわいそうだ。
不意に伏羲は思う。このちっぽけで、かよわい命は――事実、始祖の力をもつ伏羲にとって仙界の教主といえどその力などそんなものだった――なんて、哀れなのだろう。
おぬしは、未だ師を父を殺した男と、自分がただ一人愛した男が同一人物であったと、認めることができぬのだな。
そして、その哀れな命が、何故かたまらなく愛しい。
それは伏羲にとっては非常に意外な、驚くべき感情だった。伏羲が、太公望としてではなく、伏羲のものとして初めて感じた楊ぜんへの感情。
無論、太公望は確かに伏羲と同一のものではある。あるはずだった。
だが、人間の子供を器として借り入れた太公望という人格は、もとの子供の人格が残ってしまったのか、はたまた、人間として人間によって育てられたせいか、若干伏羲の手を離れたものとなった。故に太公望の楊ぜんへの想いは、確かに伏羲のものではあったのだけれど、同時に誰かの思考をトレースしたような、どこか他人行儀なものでもあったのだ。
太公望という人格も、伏羲の中では未だ自分の中に存在する同じ記憶を共有する居心地の悪い他者のように思えてならなかった。
それが。
ようやく、本来の意味で融合を果たしたと言うべきか。はたまた、伏羲が太公望により侵食されたというべきか。否。どちらも同じことだ。なぜなら。
否。今はただ、自分の腕の中にある、このいのち――
「わしを認めぬか」
「認めません」
「では、今おぬしを縛めておるのはだれか」
「そんなもの、存在しない」
くすりと伏羲は嗤う。
これは、嫌われたものだ。
「それでも、おぬしはわしと決着をつけるというか」
「あなたが僕の父と師を殺した」
「存在すら認めぬわしがか」
「そんなこと、関係ない」
「結果など、つけなくともわかっておろう」
「……。それでも。僕は決着をつけなければ」
沈黙。
「おぬしは未だ必要だ」
沈黙。
「仙界にとっては。太公望もそれを望んでおる」
否、望むだろうと思っていた。あるいは推測していた。
だから。伏羲は太公望の餞に、一番卑怯な方法をとったのだ。
「その子供は太公望の子供だよ。わしの部分は微塵も入っておらぬ」
そうすれば、楊ぜんは生きていざるを得なくなる。伏羲と決着をつけることもできなくなる。なぜなら楊ぜんが伏羲と決着をつけるということは、イコール楊ぜんの死と結びつくということはあまりにも明白なのだから。
否、否。そうではない、伏羲は自分のために楊ぜんを生かしておきたかったのだ。なぜなら太公望は伏羲であり、伏羲が愛したのは楊ぜんであったから。太公望なんてはじめからいなかったのだ。いたのは伏羲ただひとり。はじめからそうだったのだ。ただ、あまりにも人間に毒され――それとも感化され?――変わっていった自分の一部分を伏羲が認められなかっただけで。
「師叔……」
伏羲の言葉に楊ぜんはわずかに身じろぎする。
「では、あの夢は師叔が……?」
「そうだ、わしのなかの太公望がやったのだ」
わしが太公望を利用してやったのだ。
しかしその太公望でさえ、伏羲自身。かつて、楊ぜんをその腕に抱いたのも、間違いなく伏羲の一部分ではあるのだ。
伏羲自身ですら混乱しそうな伏羲と太公望の関係を、楊ぜんが理解するかどうか。
それに。かわいそうではないか。
伏羲は思う。楊ぜんが伏羲と太公望が同一人物であると認めるということは、父と師を殺したのが太公望であると認めることにもなってしまう。真実はあまりにもつらいだろう。
だから。おぬしの父と師を殺したのは太公望ではなく、わしなのだ。
おぬしの太公望は、おぬしを裏切るようなことはしないであろう?
「ああ、師叔」
するん。
いつのまにか、伏羲の力が弱まっていたのか、楊ぜんはするんと伏羲の腕の中から抜け出した。そしてそのまま自分のお腹をなでる。
「では、あの人は、まだどこかにいらっしゃるのですね」
夢見る人のように楊ぜんは微笑む。それからきっと伏羲を睨み付ける。
「出て行け。もうあなたに用はない」
伏羲は肩をすくめる。
「産むのか」
「あなたには関係ない」
伏羲は再び肩をすくめた。
「それはさぞかし、太公望が喜ぶであろうな」
そして今度は、空気に溶け行くように消えていった。
楊ぜんは気抜けしたように息をついた。それから、急に泣き笑いの表情。楊ぜんはそっと手で顔を覆った。
あなただ。あなただった。
あれはあなた。
☆
「それで、結局産むことにしたのかい?」
小さな音を立てて、オレンジジュースに浮かんだ氷が溶ける。
「うん。だって師叔の子供だから」
楊ぜんははにかんだように笑う。まだ、お腹は大きくはなっていないものの楊ぜんはゆったりしたマタニティドレスを着ている。頬の線が少し緩やかになったようで、綺麗になったなと韋護は思った。
「師叔って言うと、その、太公望の」
「君の言いたいことはわかるよ。太公望師叔はもういなくなってしまったって言いたいんだろ」
「まあね」
本当のところ韋護が言いたかったのは、太公望と伏羲は同一人物なのだから、やはりそれは伏羲の子供だということになるんじゃないかとかそういうことだったのだが、それを言えば楊ぜんが興奮するのは明らかだし、胎教に悪いのも明らかだったので懸命にも何も言わなかった。
楊ぜんは未だに太公望と伏羲を分けて考えているようだし。
「でも、師叔はいるんだよ」
楊ぜんはにっこりと微笑む。
それはあんたの夢の中にかい? その台詞も韋護は喉の奥に飲み込む。
楊ぜんはそんな韋護の様子にかまうことなく台詞を続けた。
「伏羲の中にね」
「はい?」
思わず韋護は頓狂な声を上げる。
「韋護君、うるさいよ」
とたん、楊ぜんは迷惑そうに眉をしかめる。それから、一つため息をついて続けた。
「皆、誤解しているみたいだけれどね。僕だって師叔と伏羲が同一人物だってことは理解してるんだ。僕はただそれを否定したかっただけなんだよ」
「頭ではわかってても、心の中では認められないとかそういうこと?」
「うん。だって僕の師叔が師匠や、その、父を殺した奴と同じなわけないだろ。だから僕は伏羲が現れたことによって師叔が死んじゃったんだと思い込もうとしたわけ」
思い込もうとした、ねぇ。極端な。
「だけれど、こんなことされちゃったら」そういって楊ぜんはお腹をなでる。「認めざるを得ないじゃないか。おまけにこれはあの人の子で、伏羲の部分は――言い換えれば王天君の部分はないっていうんだよ」
これは、ひょっとして。韋護、だんだん嫌なことに思い当たる。
これは、ひょっとして、楊ぜんが気づいていないだけで盛大なのろけという奴ではあるまいか。だから、伏羲はこんなに僕のことを愛しているんです、とか続けようと思えば続けられる気がする。
「それで太公望の子供か」
「そう、伏羲がくれた、ね」
くすっ。楊ぜんは笑う。
「夢の中で、僕にあってたのは、やっぱり伏羲なんだよ。わかる? 韋護君。君、今わけがわからないって顔に書いてあるよ。すっごく面白い顔してる」
「そりゃ悪かったね」
「凄く簡単なことなんだ。さっきも言ったろう、伏羲の中に師叔がいるんだよ。だからこれは伏羲がくれた師叔の子供」
「じゃあ、なんでそんなつれない態度とったんだよ。恋人だろう太公望は」
「恋人……だったのかな。あの人の存在は大きすぎて僕には良くわからないんだ。だけどね、韋護君。あの人は僕になにかけじめみたいなものをくれるつもりだったんじゃないかなって思う。あの人を忘れるためのね」
「それが子供だっていうのか? それは普通逆だろ」
「普通はね。でも僕の場合はそうじゃない。この子がいなければ、僕はずっと伏羲と決着をつけることだけを考えて生きていたと思う。それで死んでもいいと思っていた。というか、死ぬつもりだったんだ僕は」
「穏やかじゃねーな」
「でも、この子がいるから僕は生きなくちゃいけない。あの人との決着をあきらめざるを得ない」
「それがけじめか」
「うん。僕はもう、あの人の影を追わずに生きていけるんだ。あの人は一度終わらせたかったんだよ」
「どうして」
楊ぜんはにこりと微笑む。
「終わらなければ始まらないから。だから、あの人は太公望師叔として幕を引く必要があったんだ」
「で、伏羲としてはじめるって言うのか。そりゃごちそうさま」
「ちょっと韋護君。何すねてるんだい?」
「すねてねーよ」
「すねてるじゃないか」
「すねてないって」
くすっ。楊ぜんは笑う。
「子供みたい」
☆
あれから、楊ぜんは白い花畑の夢を見ることはなくなった。伏羲もあれ以来現れない。
楊ぜんは自分で白い花を買うと花瓶にさして窓辺に飾った。
☆
一面の白い花。
伏羲は今、そこにいる。時折風が渡り、花々を揺らす。
そして、青い髪の人に思いを馳せる。
ようぜん――。
end.
novel.
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