青葉抄 後編
「楊ぜん、新しい女官は気に入ったか」
楊ぜんの髪を梳きながら、寝物語に伏羲は語りかける。
意識はすでに眠りに引き込まれつつあり、ぼんやりとしながら楊ぜんは頷いた。
「面白い娘ですね」
「うむ。頭の回転が速い。そうでなければ、おぬしも退屈だろうと思ってのぉ」
「あなたが選んだとか」
「無論、おぬしのために容姿も器量も申し分ないものを選んだよ」
「あなたはもっとおとなしい娘が好みなのだと思っていました」
うつらうつらしながら楊ぜんはつぶやく。
「わしのための娘ではない。おぬしのための娘だからのぉ」
くすくすくすと伏羲は小さく笑った。
楊ぜんはその笑い声を聞きながら、眠りの中に落ちていった。
☆
朔夜がいないのはさびしかったが、揚羽の登場はそれを補って余りあるものだった。伏羲が朝廷に勤めている間、楊ぜんは揚羽を相手に碁を打ったり、時には他の女官たちも招いて貝合わせに興じたりした。自分が完璧な女性ではないことから、楊ぜんは朔夜以外の女官が苦手だったが、揚羽がいればそれも気にならなかった。揚羽は人あしらいも巧く、楊ぜんを快く思わない女官たちはことごとく遠ざけてくれた。その中には、あの日揚羽をつれてきた女官も入っていた。
次第に、楊ぜんは揚羽を頼りにするようになり、女官たちとも接する機会が多くなった。
明るく社交的になった楊ぜんに、伏羲も嬉しそうだった。
そんな中、伏羲の恋人の一人が倒れたとかで、伏羲自ら見舞いに行くことになった。
当然楊ぜんは面白くない。
「どうせ、伏羲様の気を引くための嘘に決まっています」
揚羽を相手に、楊ぜんは盛大に毒づいた。
「そんなお顔をなさっては、せっかくの美貌が台無しですわ」
やれやれと揚羽はため息をつく。
「あの方は昔も同じようなことをしてるんです。仮病で伏羲様を呼びつけたりして。あんな性格の悪い人、どうして伏羲様は恋人にしているんだか」
そもそも伏羲には恋人が多すぎる。たとえ一人の恋人に月に一度、便宜的にしか通わないにせよ、その人数の分楊ぜんと一緒にすごす時間は確実に減ってゆくのだ。
「伏羲様は一度ご自分がかかわった方は、決して見捨てられない方ですから。その恋人もさびしかったのでしょう。到底楊ぜん様にはかなわないことはわかってますもの」
「本当にそう思いますか。揚羽」
ちょっとすねたように楊ぜんは揚羽を見上げる。
「こんなに綺麗な色の髪も、こんなに綺麗なお顔も、こんなにかわいらしい方、他にいらっしゃらないわ」
うっとりと、ため息をついて揚羽は答えた。
「嘘ばっかり」
楊ぜんは静かに首を振る。
「僕は女性ではありません。知っていますね。揚羽」
はっとして揚羽は楊ぜんを見つめる。しかしすぐに微笑んで答えた。
「知っておりますけれど、些細なことでしょう? 男か女かは人間性にはさほど影響しません」
「それは問題のすり替えです。では、揚羽は女性を恋人に持ちたいと思いますか?」
「優れた人物ならば」
即答した揚羽を楊ぜんは疑い深そうに見つめる。それは本心から出た答えと言うよりも、初めから用意されていた答えのように思えた。
「通常は、僕のようなものは完璧な女性にはかなわないものです」
「それは一般論です。伏羲様に一般論は通用しませんわ」
「だけど僕は、一般論の中で生きている」
鋭く楊ぜんは切り返した。
「このままでは、あまりにも苦しい」
揚羽は何か言いかけて、そして口を閉ざした。次の楊ぜんの言葉を待ち受けるように。
「だけど、揚羽……僕は……」
揚羽は静かに首を振る。その先の楊ぜんの言葉を封じようとして。
だけれど、楊ぜんは言葉を続ける。出口を見つけた。
「僕は完璧な女性にはなれないけれど、男には戻れるんだ」
とっさに後ずさった揚羽の袖を捕まえて、楊ぜんは自分で導き出した解答に驚いたように目を見開いた。
すべての時が止まったように感じた。
揚羽は静かに首を振った。結末はわかっていたがそれでも悲しかった。
「男に戻ることを、あなたは望んでいるのですか」
「このままでいるより、ずっといい」
開放される喜びに、楊ぜんは力強く答える。
「わたくしを利用なさるのね?」
「違う。僕は揚羽のことが好きだ」
「では、伏羲様のことは?」
その問いに一瞬楊ぜんは戸惑った。
「それは……でも、それが自然なんだ」
ぎゅっと握り締めた手を楊ぜんは見つめる。
「あてつけなのではありませんか? 伏羲様への」
静かに揚羽は問いかけた。その問いに楊ぜんは悲鳴のように答える。
「違う! 戻りたいんだ。本来あるべき場所に。わかるだろう!」
「伏羲様を裏切っても?」
何か言おうとして、楊ぜんはそれをかみ締めた。そうだ。揚羽が言い当てたとおりのあてつけだ。何が悪い。裏切り続けているのは伏羲じゃないか。僕をこんなにしておいて、あなたは好き勝手に遊び歩く。
あなたが悪いんだ。
揚羽はその様子を黙って見ている。
やがて。空を見つめるようにして。
「わたくしは、楊ぜん様が好きでしたわ。だから今、とても悲しいの」
ぽつんと、揚羽がつぶやいた。
胸の奥で何かが砕けた。
はっとした。
伏羲への報復ばかり考えて、揚羽のことは何も考えていなかった。
利用するつもりだった。その通りだ。
自分の浅ましさに愕然とした。
「揚羽……ごめん……」
楊ぜんは慌てて謝る。軽率だった。最低だ。自分のことしか考えていない。
「いいえ」
揚羽は静かに首を振った。かすかに微笑む。
「楊ぜん様、あなたは男には戻れませんわ。だって伏羲様のことをこんなに愛してらっしゃるんですもの」
「違う……憎んでるんだ……」
縋るように楊ぜんは口を開く。
「同じことです」
「同じこと? 僕は愛しているって言うのはもっと、優しいものだと思っていた」
幼い頃、寝物語に宮中の話をしてくれた伏羲を思い出した。手をとって琴を教えてくれた伏羲を思い出した。あの頃は確かに伏羲を愛していた。
だから、それを壊した伏羲が憎らしかった。心の中に大きな罅割れができて、楊ぜんはどうしてもそれをふさぐことが出来なかった。その罅割れを見ることすら怖かった。
だけれど、本当は戻りたかった。
伏羲を愛していたあの頃に。
「わからないよ。揚羽」
伏羲を愛しているのか。伏羲を憎んでいるのか。
黙りこんでしまった楊ぜんを置いて、揚羽は行ってしまった。
☆
翌日朝早くに伏羲は帰ってきた。
身支度を整えていた楊ぜんは慌てて伏羲を出迎える。
「お帰りなさい。伏羲様」
「ただいま。楊ぜん。ずっとおぬしのことを考えておった」
にこりと微笑んだ伏羲に、昔の思い出がかぶさった。子供のころ、こんな風に伏羲を出迎えたことがあった。あれは当時の伏羲の本妻が亡くなったすぐ後だった。疲れていたし、何より辛かっただろうに、伏羲はずっと楊ぜんの相手をしてくれた。
あの日は、伏羲が楊ぜんの元に返ってきた日だった。
涙がこぼれそうになって、慌てて楊ぜんはそれを強い瞬きで止めようとした。それでも止まらず、顔を見せなくて済むように伏羲に抱きついた。涙を見られるのは嫌だった。
「どうしたのだ、楊ぜん」
昔のままの手つきで、伏羲はなだめるように楊ぜんの髪を撫でる。
「わからないのです」
「なにがわからぬ」
「あなたを愛しているのか、憎んでいるのか」
ふと、伏羲が笑った気配がした。
「どちらも同じことだよ。楊ぜん。愛憎は紙一重。どちらも強い感情に違いない。愛しているから憎むのだ。愛するものがなければ、憎しみもまた存在しない」
「揚羽と同じようなことをいうのですね」
「そういえば、揚羽はどうした?」
はっとして楊ぜんはうつむく。
「僕がとても失礼なことを言ったので、揚羽は出て行ってしまいました」
「おぬしがわるいのではないよ。仕方のない奴だのぉ」
「いいえ。僕が……僕が悪いのです」
楊ぜんは首を振る。己の浅ましさを思い出して、白い頬に涙が伝った。
やんわりと伏羲は指先でそれを掬う。
「駄目だよ。楊ぜん。わし以外のもののために泣くなど許さぬ」
楊ぜんの頭を抱き寄せ、毒をささやく。
「嫉妬してしまうであろう?」
「伏羲様も僕を憎むのですか」
「愛しているから、そういうこともある」
伏羲に身体を預け、わずかに楊ぜんは微笑んだ。
「一体、これからどれだけ、あなたを憎めばいいのでしょう……」
それから一ヶ月あまりが過ぎた。
伏羲は相変わらず、恋人達の間を行ったりきたりしていたが、楊ぜんはそれほど不安にはならなくなっていた。嫉妬しなくなったわけではない。ただ、自分の想いを自覚してしまったから、もう何があっても伏羲についていくしかないと言う覚悟が決まったのだ。
母の病気が持ち直したとかで朔夜が帰ってきたことも大きかった。
庭に今年初めての桜が咲いたので、伏羲に知らせようと楊ぜんは伏羲の部屋へ急いでいた。しかし、中から話し声がするので立ち止まる。女性の声だ。とうとう恋人を家にまで連れてくるとは。一瞬頭が沸騰しそうになったが、なにやら聞き覚えのある声だ。様子を伺っていると、どうやら話は終わったらしく女が立ち上がった。
その姿に、楊ぜんは目を見開く。
「揚羽……」
白い面に長い黒髪、目元のつりあがった勝気そうな美少女。揚羽は楊ぜんの姿を見止めると、優雅に微笑んだ。
「お久しゅうございます、楊ぜん様」
「これは一体、どういうことなのです」
「ご心配なさらないで。実はわたくし、伏羲様のいとこなのです」
「おや、ばれてしまったのぉ」
気がつけば伏羲も部屋から出てきていた。
「白々しいことを。ばらすつもりで、わたくしをここに呼んだのでしょう?」
「恐ろしいのぉ、いとこ殿は。これでは気が休まらぬ。やはりわしには楊ぜんしかおらぬわ」
伏羲が楊ぜんを抱き寄せたので、逃れようと楊ぜんは身じろぎした。揚羽の前でこんなことをされたくはない。
「これ、暴れるでないよ、楊ぜん」
「随分見せ付けてくださいますこと」
揚羽が笑うので、楊ぜんは真っ赤になった。
「ねぇ、伏羲様。もしも楊ぜん様が、本気でわたくしを望んだら伏羲様、どうするおつもりでしたの?」
「ありえぬよ。ありえぬもしもなど意味がない。わしには初めから判っておったわ。しかし、こやつがあんまりにも鈍いので少々荒治療をしてやったまで」
伏羲の言葉にはっとして楊ぜんは二人を交互に見つめる。
「ちょっと待ってください。それはどういう……」
「どうもこうもございません。わたくしを利用したのは伏羲様ですわ」
「あまりにもおぬしが男に戻りたがるから、おぬしが男には戻れぬと言うことを実践として示したまで。実際の女官になど、手を出されては困るからのぉ」
しれっと伏羲は言ってのけた。
「では、二人して僕を騙していたのですね!」
「しかし、楊ぜん。結果的には良かったであろう?」
「それとこれとは話が違います!」
楊ぜんは伏羲につかみかかる。
「痴話喧嘩はお二人でなさいませ」
揚羽が笑うので、楊ぜんはまたおとなしくなった。揚羽はゆっくりと楊ぜんに近づく。白い頬に白い手が伸びる。
「でも、楊ぜん様。揚羽は本当に楊ぜん様が好きでしたの」
あでやかに揚羽は微笑んだ。
「でも。憎んでもおりましたわ。こんなにも伏羲様に愛されているのに、全然気がついてないんですもの」
くるんと揚羽はきびすを返す。去ってゆく背中に楊ぜんは問いかける。
「ねぇ、揚羽。君、本当は伏羲様のことが……」
揚羽は一度立ち止まった。振り返らないままゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わたくし、やけどする気はございませんの」
うふふ、と笑ったその声は春風に舞って空に消えた。
「ごきげんよう、楊ぜん様。わたくし宮中にお仕えすることになりました。もうお会いすることもございませんわ」
行ってしまう揚羽の背中を、楊ぜんはただ眺めていた。
end.
novel.
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