チョコレート・ラプソディ
後編
放課後の教室で、楊ぜんはぼんやりと太公望を待っていた。
チョコレート、師匠が全部食べてなければ良いけど。師匠が全部食べちゃうのはたぶんないけど、道場の生徒さんたちのおやつにしてしまうことは十分に考えられる。残していてもらおうと家に電話をかけたが当然のように誰も出なかった。今はちょうど稽古の時間だ。
そういえば、太公望を家に呼ぶのは初めてだ。部屋はちゃんと片付いていただろうか。うちは緑茶と紅茶しかおいてないけど、師叔がコーヒーがいいって言ったらどうしよう。
それにしても。師叔、遅いな。
結局、太公望が戻ってきたのは7時を過ぎていた。
「すまぬのぉ。悪かったのぉ。帰ってしまっても良かったのだぞ」
太公望は平謝りに謝った。
「いいえ。おかげで明日の予習が全部終わりましたから」
楊ぜんはにこりと微笑む。
「でも、師叔。この時間だと師匠が家にいるんですよ。チョコレートは明日持ってきましょうか?」
「今日行ったら迷惑かのぉ」
「そんなことはないですけど」
「じゃあ、やっぱり今日が良い。バレンタインディは今日だけだからのぉ」
太公望の言葉に、楊ぜんはちょっとだけ赤くなる。
「ところで、師匠ってのは誰なのだ?」
「叔父ですよ。言いませんでしたっけ? 僕、叔父と暮らしてるんです」
「ふーん。して、楊ぜん。その叔父さんと言うのは若いのか?」
「若いですよ。でも剣道の道場やってて凄く強いんです」
楊ぜんはにこにこと話し出すが、太公望は面白くなさそうだ。気づかずに楊ぜんは付け加える。
「それにとても格好いいです」
「わしよりもか?」
「はい」
楊ぜんが即答したので太公望はますます面白くない。
「おぬし、一応わしの恋人なのだから、そこはわしのほうがかっちょいいというのが筋であろう?」
「僕はあなたが格好いいから惚れたのではありませんから」
「お、ではどこに惚れておるのだ?」
太公望はとたんに機嫌を直してにまにました。
「ど、どこって……」
楊ぜんは口ごもる。
「そんなの恥ずかしくていえませんよ!」
「ずるいのぉ」
「じゃあ、師叔は僕のどこが好きなんですか?」
太公望はにこっと笑った。
「そういうところ」
「わけがわかりません。じゃあ、ぼくも師叔のそういうところが好きです」
にぃっと太公望は笑いながら顔を近づけるとちゅっと楊ぜんの頬にキスをした。
「ちょっと師叔! 誰か見てたらどうするんですか!」
「そしたら、これはわしのだと言ってやるまでよ!」
かっかっかと太公望は笑う。
「もう。そういうところは嫌いです」
楊ぜんはすねた。
家について、ドアチャイムを押すと師匠が顔を出す。
「お帰り、楊ぜん。と――」
そういって、楊ぜんの後ろの太公望に微笑みかけた。
「お友達かい?」
「はい。太公望君です」
楊ぜんに紹介されて太公望はぺこっと頭を下げた。
「そうか、楊ぜんが家に友達を呼ぶのは初めてだな。いらっしゃい。良かったら夕食も食べていくといい」
そういって師匠は太公望のためにスリッパを出す。
楊ぜんについて、楊ぜんの部屋に上がった太公望は、ものめずらしげに楊ぜんの部屋の中をぐるりと見回してから、ちょっとすねたように言った。
「おぬしの叔父さんは格好いいのぉ」
「だから、言ったじゃないですか」
師匠を褒められて、楊ぜんはにこりと笑った。
ちゃっかり夕食までご馳走になってから太公望は楊ぜんのチョコレートを待つ。楊ぜんの心配どおり、師匠は生徒さんたちにチョコレートを配ってしまったようだが、それでも3つだけ残っていた。
「太公望君は楊ぜんのチョコレートを食べに来たのかい?」
師匠は不思議そうに太公望に尋ねる。
「無論。楊ぜんがわしのた――」
「師叔はチョコレートに目がないんですよね」
楊ぜんはあわてて太公望の台詞を奪った。
「わしは甘いものは何でも好きだよ。しかし楊ぜんが作ったとなれば――」
「僕は天才ですから」
冷や汗を流しながら楊ぜんはごまかす。
そしてぎゅっと太公望の腕を取った。
「師叔、部屋で食べましょうね」
「そうだのぉ、おぬしと二人きりのほうが――」
「師叔!」
楊ぜんは大声を上げた。
「楊ぜん、近所迷惑だからもっと静かな声で話しなさい。太公望君だって驚いている」
それまでずっと傍観に徹していた師匠は楊ぜんを冷静にたしなめてから、口を開く。
「ところで、楊ぜん。太公望君とは……その、どういうお友達なんだい?」
「どういうって。ただの友達ですよ。食い意地のはった」
楊ぜんはどぎまぎしながら答えたが、太公望が横から口を出した。
「違うであろう、楊ぜん。わしらは親友よりも、もっと親密な関係であろう?」
「親密なただの友達です!」
楊ぜんは自分でも良くわけのわからないことを叫んでそのまま力任せに太公望を引っ張ると自分の部屋に押し込んだ。
「師叔! どうしてあんなこと言うんですか!」
今にも泣き出しそうな顔で叫ぶと、太公望に詰め寄る。
「だって、わしは本当のことを言っただけだ」
「本当のことだから拙いんですよ」
「だって、わしのチョコレート……」
太公望は悲しそうに3つしか残っていないチョコレートを見つめた。
「残ってたんだからいいじゃないですか」
「よくないわ。だあほめ!」
つーんと太公望はすねる。
「おぬしがわしのために作ってくれたチョコレートなのだぞ! 誰にも渡したくないし食べさせたくもないわ!」
「コンビニのチョコレートは買ってくれたのが大事だって言ってくれたのに……」
楊ぜんは恨めしげに太公望を見つめた。
「買ったチョコレートと手作りチョコレートじゃ全然ありがたみが違うであろう?」
太公望はそういって頬を膨らませる。
「おぬしが始めてわしのためにチョコレートを作ってくれたのに、わしより先に色んな人がそれを食べてしまったのかと思うと……」
しゅんとした太公望を見て楊ぜんもしゅんとした。太公望を悲しませるためにチョコレートを作ったんじゃない。
「師叔。来年は真っ先に師叔にあげますから。それでいいでしょう?」
伺うように楊ぜんが尋ねると、太公望は漸く膨れるのをやめて楊ぜんを見つめた。
「おぬし、来年も作ってくれるのか?」
「はい。今度はもっとおいしいのを作ります」
「そして真っ先にわしにくれるのだな」
「はい」
「師匠にもやらんな」
「師叔にあげた後に師匠にも渡します」
「むぅ」
太公望はそこでまたちょっと膨れる。
「だって、師匠にはお世話になってるんですよ? でも手作りするのは師叔のためだけだし、僕が一番好きなのも師叔です」
「しかし、おぬしの叔父さんはかっちょいいからのぉ」
「だから、僕は格好いいから師叔に惚れてるわけじゃないんですってば」
楊ぜんは苦笑するが太公望はまだすねている。それが師匠への嫉妬だと気がつくと、楊ぜんはなんだか嬉しくてたまらなくなった。こんな小さなことで師叔が師匠に嫉妬するなんて。こんなに好きでいてくれるなんて知らなかった。
膨れてすねている太公望の頬に楊ぜんは羽が触れたような軽いキスをする。
そして驚いた顔をしている太公望ににっこり微笑みかけた。
「こういうことしたいって思うのは師叔だけなんですよ」
偶にはそれくらいしてあげたっていい。だって今日はバレンタインディだし。
太公望はゆっくりと楊ぜんを抱き寄せる。そしておもむろにもっと深くキスしようとしたところでドア越しに師匠の声が聞こえた。
「楊ぜん。太公望君は泊まっていくのかい? だったら客間に布団を用意するが」
別に師匠が部屋に入ってきたわけでもないのに楊ぜんは慌てて太公望から離れる。
「客間とは随分、警戒されておるのぉ」
太公望は小さくつぶやくと、ドアの向こうの師匠に向かって返事を返す。
「いえ、もう帰ります。明日の準備とか何も用意してきてないので」
そして、楊ぜんのほうを向いてにこっと笑った。
「駅まで送ってくれるかのぉ。楊ぜん」
はい、と楊ぜんは立ち上がった。
「結局チョコレート、食べなかったですね」
「最後の3つとあってはなかなかもったいなくて食えぬよ。家でじっくり食べる」
「あの。不味くはないはずですから。それから、それ、生クリーム使ってるので早めに食べてくださいね」
せっかくだからとチョコレートを綺麗にラッピングしてもらって、太公望は大事そうにそれを持って楊ぜんの家を出る。ご馳走様でしたと師匠に挨拶すると師匠は不適に笑った。
「今度、太公望君とはじっくり話がしたいな。もっと日の高いうちにまた着なさい」
楊ぜんはきょとんとしたが、太公望はその微笑に背筋が凍るような寒気を感じる。
見抜かれておるのぉ。少々、厄介だのぉ。しかし、こうなったら堂々と宣戦布告をするまで。
「はい。今度は泊まれるように準備してきます。でも、客間なんかじゃなくて、楊ぜん君の部屋に布団しいてもらったんでいいですよ」
にっこりと、無邪気な少年を演じながらも太公望は、何ならベッドにもぐりこんでもよいがのぉといけないことを考えた。
「しかし、親御さんが心配するんじゃないのかい?」
案の定師匠は渋い顔をする。
「事前に言っておけば大丈夫です。ただの友達の家に泊まるって」
優等生の顔で太公望は答えた。
「あの、じゃあ師匠。僕、師叔を送っていきますので」
微妙に険悪な空気を不思議に思いながらも楊ぜんは口を挟む。
「ああ、楊ぜん。気をつけて」
なんに気をつけるのかのぉと思いながらも太公望は駅に向かって歩き出す。夜の空気はひんやりと冷たくて、二人は自然に手をつないだ。つないだ手から暖かくなる。駅が見えるまで黙って歩いた。
「もうよいよ。楊ぜん、ありがとう」
つないだ手を離すのが名残惜しい。
「またきてくださいね。今度は泊まれるようにして」
楊ぜんは無邪気に微笑んだ。
「よいのか?」
「はい。僕はまだ師叔のことあまり知りません。泊まったらそれだけたくさん話が出来るし、師叔のこともっと知りたいんです」
くすっと太公望は苦笑した。
「そうだのぉ。わしもおぬしのことがもっと知りたい。おぬしにあんなかっちょいい叔父がいることなど知らなかったからのぉ」
「もういいじゃないですか、師叔」
楊ぜんもくすっと笑う。
「いや。よくないぞ。しかしのぉ。楊ぜん、わしとて大学生くらいになったら楊ぜんもびっくりするようなかっちょいい男になるぞ」
くすくすくすと楊ぜんは笑い出した。
「ちょっと待て、楊ぜん。何故そこで笑うのだ。背だって今におぬしを抜くからな」
「わかりましたよ」
笑いながら楊ぜんが答えるので、太公望はまたすねてしまった。
「それより師叔、早くしないと電車が行ってしまいます」
「そうだのぉ、おぬしも早く帰らないと風邪を引いてしまうのぉ」
「明日また会えますし」
「何時だって手はつなげるな」
「人前は嫌ですよ」
「楊ぜん、そこは人前だって繋げると言わぬと、手が離せぬよ」
「師叔にうそはつけません」
「困ったのぉ。そんなにこの手を離したくないのか」
「違っ……」
思わず振りほどいた手を楊ぜんは、呆然と見つめる。離してしまった手に言いようのない寂しさ。それに気がついて、どきりとした。
「じゃあ、また明日。楊ぜん」
にこりと微笑みかけられて、楊ぜんは微笑み返して手を振った。そして太公望の背中が見えなくなるまでずっと見送っていた。
家に帰ると師匠が出迎えた。寒かったろうから風呂に入りなさいと言う。言われてみれば本当に身体が冷えていて、それに気づいたとたん楊ぜんはくしゅんとくしゃみをした。
せっかくだから、お気に入りの入浴剤を入れてたっぷり一時間お風呂を楽しむ。あがったところで、ふと台所を見ると師匠がなにやら考え込んでいた。明日の献立が決まらないのか、それにしてはやけに真剣な顔。楊ぜんの視線に気がつくと慌てたように微笑んだ。
「なんだ楊ぜん、もうあがったのか」
「もうって……結構長く入ってましたけど」
「そうか。湯冷めしないように早く寝なさい」
「もぉ。師匠は何時までも僕が子供だと思って」
すねたように言うと、なぜか師匠は戸惑うように楊ぜんから目をそらす。
「そう……だな。しかしな、楊ぜん。……羽目を外しすぎるなよ。お前は大事な私の甥なんだから」
楊ぜんはきょとんとした。師匠が何を言いたいのかわからない。
「そんなことしませんけど……。おやすみなさい、師匠」
「ああ、おやすみ。楊ぜん」
首をかしげながら部屋に戻ると師叔からメールが来ていた。
――チョコレートおいしかった。バレンタインディといわず、また食べたい。
それを見たとたん、楊ぜんは嬉しくて仕方なくなってしまって、師匠の様子がおかしかったこともすっかり忘れて、気がついたときにはパソコンを立ち上げて、通信販売でチョコレートの材料を頼んでしまった。
今度はもっとおいしいのを作ろう。この間の失敗を活かし、温度にも分量にも気を使って。もちろん他のお菓子を作ってあげたっていい。
大好きな、師叔だけのために。
end.
novel.
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