cocoro
あれはまだ軍が進軍についての会議をしていたときだと思う。それ以上詳しいことは忘れてしまったが、何しろまだ豊邑の城にいた頃だったから、もう随分前の話だ。
何かの調整が取れず会議は白熱を通り越してだれはじめ、時間も随分と遅くなり、これは明日に持ち越すか、そうでなくとも一度休憩を取ったほうがいいのではないかと思っていた矢先だった。
たぶん、肘で押してしまったのだ。
資料の木簡がカランと音を立てて落ちた。
そのとき楊ぜんは疲れに少しばかりぼぉっとしていて、木簡の落ちたのにはっとして手を伸ばした。ところがどうやら、近くにいた太公望も木管の落ちたのに気付いたらしい。太公望も木簡を拾おうと手を伸ばしていた。
そして、木簡に手を伸ばしていた楊ぜんの指先を一緒にぐいっと掴んだ。
楊ぜんは反射的にさっと手を引いた。
おそらく、それが始まりだったのだ。
うっかり触ってしまった手をまるで熱いものにでも触れてしまったかのようにさっと引っ込めた楊ぜんを、太公望はきょとんとして見上げた。
「ああ、すまんかった」
どうやら自分の手が触れたことが楊ぜんには不愉快だったようだと気付き、とりあえず謝るものの釈然としない。何よりちょっと傷ついた。
一方の楊ぜんはといえば、余計慌ててしまっていた。反射的に手を引っ込めてしまったが、これは失礼に当たるのではないか。しかし、慌てまくっているため、先ほど引っ込めた手を胸の前で片方の手でかばうように抱きしめているため、余計に失礼なことになっていることには気付いていない。
「いえ。あの……」
弁明しようにもとっさに楊ぜんは何もいえなかった。楊ぜんにとって誰かに触れると言う行為がタブーになっているという事実は、おそらく誰にも判ってもらえまい。
だから、楊ぜんの言葉は続かなくなってしまう。
そのとき、姫発が立ち上がって大声を上げた。
「やめやめ! こんなんじゃ煮詰まっちまっていい案も出てこねぇぜ。今日はもう終わりにして、明日片付けよう」
それに珍しく周公丹が、それもそうですねと兄に同意したことをきっかけに会議は急にお開きになった。
楊ぜんはほっとして、うやむやにしたまま、ごめんなさいとも、お疲れ様でしたとも取れるような会釈をして太公望から逃げ出した。
誰かに触れるのは嫌いだった。誰かに触られるのも嫌いだがこちらから触れることのほうが遥かに嫌いだ。
物心つくか着かないかのうちから、楊ぜんははっきりと自分が異物であるということを認識していた。人間の中のただ一人の妖怪。そして、人間が妖怪を嫌っていると言うその事実。師である玉鼎真人がどんなに気を使い、細心の注意を払って楊ぜんからそれらのものを遠ざけたとしても、楊ぜんにその事実がしみこむまでにそう時間はかからなかった。
思春期を迎える頃には、自分が病原体か何かのような気がして自分自身を引き裂いてしまいそうになった。そう思わせる人間が憎かった。そのくせ師と同じ人間だと言うだけで羨ましく美しく見えた。そして何より、妬ましかった。
楊ぜんにとって人間とは、触れられるのも嫌なほど憎らしいものであるのと同時に、触れることができないほど、ある意味神格化されたものでもあったのだ。
相反する二つの思いが楊ぜんの中で交じり合い絡み合い、酷く不安定になり、しばらく楊ぜんは洞府から出ることができなくなった時期もある。
それでも耐えることができたのは、崑崙にいるのは厳密に言えば人間ではなく、人間でいることを捨てた仙人たちだったからだ。逆に言ってしまえば、そんな中にすら妖怪への偏見があったことになる。
無論、今では人間への憎しみは随分と薄くなって、本物の人間の中で生活していてさえ、ほとんど日常では気付かないレベルにまで抑えられてはいるが、完全になくなったわけではない。今でも恐ろしい勢いで楊ぜんを包み込み、引き裂こうとするときがある。
しかし、楊ぜんを不安定にした二つの思いを抱かせたのは厳密に言えば人間ではなかった。
崑崙で育ち、楊ぜんが十分克服したはずの人間出身の道士だった。
そしてその人こそが、太公望なのである。
あなたが憎い。憎くて憎くて殺してしまいたいほど。
あなたが畏い。畏くて畏くて逃げ出してしまいたいほど。
太公望と話をするたび、楊ぜんはコンプレックスを噛み締める。矮小で無様な妖怪である自分を意識する。完璧に人間でいようと躍起になり、楊ぜんは妖怪の自分を殺すのだ。何度も何度も太公望の前で楊ぜんは妖怪である自分を葬ってきた。
あれはいつのことだっただろう。雨が降っていたから6月か、いや、9月の長雨の頃だったかもしれない。傘を差しながら太公望と二人歩いていた。確か軍の演習の途中で急に雨が降り出し、慌てて撤退したときだったと思う。当然のことながら戦争中に雨が降っても撤退するわけには行かないが、雨が随分と強くなってきたこともあり、怪我人が出ては元も子もないと兵を帰したのだった。
本当ならば楊ぜんも兵とともに帰るはずであったのだが、太公望に呼び止められてしまい、兵たちの去っただいぶ後から太公望にしたがって歩くことになる。
また一人、楊ぜんは妖怪の自分を殺した。
「のぉ、どう思う、楊ぜん? 今の調子で実戦に耐えられるか」
「基礎体力はだいぶついてきましたから、あとは規律をしっかりと叩き込めばいいのではないですか。もっとも僕は人間同士の戦争など見たこともないので実際のところ的確な意見は述べられませんが」
「そうか、それならばおぬしには道士たちの修行を頼もう」
「ええ、それならば」
歩きながら楊ぜんは不安になる。太公望の口にする言葉は日常会話とさほど変わらない。楊ぜんを引き止めてまでしなければならない会話とはとても思えない。
「あの、師叔。何か僕に用があったのではないのですか」
さっさと用件を済まして逃げ出さないと、さっき殺したはずの妖怪が起き上がって楊ぜんを引き裂きに来る。
「……そう面と向かって言われると困るのだが。おぬしと話をしてみたかったのだよ」
「どうしてですか」
「どうしてといわれてものぉ……」
太公望は困って苦笑いをした。いつもそっけなく無駄口も叩かず、仕事が終わればさっさと帰ってしまう楊ぜん。木簡でうっかり触れてしまった手を急いで引っ込める楊ぜん。そこまでされると、太公望は持ち前の天邪鬼が顔を出して、何とか楊ぜんと会話らしい会話をしようとタイミングを見計らっていただけなのだ。
「これから封神計画が終わるまでおぬしと長い間ともに歩むことになる。だからおぬしのことを知っておきたかったのだ」
「僕のことを知らなくても計画は遂行できると思いますが……」
「そういうでないよ。それに人間が集まって仕事をすると言うのはチェスで駒を動かすのとは訳が違うのだ。お互いのことをよく知っていないと信頼関係も生まれない。足を引っ張り合うことになる」
楊ぜんは盛大に吐きたいため息をかみ殺す。太公望に自分のことをよく知ってもらうことなどできるわけがない。つくづく忌々しい人だ。
「困ったのぉ。わしが嫌いなのか」
どきりとした。
当たり障りのない演技をしていたはずだ。一応上司に当たる人だからそれなりに立ててきた。好かれているとうぬぼれられることはあっても、嫌っているとばれることはないはずだった。
「楊ぜん。どうしてもわしが嫌いならば、封神計画から降りても良い。というか、降りてもらいたい。すまぬが大勢の命のかかっている計画だ。私情で動かれては困るのだ」
頭の中が空っぽになった。ついで凄まじい勢いで思考が走り出した。
いつ僕が私情で動きましたか。僕は何人も何人もこんなにたくさんの僕を殺しているのに。あなたの前にはこんなにたくさんの僕の死体が転がっているのに。
あなたは、人間は、いつだって僕を殺す。自分から手を下すことすらせず、僕に僕を殺させる。あなたなんか、人間なんか、大嫌いだ。憎くて憎くて殺してしまいたい。殺して、そう。殺して――
太公望の細い頸が視界に入る。あれなら簡単にへし折ってしまえるだろう。
簡単に、ぽきりと乾いた音がするだろう。
簡単に――
「楊ぜん?」
駄目。無理。無理なんです。
だってこの人は。
この人は、僕なんかが、妖怪なんかが、触れては、汚してはいけない人だから。
嫌だ。助けてくれ。
さっき殺した妖怪が起き上がって僕を引き裂こうとしている。奴は残忍で冷酷だからためらったりなんかしない。僕は引き裂かれて――
助けてください。
殺して、頸の骨を
神聖で、美しい
引き裂かれて
たすけ
「楊ぜん! おぬし、どうしたのだ!! おい、しっかりせいっ!」
目を開けると寝台に寝かされていた。横に椅子を置いて太公望が座っていた。ずっとそうしていたのかうとうとと今にも眠りそうな顔をしていたが、楊ぜんの視線に気がつくとはっとして立ち上がった。
「楊ぜん、気がついたか」
立ち上がった太公望は楊ぜんの枕元に手を突き、楊ぜんを覗き込むようにしたので、楊ぜんの目の前には太公望の顔がある。楊ぜんの瞳はとっさに逃げ場を探して視線を空へさまよわせた。
「ああ、すまぬ」
太公望は慌てて顔を遠ざける。
「それから、その。おぬしが倒れる前に行った言葉、な。あれは悪かったと思っておるよ。おぬしは実際よくやっておるし。わしは、だからおぬしは崑崙に帰れとそういいたかったわけではなくて、だからもうちっとわしのことを嫌わずにいてくれと、できれば何かわしが悪いことをしておぬしの気に障ったのなら謝るからとそう続けたかっただけなのだ」
口を開く前に楊ぜんはまた妖怪を殺そうとした、が。その前に太公望は口を開く。というか勢い込んでしゃべっている太公望の言葉は途切れる様子が全くなく、楊ぜんが口を開くような間は到底与えられなかった。
「それからな、おぬし、どうもわしとだけ態度が違うであろう。なんか笑っていても無表情になると言うか、おぬしがわざと感情とかそういったものを押し殺してるように思えて……いや、わしの勘違いかも知れぬのだが、勘違いかのぉ。四不象に聞いても違わんと言うし……ああっ。すまんかった、病人相手にこんなことをぐだぐだと言ってしまって。ところで、おぬし、雨に当たったくらいで倒れるとは相当体弱いのか?」
くすっ。
うっかり、楊ぜんは笑ってしまった。
太公望のあまりのするどさと、鈍感さに。
楊ぜんが自分を殺し続けていたことに、わずかでも気がついていた太公望と、楊ぜんが倒れたのを雨のせいだと勘違いする太公望。
そしてまた、嬉しかった。太公望が、楊ぜんが自分を殺し続けていることに気付き、そして、それについて、自分が原因なら謝ると言ってくれたことが。
許された気がした。人間に、妖怪でも生きていていいのだと初めて許された気がした。
それが不覚にも泣き出しそうになるくらい嬉しかった。
「お、人が一生懸命話していると言うのに、おぬし笑ったな。って、今度は泣くのか。どうなっておるのだ。しっかりせい」
「泣いてなんか、いませんよ」
楊ぜんは慌てて、太公望を視界の外に追いやる。そして、太公望に背を向けたまま口を開いた。
「あなたはね。僕が小さい頃僕のことをうーんといぢめてた人にそっくりなんですよ」
「なっ! おぬしをいぢめられるようなツワモノがおったのか?」
「怒りますよ。僕だって子供のころは繊細だったんです」
「子供のころはのぉ」
「今だってそうですよ」
「わかっておるよ」
くしゃっと、太公望が楊ぜんの髪をなぜたので楊ぜんはびくりと身体を強張らせた。
「僕のこと莫迦にしてますか、師叔」
「いや、ただ綺麗な髪だのぉと思ってな」
太公望はそっと楊ぜんの髪から手を離す。
「不思議だのぉ、今わしは始めておぬしと話をした気がするよ。もう随分前から一緒に仕事をしてきたのにのぉ」
楊ぜんは息を詰める。殺すべき妖怪はどこにも見当たらなかった。
「また、こんなふうにしゃべれるとよいな」
そういって立ち去ろうとする太公望に、早口で楊ぜんは言った。
「師叔。僕本当は、醜くて卑小で嫌な奴なんです。だからそれをあなたに知られたくなくて――」
すでに扉から外に出ようとしていた太公望は振り返ると言った。
「わしはそうは思わぬよ」
おぬしはもう少しゆっくり寝ると良い。そう言って太公望は部屋を出て行った。
今、楊ぜんは寝台に座って太公望を待っている。ナイトテーブルには西域から取り寄せた赤くて甘い酒と仙界からわけてもらった桃。
あれから二つの季節をめぐり、ゆっくりと時間をかけて太公望と楊ぜんは恋人と呼ばれる関係になった。進軍は目前で二人の時間を作ることは難しいが、その分楊ぜんは太公望が訪れる夜には趣向を凝らすことにしている。白い花を生け、キャンドルライトを燈し、香をたく。
程なくして軽いノックとともに太公望は現れた。
「これはまた、豪華だのぉ」
太公望は実はこういった趣向にはあまり興味はないのだが、こういう趣向を凝らす楊ぜんと言う存在はなかなか気に入っていて、趣向そのものも楊ぜんの一部のように愛しく思えてしまう。
「この季節には珍しく桃が手に入りましたよ。あと師叔のお好きそうな甘いお酒も」
「おお、桃とは嬉しいのぅ。どれ、珍しい色の酒だ。おぬしも飲むであろう?」
楊ぜんの隣に腰掛け、早速太公望は栓を抜きにかかった。
「そうですね。少しでしたら」
楊ぜんは酒に弱いと言うほどでもないが、ちょっとでも酒が入るとすぐに赤くなってしまうことをとても気にしていて、人前では絶対に酒を飲もうとはしない。太公望に注がれた酒をすっと飲み干すと、久々に飲んだせいか、思いのほか酒が強かったのか、くらりと酩酊した。そのまま甘えるように太公望の肩に頬を押し付ける。
太公望はくすりと笑って、楊ぜんを抱き寄せると、髪の生え際に手を這わせた。
未だ真実は告げられないが、触れることも触れられることも苦ではない。
師叔。覚えていますか。あの会議室で最初に手が触れ合った日のことを。
覚えていますか。あの雨の日、僕とはじめて話したと言った事を。
あなたを信じている。もう二度とあなたが僕に僕を殺させたりしないことを。
あなたを信頼している。真実を告げても決してあなたが揺らぐことがないということを。
end.
novel.
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