garden----------no.14



 頭、痛い。
 目が覚めて最初に楊ぜんが思ったことはそれだった。
 頭、痛い。
 昨日、お酒。
 二日酔いには味噌汁がいいって聞いたことがある。味噌汁飲めば治るのだろうか、これ。
 身を起こすとばたんと音がした。
 音のしたほうを振り返る。
 すぅっと血の気が引いた。
 師叔の腕。裸の。僕の上に乗っていて、僕が起きたから落ちた。
「すぅ……」
 裸の腕。裸の胸。裸の……。
 どうしてこんなことになった?
 何でこんなことになった?
 僕は天化君を裏切った。
 頭を抱える。いっそこのまま小さくなって消えてしまえればいいのに。
「楊ぜん」
 はっとして、楊ぜんは声のしたほうを見た。太公望が起きていた。
「覚えていないのか。おぬし」
 楊ぜんは首を振る。覚えている。アンドロメダ。ペルセウス。メドゥーサ。
 師叔は、僕を選んでくれるんですか?
 じゃあ、おぬしもわしを選べよ。
 僕は師叔を選んでしまった。
「後悔しておるのか」
「わからない……」
 楊ぜんは首を振った。
 師叔をえらんでしまった。もう後戻りは出来ない。
 後悔ではない。ただ重大な決断をしてしまった後に感じるわずかばかりの後ろめたさ。それを無理やり打ち消すように、体の奥から搾り出すように楊ぜんは言った。
「師叔が好きです。だから、抱きしめていてください。僕の決心が鈍らないように。天化君にちゃんと伝えられるように。抱きしめていてください」
 太公望は望みをかなえてくれた。

 ゴールデンウィークは淡々と過ぎていった。二人は笑って、冗談を言って、勉強を教えて、一緒に出かけて、そしてたまにキスをした。
 ゴールデンウィーク最終日の前日は、太公望の腕の中で過ごした。
「そう思いつめるでないよ」
 くるくると楊ぜんの髪を指に絡めながら太公望は言った。絡めるそばからするすると梳けて流れてしまう髪。
「思いつめますよ。僕はひどいことをしているのだから」
「あのままではいけないことは判っておったであろう?」
「苦しかった。今は……怖い。誰かを傷つけることが、こんなに怖いことだったなんて、僕はちっとも知りませんでした」
「そうだのぉ。だが伝えねばならぬ。これ以上天化を裏切り続けることは、できぬよ」
 こくんと、楊ぜんはうなずいた。

 ゴールデンウィークの最終日。楊ぜんは中等部の正面玄関前で、じっと待っていた。
 木々の緑は青く、空は莫迦みたいに晴れ渡り、ゴールデンウィーク中はしんとしていた校舎は、実家から帰った生徒たちでざわめきあい、友達を見つけた喜びの声が青い空に響いている。
 その中を楊ぜんは一人の影を探しじっと待っていた。
 やがて人ごみの中に、黒々とした黒髪と、躍動感のある手足をもった少年を見つけ、楊ぜんは一つ大きく息を吸った。
「天化君!」
 少年は大きく手を振って、楊ぜんのほうへ向けて駆け出した。
「楊ぜんさん! 迎えに来てくれたさ?」
「うん」
 弾んだ声の天化に楊ぜんは小さくうなずく。
「嬉しいさ。俺っち、お土産買ってきたさ。師叔もいるんだろ」
「あのね。天化君」
 やがて意を決して楊ぜんは口を開いた。
「どうしたのさ、楊ぜんさん。怖い顔して」
 この世の終わりみたいな顔さと天化は笑う。とてもつられて笑うことは出来ず、楊ぜんは慎重に言葉を紡いだ。
「あのね、天化君。僕、天化君に言わなければならないことがあるんだ」
「何?」
「ちょっと、歩こう。ここは人が多すぎるから」
「それって、人が多いと拙いこと?」
 すぅっと笑顔を引っ込めて天化は言った。
「うん。人が多いと拙いこと」
 小さく頷いて、楊ぜんは先にたってさっさと歩き出した。
「待つさ、楊ぜんさん! それって……師叔と関係あること?」
 びくりと楊ぜんは足を止めた。
「休みの間、師叔となんかあったさ?」
 畳み掛けるように天化は問う。
「ごめん天化君」
 たまらず楊ぜんは口を開いた。
「それって、俺っちに、謝んなくちゃいけないようなこと?」
 振り返れば、天化は微動だにせず楊ぜんを見つめている。
「天化君。話すから、ちゃんと話すから……だから、ここは……ね?」
 徐々に大きくなった天化の声のせいで、周りの生徒たちはひっそりと、だが確実に楊ぜんと天化の成り行きを気にしている。
「師叔と話つけてくるさ!」
 腹のそこから搾り出したような声で叫ぶと、天化は荷物を放り出して、高等部目指して走り出した。
「待って天化君!」
 一瞬遅れて、楊ぜんはあわてて後を追う。
 天化の足は速かった。あっという間に高等部へたどり着き、迷うことなく男子寮へ入る。階段を駆け上がって、蹴破るような勢いで部屋のドアを開けた。
「師叔、どういうことさ!」
 いきなりドアを開けられたにもかかわらず、太公望は動じなかった。
「楊ぜんに聞いたのか」
「そんなの知らねぇ。俺っちは師叔に聞いてるさ!」
「わしは楊ぜんを愛しておる」
 言い切った太公望に向けて、天化は拳を固めた。
「ふざけるなっ!!」
 太公望は微動だにしない。天化が拳を振り下ろそうとしたまさにそのとき。
「やめて!」
 追いついた楊ぜんが後ろから天化に抱きついた。
「やめて天化君! やめて!」
「離すさ、楊ぜんさん!」
「やめてよ、天化君。全部僕が悪いんだ。殴るなら僕を殴ればいい。師叔じゃない。僕が悪いんだ!」
「楊ぜんさん、離すさ!」
「僕が悪いんだ。自分勝手な甘えで君を傷つけた。誰かを好きになることなんかちっとも判ってなかったくせに、君の事弄んだんだ……」
 涙声の楊ぜんに天化は漸く抵抗をやめた。楊ぜんはそのままずるずると座り込んで、泣きじゃくり始めた。
「僕のこと殴ってよ、天化君。僕は殴られて当然のことをしたんだ……」
「……殴れねぇよ……楊ぜんさん……」
 搾り出すように天化はつぶやいた。
「君の事、好きになれればよかったのに。好きになりたかったのに。でも駄目なんだ。どうしても、師叔じゃなくちゃ駄目なんだ……だから、殴ってよ、ねぇ」
 天化は首を振った。花がしおれるようにうなだれて。そして言った。 「それでも、俺っち、楊ぜんさんのこと好きだから。だから……殴れねぇーよ」
「……ごめんね、天化君」
 次の瞬間、ほえるように天化は叫んだ。
「ちくしょーっ!」
 時間が凍りついたように感じられた。

 天化が帰った後も、楊ぜんはしばらく泣き続けていた。
 太公望はその間ずっと、小さな子供にでもするように、髪を撫ぜ続けていた。
「ねぇ、師叔」
「ん?」
「天化君にも、こんな風に髪を撫ぜてくれる人がいたらいいのに」
「いるであろう。あらわれるであろう。あやつは良い男だよ」
「ええ、本当に」


      ☆


 中等部。校舎、屋上にて。
 一人の男子生徒が肯定を見下ろすその横に、ほっそりした女子生徒が並んだ。
「聞いたわよ。あんた、高等部で大騒ぎしたんだって?」
「うるせぇな。そういうの話す気分じゃないさ」
「ホントに楊ぜん先輩のことマジだったんだ」
「ほっとけって言ってるのがわかんねーさ?」
「しかもあれ、帰り際に叫んだんでしょ。あんたが楊ぜんさん幸せにしなかったらただじゃおかないさ〜って、あはは、少女マンガみたい」
「笑うな、アホ女」
「アホって何よ」
「アホだからアホって言ったさ」
「なんなのよ。もう! 可愛げのない男ね。せっかくあたしが慰めてあげようとしてるのにっ」
「ちょっと待つさ、今のどこが慰めてたさ!」
「慰めてたじゃん!」
「傷えぐってるだけさ!」
「なんだ、アンタ元気そうじゃん。これくらい元気ならだいじょーぶよ」
「大丈夫じゃねーさ」
「えーっ。やっぱり慰めて欲しいんだ、このエロ男」
「何でそうなるさ!」
「傷心と見せかけて、あんなことやこんなこと考えてるんでしょ」
「あー。なんかあーたと一緒にいると全部莫迦莫迦しくなってくるさ」
「なによぉ。待ちなさいよ。逃げるなっ」


      ☆


 そしてこれはとある日のとある放課後の、とある寮の一室での出来事。
「えー。テストテスト。本日は晴天なり〜」
「莫迦言ってないで早く始めろよ」
「わかってるよ。うるせぇな」
 こほん。咳払い。
「ただいまより、プリンちゃんを守る会臨時集会を開催する」
 ぱちぱちと閑散たる拍手。
「われわれは今現在まで、プリンちゃんと、プリンちゃんに勝るとも劣らぬ美貌を誇る楊ぜん君について愛し見守り、かつ応援するという立場をとってきたわけだが、このたび、悲しくもめでたいことに楊ぜん君には太公望君という偉大なる恋人が出来た」
 ちょっとしたブーイング。
「えー。静粛に。辛い気持ちはわかるが、しかしわれわれの愛すべき楊ぜん君が選んだ恋人である。守る会公認の恋人として迎え入れようではないか」
 ぱらぱらと拍手。
「さて。ここにおいて、守る会一同は楊ぜんを愛し見守りかつ応援するという偉大なる任務を太公望君に割譲することを宣言する。そして守る会は役割を果たしたとして、ここに解散を宣言するものである」
 小さなどよめき。
「そして、ここにプリンちゃんを見守る会の結成を宣言する」
 小さな拍手。やがてそれは大きくなり、部屋いっぱいに広がっていった。

 部屋の隅っこで小さく楊ぜんはため息をつく。
「結局無くならないんじゃないですかファンクラブって……」
「むぅ。姫発め」
「しかもどちらかというとデバガメっぽいですよね」
「まぁ部屋に入ってしまえば何も見えぬから良いではないか」
「なんか、やらしいですよ師叔」
 ぎゅーっと楊ぜんは太公望の頬を引っ張った。
「やめぬは。やらひーのはそんなほとはんはえるよーせんではないか」
「何言ってるかわかんないですよ。もう」
 太公望の頬をさらに引っ張りながら楊ぜんは答える。
 太公望はとうとう涙目になって、やめてやめてと騒いだ。
 楊ぜんはたまらず笑い出し、惨状に気がついた生徒たちもつられてけらけらと笑い出し、太公望はひりひりと痛む頬を押さえながらも、ついには一緒になって笑い出した。
 季節はすでに初夏を迎え、風は涼やかに、日の光は樹々の緑に反射しきらきらと輝くそんな季節。

end.

novel.