若菜抄  <四>



 伏羲の言ったことが良くわからなかった。それでもなんだか取り返しのつかないことをしてしまったような気がして、楊ぜんは落ち着かなかった。
 僕はお兄様が大好きだし、お兄様はとても頭のいい方だし、だからお兄様の言うことを聞いておけば何も問題はないはずだ。
 でも先ほどの伏羲は、楊ぜんの慕ういつもの「お兄様」とは違っていた。それが楊ぜんを不安にさせる。
 恐ろしくて伏羲には近づきたくなかった。でも、いつものように抱きしめて頭を撫でて欲しかった。髪を梳いてもらって、お兄様が勤める朝廷の美しい話を聞いて、それからいつものように琴を習ったり、碁や将棋で遊んだりしたかった。
 それなのに今日の伏羲はどうしても近寄りがたい気がして、楊ぜんは思いとは裏腹に伏羲の姿を見かけるたびに隠れてばかりいた。
 楊ぜんが漸く伏羲とちゃんと向き合おうと決意したのは夜も更けてからのことだった。
 日がな一日別々にいて、夜も一人ではさびしすぎる。それに一緒に寝ればきっと伏羲も元に戻るだろう。今日は駄目でも明日の朝には元に戻ってくれるだろう。
 それでも、おずおずと寝室に入り込んだ楊ぜんを伏羲は優しく迎え入れてくれた。楊ぜんは漸く安堵のため息をついて伏羲の横に滑り込む。
 しかしかけられた言葉は楊ぜんが期待していたものとはまったく別のものだった。
「わしの妻になる決心がついたか」
「え……」
「ここにやってきたというのはそういうことであろう?」
「……あ。はい」
 やはり伏羲はおかしい。楊ぜんはただいつもどおりにしたいだけなのだ。
「あの、お兄様……」
「伏羲だよ。楊ぜん」
 伏羲の瞳の奥にかすかな苛立ちを見たような気がして楊ぜんは黙り込んだ。自分は一体どんな失敗をしたというのだろう。なぜ伏羲は怒っているのか。なぜそれを楊ぜんに隠そうとするのか。
 泣き出してしまいたいけれど、泣けばきっと伏羲の機嫌が悪くなるだろう。楊ぜんは必死で涙を飲み込んだ。
 おびえているな。楊ぜんの様子を目の当たりにして伏羲は思う。
 無理もない。こやつは本当になにも知らぬのだから。
 安心させるように抱き寄せて、手櫛で髪を梳いてやる。細い身体がおとなしく伏羲に従う。成長途中にある楊ぜんは、身長に体重がおいついていない。細く華奢で無理に抱きしめたら壊れてしまいそうだ。
「伏羲様。あの、お話……」
 懸命に日常を取り戻そうとする楊ぜんはいつものように伏羲にねだろうとするが上手くいかない。昨日と今日との間に、一体どれだけの溝があったのか、果たしていつその溝を飛び越えてしまったのか楊ぜんには判らない。
「駄目だよ。楊ぜん。寝物語はまた今度だ」
 伏羲は笑う。
「そうだ。偶にはおぬしが話してみればよい」
「僕? だって僕のことは伏羲様が全部知っているでしょう?」
「さあ、どうかのぉ。おぬしから直接聞いたことはないからのぉ」
 そういって伏羲は楊ぜんに覆いかぶさる。楊ぜんは驚いて目を見開いた。手首をつかまれ身体で圧迫され身動きできない。自分にかかる伏羲の体重が重たくて息苦しい。なにより、こんなに近くで見詰め合うのは初めてだ。吐息が直接頬にかかるほど近く。
「どうした? 楊ぜん話してみよ」
「僕は……」
 促され何か言おうとするが、頭が混乱して何も出てこない。
「誰が好きだ?」
「……伏羲様」
 答えると同時に唇を吸われ、頭がくらくらした。驚いて逃げようとしても、伏羲の唇はどこまでも追ってくる。薄く開いた唇から、舌が口内に入り込む。ぞくりとする。口の中でうごめく舌が気持ち悪い。押しのけようともがいてみるが、自分が苦しくなるだけで、そのうち本当に頭に酸素がいかなくなって楊ぜんはぐったりした。
 やっと伏羲が唇を離したときには楊ぜんは抵抗するだけの気力も残ってはいなかった。浅く呼吸を繰り返す。接吻で赤くなった唇が伏羲を誘う。
「綺麗だよ。楊ぜん」
 伏羲が何を言ったのかも判らず、ただ嫌だと楊ぜんは首を振った。
 かまわず伏羲はその首筋に口付ける。
「いたっ」
 薄い皮膚は強く吸えば赤黒く鬱血する。それを見ると伏羲は満足そうに微笑んだ。嫌だ。怖い。これはやはり楊ぜんの知る「お兄様」ではないのだ。
 襟首に手をかけぐいっと左右に開けば、胸元までがあらわになる。日のあたらない肌の色は一層白く、肉の薄い身体はわずかに震えている。
「なにを……なさるのです……」
「痩せているな」
「え?」
「ほらこんなに」
 伏羲はそういって、楊ぜんのくっきりと浮き上がる鎖骨をなぞり、それから手のひらを楊ぜんの胸に押し付けるようにしてゆっくりと肋骨の位置を探る。その手のひらの生暖かさが楊ぜんにはどうしても気持ち悪い。
「骨の所在がくっきりと見て取れる」
 ぎゅっと目を瞑って楊ぜんは首を振った。
「嫌です。伏羲様」
「どうして?」
「どうしてって……」
 楊ぜんは顔を背ける。理由なんかない。嫌だからいやなのだ。それなのにどうして伏羲は判ってくれないのだろう。やめてくれないのだろう。
 伏羲は笑っただけで、今度は唇で楊ぜんの身体を探り出す。手のひらとはまた別の柔らかいものが身体を這い回り、その唇が這った場所から指先がしびれるような感覚が徐々に身体の中心へと集まってゆく。びくりと身体が震える。やがて伏羲は舌をだし、ぴちゃぴちゃと音を立てて楊ぜんの身体を愛撫する。羞恥心に泣きたくなる。どうして自分がこんな目にあわなければならないのか判らない。
 それなのに身体は反応する。得体の知れない感覚は身体に蓄積され、加えられるたびにより深まって楊ぜんを翻弄する。楊ぜんは歯を食いしばって耐えるしかない。
 つんつんっと伏羲が楊ぜんの強張った頬をつついた。
「我慢せずともよいよ。声を出してごらん」
「……声?」
 かけられた伏羲の声は以外にも優しく、楊ぜんは安心してほっとため息をついた。
「ひぁっ!」
 しかし次の瞬間には愛撫が再開される。蓄積された感覚が、出口を求めて身体のなかを駆け巡っていく。頭がおかしくなる。
「いやぁ! やだ! やめ……」
 ろれつの回らない口で楊ぜんは静止を訴える。逃げ出そうと無理に暴れようとしても、手にも足にも力が入らずふにゃりとした抵抗しか出来ない。
「おぬしはもう少し可愛げのあることが言えぬのか」
 伏羲は左手で逃げ出そうともがく楊ぜんの左足首を捉えゆっくりと上に向かって撫で回す。細い足の形と滑らかな肌を愉しみ、楊ぜんの声が艶を含むのを待つ。手のひらに吸い付いつくような柔らかい肌は、伏羲を満足させるのに十分なものだった。
 しかし、否定しか口にしない楊ぜんに苛立ちは募る。苛立ちに任せて楊ぜんの袴を脱がせ、その足の間に手を伸ばした。
「いやぁ」
 閉じようとする足の間に無理やりに身体を割り込ませる。手にしたものを丹念に愛撫してやるとびくびくと反応を返す。楊ぜんは未だ身をひねり無駄に逃げ出そうともがくが、それすらまるで誘っているように伏羲には見える。身体が熱くなる。蠢く身体を無理に体重をかけて押さえつけ、後ろに手を伸ばす。柔らかい肉を愉しみ、双丘に分け入る。やがて体内に侵入するとびくんと楊ぜんの身体がはねた。伏羲の身体を押しのけようとしていた腕の力が弱まり、やがてぎゅっと伏羲にしがみつく。もはや抗う気力もないのか、ただ楊ぜんのすすり泣く声が聞こえる。
 哀れと思う反面、それがより一層伏羲の官能を刺激する。楊ぜんを強く抱きしめ、耳元でささやく。
「楊ぜん……、おぬしを愛している。ずっとこうしたかった。おぬしは、わしの妻に……」
 楊ぜんには何も聞こえていない。
 泣きじゃくる瞼に接吻し、こぼれた涙を唇で吸う。着物を脱ぐのももどかしく、楊ぜんの身体に進入する。締め付ける熱さに頭の中が真っ白になる。弱い抵抗しか返さない楊ぜんを伏羲は思うがままに蹂躙した。

 明け方に楊ぜんは目を覚ましたが、すでに伏羲は隣にはいなかった。泣きすぎたせいで頭がずきずきと痛む。体中が汗や、考えるのも嫌な気持ちの悪いものでぐっしょりとぬれている気がする。気持ち悪い。吐きそうだ。頭の中がぼんやりとしてうまくものが考えられない。寝返りをうとうと身じろぎした瞬間に、腰からびりっと強い痛みが走った。昨夜のことを思い出し、恥ずかしさといたたまれなさに泣きたくなる。
 酷い。酷い。あんまりだ。
 こらえきれずに涙がこぼれた。一度こぼれてしまった涙は止まらない。
「楊ぜん様、どうなさいましたか」
 漏れてしまった嗚咽に、心配して女官が声をかけるが、とても恥ずかしくて答えられない。
「……大丈夫です……放って置いてください……」
「でも、楊ぜん様」
 近づいてくる気配に楊ぜんは慌てて叫んだ。
「お願い、来ないで!」
 叫んだ瞬間にびくっとまた痛みが走る。
 しばらくして、先ほどの女官が呼んだのか伏羲が顔を見せた。楊ぜんは一層身を強張らせ、伏羲から遠ざかろうとする。
「おはよう。楊ぜん。起きたのか」
 伏羲は優しい微笑を見せるが、楊ぜんにはもうそれが信じられない。
「嫌です。あなたの顔なんか見たくもない!」
「身体が辛いのか、楊ぜん」
「来ないでっ!」
 伏羲が一歩近づけば、裏返った声で悲鳴を上げる。顔はすでに涙でぐしゃぐしゃだ。
 手負いの獣のようだ。埒が明かないと伏羲はつかつかと楊ぜんに詰め寄り、逃げようとする楊ぜんを無理やり抱きしめた。
「嫌だ。嫌っ。いやぁー!」
 暴れる楊ぜんを押さえつける。抵抗の無駄を知って楊ぜんはまたしくしくと泣き出した。
「酷いこと……しないで……」
「しないよ」
 伏羲は静かに言って、そっと楊ぜんの髪を撫でた。暴れたせいでこんがらがってしまった髪も二、三度手櫛で梳くとするんと綺麗に解ける。抱きしめた小さな肩が震える様は痛々しい。昨夜のことはあせりすぎたかと反省する伏羲だが、彼の気持ちももはや抑えられるものではなくなっていた。
「おぬしが愛しいよ。楊ぜん。あいしておる」
 伏羲の腕の中で、楊ぜんは若干落ち着いてきて、涙をぬぐい嗚咽をかみ殺そうとする。
「あいしておるから、どうしてもおぬしが欲しくて、あんなことをしてしまったのだ」
 右手はぎゅっと伏羲の着物をつかんだままで楊ぜんは恐れにびくっと震えた。
「楊ぜんが好きだよ。おぬしが一番好きだ。だから、一番欲しい」
「……もう、しませんか?」
「いや」
 伏羲の答えに楊ぜんはまたうるうると瞳に涙をためた。それが流れ出す前にちゅっと音を立てて伏羲は楊ぜんの頬に接吻する。
「あいしているから、何度でも欲しい。でも、おぬしがいいというまではもう何もしないよ」
 楊ぜんはこくんと頷く。
「許してくれるか?」
 少したってから、楊ぜんはまたこくんと頷いた。そして、ぎゅっと伏羲に抱きついた。伏羲の胸に顔をうずめて訴える。
「とても……怖かったのです。もう嫌です。あんなの」
「もう嫌か?」
「はい」
「でも、楊ぜん。わしはとても嬉しかったよ。おぬしがわしの妻になってくれて」
「妻?」
 楊ぜんは不思議そうに伏羲を見た。
「でも、僕……」
 皆まで言わせず伏羲は答える。
「おぬしはもう、男になどならずともよい。わしの妻になったのだから。ずっとわしのそばにいてくれるな楊ぜん」
「はい」
 楊ぜんはこんどははっきりと頷いた。
「またわしを受け入れてくれるな」
 これにはさすがに頷くことは出来そうもなかった。楊ぜんは許しを請うように伏羲の胸にすがりつく。それでも、そう遠くない未来にそうなるだろうということは漠然と感じていた。自分はまたそれを受け入れるのだろう。何度でも、伏羲が望むのならば。
「伏羲様」
 伏羲の胸で、ぽつんと楊ぜんはつぶやいた。
「あいしています。ずっと」

end.

novel.