花散る里(三)



 夜のないこの世界では日付の感覚がおかしくなる。
 楊ぜんは気まぐれに太公望の部屋を訪れては一方的なおしゃべりをして帰ってゆく。散歩の途中で出会うこともある。そんなときに太乙真人に出くわすと、決まっていやな顔をされたが玉鼎真人が何か言ったのか文句を言うことはなかった。
 部屋でまどろんでいると楊ぜんが顔を出した。毎度のことなので太公望はうつらうつらしながら、おいで、という。楊ぜんは部屋に入ると太公望の前にちょこんと座る。そして太公望が起きるのを興味津々といった顔でじっと待っている。太公望は起き上がるとごしごし目をこすって、ふわぁと大きくあくびした。
「楊ぜんはいつも元気だのぉ」
 楊ぜんはにこにこして何か答える。
「今日は何の話をしようか、もう現世の話はあらかた話し終えてしまったような気もするが」
 楊ぜんは小さく首をかしげる。
「そうだ。おぬしのことを教えておくれ。おぬしは何が好きなのだ?」
 ただ、楊ぜんが一生懸命話す姿が見たくて、太公望はそうたずねた。
 楊ぜんは楊ぜんは身振り手振りで説明する。胸の前で手を丸く動かして。
「ボール? ああ、あの赤い鞠か。そういえばあれはお気に入りだったのぉ」
 楊ぜんはくすくす笑う。次に自分の髪をちょっと引っ張る。
「綺麗な髪だのぉ」
 すると楊ぜんはちょっと首をかしげ考える風をする。違ったらしい。もう一度髪を下のほうまで伸ばすしぐさをする。
「うーん。伸ばしたいのか? 違う? ああ、判った玉鼎か」
 にこりと楊ぜんは微笑む。それから今度は肩の辺りを指差した。太公望はちょっと考える。
「ああ。判った太乙だな。おぬし太乙も好きなのか。気が多いのぉ」
 太公望は笑った。実を言うとちょっと悔しかった。
 それから楊ぜんはにこりと笑って太公望を指差した。
「わし?」
 こくんと楊ぜんは頷く。
「おぬしわしのことも好きか?」
 もう一度楊ぜんは頷いた。太公望は心が急に温かくなったような気がして、自然と顔がほころんでしまう。
「嬉しいのぉ。わしも楊ぜんのことが好きだよ」
 告げると楊ぜんはにこりと微笑んだ。
 綺麗で可愛くて素直な楊ぜん。不意に抱きしめたい衝動に駆られる。手に入れたい。自分だけのものにしたい。贄になどやりたくない。
「のぉ、楊ぜん。わしと一緒に……」
 言いかけた言葉を太公望は飲み込む。
 駄目だ。こやつはわしと一緒に生きることはできぬのだ。この里を出たら、楊ぜんは生きていけないという。
 もともと違うものなのだ。あきらめろ。こやつは人ではないのだ。太公望は自分の心に言い聞かせようとする。しかし好きだという想いはそう簡単に止められるものではない。凶暴な想いが駆け巡って、身体が引き裂かれるほどに。苦しい。
 黙りこんでしまった太公望を楊ぜんは心配そうに見つめる。何を思ったのか、そっと手を伸ばし太公望の頬に軽く添えた。ひやりとした手が太公望の頬を撫で、美しい顔が太公望の顔を覗き込む。心配そうに口を開く。太公望は楊ぜんの顔を見つめた。瞳があった。どきりとするほど澄んだ瞳のその奥に飲まれそうになる。
 おびえたように楊ぜんが目をそらした瞬間、太公望は掠め取るように楊ぜんに口付けた。
 ぱっと身を離すかと思えた楊ぜんは、小さく固まって太公望をじっと見つめる。太公望はそんな楊ぜんを抱きしめて、もう一度接吻した。
 腰に手をやり、軽く肩をおすと、楊ぜんはゆっくりと仰向けに倒れる。長い髪がさらりと扇形に広がり、澄んだ瞳が何か言いたそうに太公望を見つめる。太公望はそっと楊ぜんの頬を撫でた。
「今、この場でおぬしを穢してしまえたならば、おぬしは贄になどならずにすむのだろうか」
 楊ぜんは微笑んで、そして首を横に振った。
「どうしてなのだ? おぬしはそれで幸せなのか?」
 楊ぜんはちょっと考えて何か言う。
「わからぬよ。楊ぜん。わしにはわからぬ」
 楊ぜんはちょっと困った顔をして、ゆっくりと白い手を伸ばし太公望の頭を抱きかかえるようにしてぎゅっと自分の胸に押し付けた。鼓動が聞こえる。太公望は目を閉じた。暖かい春の日差し、満開の桜の夢を見た。夢の中で太公望は楊ぜんの手を引いて歩いていた。夢の中の桜ははらはらと散り続けていた。
 次に太公望が目を開いたとき、すでに楊ぜんはいなくなっていた。

 その翌日珍しく太乙真人が太公望の部屋を訪れた。
「楊ぜんはここにはおらんぞ」
 先回りして太公望は答える。
「わかってるよ。楊ぜんは今禊をしている」
 太乙真人は言った。
「禊?」
「贄になる準備だ」
「そんな……楊ぜんが贄になるのはもっとずっと先の話だとばかり……」
 唖然として太公望はつぶやく。
「そんなこと君には関係ないだろう」
 イライラした様子で太乙真人は言葉を急ぐ。
「それよりいいニュースだ。霧が出た」
 太公望はきょとんとした。
「霧? 霧が出るのがどうしていいニュースなのだ?」
「鈍いなぁ、君は。出口だよ。君は霧の中を通ってこの里に着たんじゃなかったのかい? だったら当然、帰りだって霧の中を通るだろう」
 そういえばと、太公望は思い出す。普賢とドライブしていたのがもう遥か昔のような気がしていた。
「荷物をまとめてさっさと帰ったらどうだい。君の住む世界へさ」
 腕組みして太乙真人は言った。太公望は苦笑する。
「おぬしは相当わしを厄介払いしたいらしいのぉ」
「当たり前じゃないか。居候の分際で楊ぜんにちょっかいを出すなんて」
「その楊ぜんに挨拶してから帰りたい」
「楊ぜんはもう君とはあわせないよ」
 太乙真人は首を振った。
「なぜだ? そういう決まりでもあるのか? 楊ぜんと逢えぬのならわしもここを動かん」
「厄介な奴だな。家に帰りたくはないのか?」
 家、大学、コンビニ、高層ビル街、文明社会、そして何よりも夜。帰りたくないといえば嘘になる。しかし楊ぜんとこのまま離れ離れになるのは嫌だった。
「せめてさよならを言うくらいいいであろう。おぬしが駄目だと言ったら玉鼎を説き伏せる」
 ため息をついて太乙真人は首を振った。
「好きにすればいい」
 太乙真人が帰った後、太公望は外に出た。桜の森を途中まで歩くと太乙真人が言ったとおり白く濃い霧がかかっている。この向こうに現世がある。太公望は目を凝らしたが霧が濃すぎて何も見えなかった。
「もう帰るのか」
 声をかけられ振り返ると玉鼎真人が立っていた。太公望は首を振る。
「いや、こちらから見る霧を確認しようと思っただけだ」
「そうか」
「のぉ。楊ぜんはいつ贄になるのだ?」
 慎重に言葉を紡ぎ玉鼎を見上げる。
「お前が行ったらすぐに儀式を始めようと思っている」
「わしが行ったら、か」
「ああ、本当はもっと早く始めても良かった。しかしお前がいるとあの子の心が騒ぐようだからな」
 太公望はどきりとした。
「それは、楊ぜんがわしを……」
「好きでもないものに自分の枝を贈ったりはしないさ」
 太公望は胸元にある楊ぜんの枝をそっと手に取った。光り輝くような美しさは何日もたった今も色あせることなくそこにある。
「のぉ、玉鼎。もしそうなら、楊ぜんを贄からはずすことは出来ぬのか? 代わりにわしがずっとそばにおるから、幸せにするから。そういうことは、できぬのか?」
 玉鼎真人は静かに首を振った。
「太公望、それはできない。私たちにとって君たちの生などほんの一瞬に過ぎない。君が一生楊ぜんを幸せにするといったところで、そしてそれを君が本当に実行できたところで、楊ぜんにはそれはつかの間の幸せに過ぎないんだ。つかの間の幸せのために永遠の幸せを棒に振るようなことはさせられない」
「そうか」
 太公望は悲しいため息をついた。楊ぜんのために、何が一番幸せなのか。
「せめて別れを言いたい。楊ぜんにはもう逢えぬのか」
「いや、何とかしよう。明日時間を作る。君は最後に桜でも見ていきなさい」
「かたじけない」
 行ってしまった玉鼎真人を見送った後、太公望もまた歩き出した。桜の森の奥の奥。咲き誇る桜は数あれど、見たい桜は一つしかなかった。
 迷いながらも太公望はたどり着いた。細い若木。光るような美しさ。その日一日、太公望は楊ぜんの桜の木を、ただ眺めてすごした。

 翌日はあわただしく始まった。
 荷造りする荷物も持たずにこちらの世界へやってきてしまった太公望は、楊ぜんに貰った桜の枝のみ持って霧を背に立っていた。こちらの世界も今日までと思えば、一面の桜霞はやはり名残惜しい。カメラでもあればよかったのにのぉと太公望は思う。そう、カメラでもあれば楊ぜんの写真も撮って置けたのに。しかし、考え直して首を振った。夜毎女々しい思いをしそうだ。この里も楊ぜんも結局春の幻に過ぎない。そう思うことにしよう。
 やがて玉鼎真人と太乙真人につれられて、楊ぜんがやってきた。いつもの小袿ではない。目にも鮮やかな十二単。太公望の姿を見つけると、走りにくそうに駆けてくる。太公望の目の前でぴたりと止まったときにはその瞳はすでに涙で潤んでいた。
「綺麗だのぉ楊ぜん。お姫様みたいではないか。それなのに泣いておったりしては駄目であろう?」
 楊ぜんは何か言って、ぐいっと手の甲で涙をぬぐった。
 太公望はそっと楊ぜんの髪を撫ぜる。
「おぬしとずっと一緒にいたかったが、わしではおぬしを幸せにしてやることが出来ぬのだそうだ。だから楊ぜん、おぬしは神の世界でちゃんと幸せになるのだぞ」
 楊ぜんはじっと太公望を見つめた。
「枝をありがとう。おぬしにあえて、わしはとても幸せだったよ。良かったよ。おぬしも、そう思っていてくれたら嬉しいのぉ」
 楊ぜんはこくんと頷いて何か言った。
「ありがとう、楊ぜん」
 美しい楊ぜんの顔をじっと見つめる。目に焼き付けるように。そして太公望は言った。
「さよなら、楊ぜん」
 きびすを返し歩みを進める。一歩進むごとに霧が濃くなり、一歩進むごとにひんやりと肌寒い。一歩ごとに楊ぜんが遠くなり、すべてが春の見せた幻になる。
 さようなら、楊ぜん。幸せにおなり。
 わしの知らない遠いところで――
 ざわり、と空気が動いた。何か音がした。
 駄目だ。
 そう聞こえた。
 ――駄目だ、楊ぜん! 行っちゃいけない!
 楊ぜん?
 太公望は振り返る。振り返って――
「駄目だ。楊ぜん! おぬしこっちへ着ては!」
 楊ぜんが太公望の後を追って走ってきていた。太公望は慌てて楊ぜんを押しとめようとするが、足が重く、もと来た道を戻れない。楊ぜんは必死で太公望めがけて走ってくる。
 太公望は両手を伸ばした。
「楊ぜん!」
 ぱっと楊ぜんの顔が明るくなる。
 そして太公望の腕の中に飛び込んでくる。
 やわらかい絹の感触。細い楊ぜんの身体。ぎゅっと抱きついてくる。
 その感触が、突如として消えた。
 ぱっと花びらが舞散った。
 ひらひらと、ひらひらと、それは太公望の上に降り積もった。
 動けなかった。
 花びらになって、ひらひらと。楊ぜんの花びらが、空を舞う。

 どうして。
 幸せになれたのに。
 永遠の幸せを、得られるはずだったのに。

「望ちゃん! よかった、心配したんだよ」
 突然太公望は現実に引き戻された。
「もう、どこ行ってたの!」
 心配して泣き出しそうな、でもとても怒っている声。
「普賢? おぬし、普賢か?」
 見慣れた幼馴染の顔がそこにあった。
「もう、何言ってるの望ちゃん! 頭でも打ったの?」
 安心したのか普賢真人はくすくすと笑った。
「ねぇ、大変だったんだよ。望ちゃん、みんな、もう3時間も探してくれてるの。お礼言わなきゃ駄目だよ。ちゃんと」
「3時間? 3時間というと、いつから3時間だ?」
「何言ってるの、目の前に変な岩が、現れてから……。あーっ。あの岩消えちゃったんだよ。でも望ちゃんも見たよね。おかげで僕うそつき呼ばわりされちゃてさぁ」
「まだ3時間しかたっておらんのか……」
 太公望は来た道を振り返った。霧は綺麗に消えてしまっている。楊ぜんの花びらも落ちてはいない。もちろんあの満開の桜の森もない。
 本当にすべてが夢だったのだろうか、春に見た儚い幻。そう思ったとき普賢真人が声を上げた。
「あれ。望ちゃん。桜の枝なんか持ってる」
 楊ぜんのくれた枝がそこにあった。光るように美しい楊ぜんの花。
 涙がこぼれた。
「え、ちょっと、望ちゃん。どうしちゃったの?」
 黙って涙を流す太公望に普賢真人は心配そうに尋ねる。
「普賢……、桜が散ってしまったよ……大好きだったのに、散ってしまった……わしになんか、出会わなければ……」
 それ以上は言葉にならなかった。楊ぜんの笑顔を思い出した。決して夢じゃない。忘れることなど出来ない。鞠を追いかけて現れた小袿姿の少女。決して聞くことの出来なかった笑い声。枝を折った白い指先。
 普賢真人は何も言わなかった。黙って太公望が落ち着くのをじっと待っていた。
 そして大分たってから、小さく言った。
「でもね、望ちゃん。桜は散るからこそ美しいんだよ。その一瞬が美しいんだよ。そして、散るから来年もまた春がくるんだよ。花が咲くんだよ」





end.

novel.